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ただ一つの神様は、見えない「超」的存在である。

2021-08-07 16:55:41 | 日記
ただ一つの神様は、見えない「超」的存在である。

神が創造した、
実相世界、
全知・全能・遍在の「見えない神の理念世界」、
これ以外には、
神は存在していないのである。
宇宙にはただひとつの神さまがいて、
それは現象的な存在でなく、
「超」的存在である。
しかも「内」に存在している。

此の世界は争い合いの世界である、と思うような人が田を耕したり、植え付けをしたりすれば、きっと害虫というような争うものが現れてくるのであります。

2021-08-07 13:49:26 | 日記
此の世界は争い合いの世界である、と思うような人が田を耕したり、植え付けをしたりすれば、きっと害虫というような争うものが現れてくるのであります。
すごく興味深い真理のことが、
興味深い実例で説明されていたので、
参考に引用いたしました。

(参考 真理第三巻 第14章 実相の自覚を現象化するには)
<実相と現象との区別>
 此の世界には実相、すなわち神のつくりたまえるそのままの相(すがた)の世界と、現象すなわち「あらわれの世界」とがあるのです。神のつくりたまえるそのままの世界の相を実相というのです。このそのままの世界では、神はすべてのすべてであり無限の智慧であり、愛であり、供給であり、生命でありますから、ありとあらゆるものが完全に善く備わっており、共存共栄の世界でありますけれども、それを吾々が争い合いの世界だという心の眼鏡をかけて、それを覗きますと、互いに争うているように見えるのです。青くない景色でも青い眼鏡をかけて見ると、全体が青く見えるでしょう。それと同じように、此の世界は争い合いの世界である、生存競争の世界である、憎み合いの世界であると思って見れば、そういう心の眼鏡の色によって、そう見えてくるのです。ですからそういう人にとっては、そういう人が田を耕したり、植え付けをしたりすれば、きっと害虫というような争うものが現れてくるのであります。

吾等は唯、高所より来たる水路を開いて、その水を流下せしむれば好いのである。水を高所より自己の内へ流入せしめよ。空虚なる溜りは何の労苦もなしに一杯になる。

2021-08-07 12:19:27 | 日記
病気や不幸はただ実相の虚(不在)であるのだ。
実相流入の水路を描いて、
実相の大河を流入せしめよ。
それには“神の子”即ち「神」を観じるのである。
これが基本だ。
神と親子になるのだ。
神は愛である。
愛が聖癒を呼ぶのである。
(心と運命 谷口雅春)
【愛によって吾等と「宇宙霊」との結合がなされたならば吾等はあらゆる不幸に対する「聖癒」の大神秘力が何処(いずこ)より来たるかがわかるであろう。何となれば、愛、生命、及び美は「完全」の象徴であり、その反対は「不完全」、完全の欠乏、又は恐怖、死、無智、欠乏及び苦痛の象徴であるからである。されば病気を癒すには、何者かが欠乏したけ結果そうなったところの欠陥に鋳掛け継ぎをする必要はないのである。それよりもその欠乏せるところの原因に供給すれば好いのである。病気は消極的なる要素に基づいて生ずる。それ故吾等はそれに積極的なる要素・・・愛・・・を供給することによって癒やすことが出来る。これは誰でもが行うところの「空虚」が出来たら「充足」すれば好い・・・と云うところの原理である。
 人は「空虚」に対いて零(こぼ)すことも、不快(いや)らしい臭気について不平を云うことも、その醜さについて悲嘆することも要らないのである。吾等は唯、高所より来たる水路を開いて、その水を流下せしむれば好いのである。何と云う雑作もないことだろう・・・水を高所より自己の内へ流入せしめよ。空虚なる溜りは何の労苦もなしに一杯になる。結果は原因によって変化する。】
 

『若し誰にてもあれ、渇かば吾れに来たりて飲め。吾れを信ずる者は聖書に録されたる如く、その内より生命の水、河の如く流れ出でん』

2021-08-07 11:49:39 | 日記
吾等が為すべきは
内なる「霊」を流入させればよいのである。
そしてこの「無限生命」への接触は、
真理を知ることと祈りが基本の方法であるが、
愛によって完成する。
純粋で聖なる愛が
実相の大河が流入する導火線となる。
神を愛することが「愛」なのである。
愛は「無我」になって現われるのである。
だが愛の完成ということは
一気にできることではなく、
人が“神の子”を顕わすときと、
一緒なのである。
(心と運命 ヘンウィック・ホルムス著 谷口雅春訳)
【吾が哲学の大教主は如何によくこの原理を了解し給うていたことであろう! 「終りの日、饗宴の大いなる日にイエス立ちて叫びて云えり。『若し誰にてもあれ、渇かば吾れに来たりて飲め。吾れを信ずる者は聖書に録されたる如く、その内より生命の水、河の如く流れ出でん』・・・しかしこれは彼を信ずるものが受くべきところの『霊』(みたま)について言えるなり。」と。此の場合「吾れを信ずる者は」と云う「吾」によって耶蘇は内在する「大我」のことを云い給うたのである。何故なら耶蘇は明らかにそれを「霊」(みたま)に関連して語り給うたからである。それ故に吾々はここに光栄ある人間の本性と、その内在の「癒やす力」とについて一層明らかに知る事が出来たのである。若し誰にてもこの「貯槽」の底に穴を穿って、パイプを通ずるならば、水すなわち「霊」は、あたかも噴泉のように自己の内を充たすであろう。】
【ギリシャ語で「霊」はpsyche即ち「生命」を意味するのである。。果たして然らば吾等が吾が内奥の噴泉より「霊」を流入せしむる時、其処には死も病気も欠乏もあり得ないのである。そしてこの「無限生命」への接触は愛によって完了する。】