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“心の清き者”とは、イエスの訓えを遵守する者であり、唯“神”のみを見るのである。このような人々は、罪と病と死との現象界の法則に縛られなくなるのである。

2021-08-12 11:42:57 | 日記
イエスの教えを遵守する人は、
現象に「神」(神の理念)のみを
見ることになる。
実相独在の真理と一体化するのである。
そのとき、
罪と病と死との法則に縛られなくなるのである。
マタイ伝5:8【心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。】
 
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【「汝は真理を知らざるべからず、真理は汝を自由ならしめん」と言い給うた語によって、イエスは何を意味したのだろうか。この語はイエスを信じたるユダヤ人に言い給うたのである。そしてまた言い給うた、「汝らもし常に我が言に順(したが)って生活するならば、真にわが弟子なり」
 そこに集まっている人々は、日々彼の教えを受けた人々・・・即ちイエスの弟子であった。だから彼の教えに順うべきであり、彼の教えに順うならば真理を知ることになり、真理を知れば真理はそれを知った人を“迷い”から解放して自由ならしめるといわれたのであった。すべての“癒し”は、各人を“迷い”から解放するところの“真理”を知るという一事に依って生ずるのである。
 ノルウィッチのジュリアンはこう言った。「神に向かうとき罪は消えて罪を見ることはできない」と。イエスはこの事を「心の清き者は神を見ることを得」といって表現したのであった。“心の清き者”とは、イエスの訓え給いし誠を着実に遵守する者であり、かかる人は、唯“神”“のみ”を見るのである。それゆえに、このような人々は、罪と病と死との現象界の法則に縛られなくなるのである。イエスはこの事をいかにもハッキリと悟り給うたので、この悟りを全人類に領ち与えたいと欲せられたのであった。】
 

旧我を投げ棄てたとき、わたしは真の自我を発見する。わたしは人生の“しがらみ”に縛られる奴隷ではなくして人生を支配する主人公となるのである。

2021-08-12 11:13:52 | 日記
人間我を投げ棄てたとき、
代わりに神我が流入するのである。
此の世が「見えない“神の国”」と
感じられるようになり、
ということは、
物質の世に「神の国」が現われるのである。
ではどうやって人間我を投げ棄てるのか、
ということになる。
真理を知ることと神想観の実修によってである。
業は存在しないのであるが、
業が消えるための信仰的手続きを、
行うから業は消えるのである。
業消滅のための方法は取らねばならない。
旧我を棄てるための努力は
惜しんではならない。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【それには不適任だとかいう劣等感のすべての感情から反転して、わたしは、今自分の内に必要なすべての資質も能力も存在することを発見するのである。わたしは、今、わたしの内に、わたしの必要とするすべてのものを発見するのである。過去を放ち去るに隋って、わたしは贖(あがな)うべき何ものも持たないことを発見するのである。また免れんとして逃げ出さねばならぬどんな業障も存在しないことを発見するのである。旧我を投げ棄てたとき、わたしは真の自我を発見する。わたしは人生の“しがらみ”に縛られる奴隷ではなくして人生を支配する主人公となるのである。旧き習慣、悪癖の如きものはわたしを支配する何らの力をも持たないのである。環境条件等はわたしを支配するどんな力をも持たない。性格がどうのこうのといって私を支配することはできない。わたしはわが人生の主宰者である。わたしは今既に、そして永遠に完全であり、自由であり、円満無欠であり、それは変ることなき真実である。】