祈る時
吾らは何に対して祈ってきたのであろうか。
ただ神想観を頑張っているのでは、
「真の祈りになっていないのだ」
とようやく気がついた。
祈りというのは、
神に対して行うものなのだ。
これができるようになって
「神」は顕われるのであった。
“神に対する”信仰に成って来た時が、
“神の子”が顕われる時である。
やっとこのことに本当に気付いた。
遅いといえば遅いが、
このことにまともに気が付く人は実際は少ないのであって、
気付いた人は、
神癒の顕現の過程に当然入るのである。
神に導かれるからだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【心霊治療家は患者に対して、全能の神に対する彼自身の信仰を念送して移入する。もし患者が癒されんと欲するならば、神の全能の力が働いて彼は癒されるのである。あらゆる神癒の共通分母とも称すべきものは、やはり、イエスが言った言葉の中に見出されるのである。即ち彼が「なんじの信仰なんじを癒せり」とか「なんじの信ずる如くなんじに迄成れ」とか言った“それ”である。著者アディントンも神癒の媒介となったことがあるが、われみずからにては何人をも癒したことはないのである。われわれの同胞として、パウロは「神のほかに此の世に力は存在しないのである」(ロマ書第13章1節)と言った。この真理を理解することはきわめて重要である。なぜなら、一体全体、神の力なくして神癒はあり得ないからである。聖書全巻を通じて、「わが救いは神よりぞ」(詩篇第62篇1節)という真理を素直に受け取った人々によってのみ神癒は行われていることを見出すのである。】