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新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳

2021-08-16 16:59:12 | 日記
新約聖書「ヨハネによる福音書」新共同訳
第5章 御子の権威
19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
23 すべての人が、父を敬(うやま)うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
26 父は、御自身の内に命をもっておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 
27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

現象に「自己」は無い

2021-08-16 13:18:45 | 日記
現象に「自己」は無い

現象に「自分」は無い。
じゃあ、今自分だと思っているものは「自分」じゃないのですか、
と問われれば
「本来の面目は他にある」
とうことなのだ。
本来の面目は“神の子”という視えない「神」である。
現象世界で自分と思っているものは
本当の自分じゃない。
本当の自分は不生不滅の「霊的原型」であり、
そのものが時間・空間世界に
一瞬一瞬の映像の継続として、
映写されているのである。
映写のレンズのフィルムこそがこの“神の子”なる霊的原型であり、
円満完全なる神の「霊的設計図」であり、
それが現象の奥に実在しているわけであり、
それだけが展開している現象の本体であるから、
現象に不完全が生じていたとしても、
そんなもの実在じゃないと決め込んでしまって、
実在の「神の国」への「信」を確信にもっていくべきだ。


「神」は既に汝の内にあるけれども幼な児の心で素直にみとめない時はあらわれないのである。

2021-08-16 12:09:51 | 日記
「神を自己の内に素直にみとめる」のは
【自己の「内」に“神の子”がいて“神の国”がある】
からである。
その「内」に
神と共なる“神の子”なる「霊的原型」が
存在しているからである。
(神と偕に生きる真理365章)
【神想観は「内部的生まれ更り」をするためにこそ行ずべきである。「神」を自己の内に素直にみとめるのである。「神」は既に汝の内にあるけれども幼な児の心で素直にみとめない時はあらわれないのである。神想観は「神わが内にありたまい、われ神の内にある」実相即ち真実を観るのである。神は一切の“善き物”を自己の内に蔵したまい、それを我らが素直に受けることによって、その「善き物」が現象的にも展開するのである。神を自己の内に素直に見出し、それを受けることが最初の出発であり、最後の結着でなければならない。神と別なるもの、神の善意に相反するもの、他を押しのけて自分が利益を得るもの・・・それらのものを神想観中に求めたりするならば、それは神想観の本質を破壊してしまうことになるのである。神はすべての「善」である。神以外のものを求める必要はないのである。】
 
 

「汝、心をつくし、精神をつくし、魂をつくし、力をつくして汝の神を愛せよ」とキリストが言ったことは、自己の神性を自覚するための最も近道であるのである。

2021-08-16 11:41:35 | 日記
「私たちの心を、唯、内在の神のみに振り向けよ。」
このことが神想観には大事である。
因みに私投稿者は
神の肖像(にすがた)である霊的実相つまり“神の子”のみを、
観じる神想観を実修している。
(神と偕に生きる真理365章)
【私たちの心を、唯、内在の神のみに振り向けよ。病いに振り向けるな、貧乏に振り向けるな。これが自己の神性を自覚する最勝最善の近道である。「汝、心をつくし、精神をつくし、魂をつくし、力をつくして汝の神を愛せよ」とキリストが言ったことは、自己の神性を自覚するための最も近道であるのである。現象界の形ある何物かを求めるよりも、「神」そのものを求める方が、根源を求めることになり、その余のものは根源より流れ来っておのずから調うことになるのである。しかも「形あるもの」を最初から求めた人の如く、形ある事物に執着し、縛られ、それを失うまいと恐怖する必要もなく、唯流れる滝の水を必要に応じて汲むが如く、執着なくして、豊かなる生活を享受することができるのである。ひとたびこの境地に達したならば「持たずして豊富に享受する」と言う聖境を味わうことができる。】
 

現象を自由な心を使って造りつつある“神の子”が、同時にその作られつつある現象を鑑賞している。

2021-08-16 11:18:48 | 日記
現象を自由な心を使って造りつつある“神の子”が、同時にその作られつつある現象を鑑賞している。
 
現象世界は
画家が絵を描くようなものである。
画家であるのは
神の肖像(にすがた)である“神の子”である。
カンバス(画布)であるのは、
時間空間の現象世界であり、
“神の子”が
時間空間世界に
エーテル波動を素材として
「自由なる心」つまり絵筆と絵の具を使って、
画家が一枚の絵を描くがごとく、
人間の人生という一枚の絵を
描くのである。
人生は“神の子”が霊的原型に基づいて描く一枚の絵だ。
だから現象世界を創り出している主人公は、
現象人間とは別に
不生不滅なる別の次元に
存在しているのである。
ここで大事なことがある。
描かれた絵を観て、
これはうまく描けた、あるいはこの絵は失敗作だとか判断するのも
絵を描いたまさにその画家であるということだ。
現象世界を創作している“神の子”がいると同時に
描かれた絵をまさに見て味わっている見えない“神の子”も
今ここにいるということだ。
現象を自由な心を使って造りつつある“神の子”が、
同時に作られた現象を現に今観ているのだ。
 
 
 
現象