gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

神想観は現象事物を求める以前に、「万般の事象が現象化して来る“もと”の根底となるところの“霊的原型”」を想念に描かなければならない

2021-08-30 12:23:38 | 日記
トーマス・トロワード氏が
「万般の事象が現象化して来る“もと”の根底となるところの“霊的原型”」と書いている“霊的原型”というのは、
ヨハネ伝が説く「神の言」のことである。
【万物はこれ神の心、万物はこれ神のコトバ】
と『聖経甘露の法雨』に書かれている“実相世界”のことである。
われわれは神想観をするにあたり、
実相世界を観じるのである。
別の表現をすれば、
「実相が独在する世界」を
観じなければならないのである。
現象の人間が願う具体的なことがらは、
トロワードの言う“霊的原型”に基づいて
現象化してくるのである。
トロワード氏が「如何なる外界の事物を造り出すにも、その第一歩は“霊的原型”の創造である」と述べ、
実相世界を想念することが祈りの先決問題だ、
と強調するのは、
祈りの本質は「実相を祈る」ことだと
述べているのである。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【トーマス・トロワード判事はその『講演集』の
中で「吾々は万般の事象が現象化して来る“もと”の根底となるところの“霊的原型”を想念に描かなければならない」と言っているのである。彼曰く・・・「こんな風に思考する習慣を得るための最も簡単なる実際的方法は、すべての現象的存在の根底となるところの、万般の事象の霊的原型たる“霊的世界にある存在”を想念に描くことである。もし斯様にしてわれわれが“霊的原型”というものを事物の精髄的原型としてみとめるように自分自身を習慣づけるならば、そして物質的な“形”というものは、この原型が発展して外部的表現となったものだとみとめる習慣を養うならば、その時われわれは、如何なる外界の事物を造り出すにも、その第一歩は“霊的原型”の創造だということを認めざるを得ないであろう。この“原型”は純粋に霊的なものであるので“想念”の働きによってのみ形づくられ得るものである。そして霊的世界に於いて形成せられる事物の“原質”となるものは、実際にそこに存在するとして想念に描かれるアイディアにほかならないのである。】
実相世界というものは、
あるにはあるにしても、
想念しないことには、
顕われるものではないと言っているが、
ここは大事である。
つまり真理を学ぶとか、
祈りの工夫とか、
一人一人の求道が
実相の想念につながるわけなのだ。
 
 
 

人間は「神の言の肉化」であるから、始めから「神の言」と一体である。この「神の言」世界は自分の「内」にあるからそれが自己と一体であると観じるのだ。

2021-08-30 11:33:22 | 日記
人間の「内」に
「神の言」は肉化した。
人間は「神の言の肉化」である。
「言は神なりき」であるから、
人間は「神の言」であり「言」は神であるから、
人間創造の始めから「神」と一体である。
というか人間の本体は「神」である。
人は神を離れたことなんて
一回もないのである。
なにしろ人及び現象世界は「神の言」世界の展開であるからだ。
神想観は
「もともと神と一体である霊なる“神の子”」を
観じるのだから、
「神と自分とは一体である」と、
念じるわけなのだ。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【自己の生命の中に神を現実化するところのRealizationとは神と融合一体となることなのである。そして自己の生活及び現実の事柄に、神の完全なる属性をそのまま受容することなのである。それは決して一種の幻想の中に突入することではないのである。今、此処に遍在したまう神を素直に受け容れることなのである。】
【イエスはこう言って祈っているのである。・・・「われと父とは一体なり」(ヨハネ伝第10章30節)】

神想観は実相が独在するということを観じ、自分が実相の霊と一体化してしまうのである。そうしてから、具体的な事象を「実相の霊」に任せるわけである。

2021-08-30 11:03:25 | 日記
神想観は
実相が独在するということを心の眼で見てコトバで観じる。
そして自分自身が実相の霊と一体化してしまうのである。
それを先ずはじめてやって、実相と一体になってから、
自分の祈ってあげたい人を
その実相の霊の中に
当てはめるというか、
投げ込むというか、
具体的な事象を「実相の霊」に任せるわけである。
(奇蹟の時は今 アディントン著)
【(家出した子供を祈る祈り方をアディントン氏は指導した)
先ず神は到る処に充ち満ちて遍在したまうことを心に念じ、次いで、その子供が何処にいようとも、神は其処に居たまうので、神はその子供を如何に護ればよいかを知り給うのだということを念じ、繰り返し繰り返し両親夫婦は次のように祈ったのだった。
「神はわが子の全身心を貫いてい給う。神の智慧はわが子の全存在を貫いて支配してい給い、神の愛はわが子の周囲を取り巻いて護って下さっていられるのである。神の叡智がわが子を導く羅針盤となって彼を安全のところに導き給うのである。】
【皆さん、先ずこの子供の両親が認め、念じたことは「神は遍在し給う」ということであったのである。そして彼らの心の中に神の実在が極めて如実に生命の体験として感じられるようになったときに、その信念が具象化することになったのである。そしてこの子供は決して神から離れることはないのだという事実を素直に自分の心に受け容れることができるようになったのであった。】