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“神の子”の実在をただ信じて観じれば、“神の子”は活動状態に入る。

2021-08-03 13:33:08 | 日記
見えないけれども
吾らの「内」において
神と共に“神の子”がいるのであって
いるものはいるのだから、
そのことは
疑ってはならないのである。
それは「神」なのだから、
見えない「超」的存在である。
ただ「内」というのを
物質的な肉体の「内」と考えるべきでなく、
現象の奥の奥と
いう意味である。
ただ“神の子”は吾らの本体である。
“神の子”は“神の国”でもある。
吾らはその“神の子”に
一切合切を委ねる。
何もかも丸ごとあずけてしまう。
本体に現象のわれを委ねてしまうのである。
“神の子”を「信」じきって「任」せ切る。
以上のことを何も疑わずただ行う。
疑うことなければ
“神の子”が活動状態に入る。
神の力が働き始める。
 
 

現象の不完全は、神の業(わざ)が現われるためである。・・・神っているんだと、分るためである。

2021-08-03 11:24:46 | 日記
現象の不完全は、神の業(わざ)が現われるためである。
生まれつきの盲人であるにしても、
彼は「神」の肖像(にすがた)として造られた“神の子”(霊的原型)なのである。
簡単にいえば彼は「神」なのである。
「神」には病気もなければ不完全も存在しないのである。
それはつまり、
神と神の子との父子関係を取り戻せば、
本来そうである「神性」を取り戻すので、
神の業が現われるのである。
本来神であるものが神の完全性を現わすのは
当たり前というしかない。
現象的には何か不完全があったものが完全になるわけだが、
それこそが神の業(わざ)であって、
そこに人々は「神」の存在を知るわけである。
目の器官が不完全であるのに
視力を取り戻したという例は、
イエスにあるのみならず、
ルールドの奇蹟にも記録があり、
藤原敏之先生の神癒例の中にもある。
これがニュー・ソートの神癒理論であり、
『神癒への道』「人生は心で支配せよ』
の説く所である。
人間の本体は全能の神なのである。
現象の不完全が完全になることで、
「神ってあるんだ」
とわかるのである。
【ヨハネ9章1~3
1イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
2弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
3イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。】

イエスは“神の子”の自覚が必要だ、と言っているのである。
 

吾らの委せ切りの心が深まれば深まるほど、その程度に従って宇宙の自浄力(いやすちから)が吾らのために無限にはたらいてくれるのである。

2021-08-03 11:02:04 | 日記
先ずは「実相」に全托する方向へと
神想観のやり方が、
方向付けされることが大事なのである。
でもいったんそのやり方が
神想観の目標だと自覚されたなら、
あとは、
「実相に委せ切り」を
どんどん深めて行けばよいのだと
分ってきた。
(人生は心で支配せよ 谷口雅春著)
【本書の論講が進んで行くに従って、人間精神の創造作用と、宇宙精神の創造作用とが決して二つではなくむしろ本質的に連関していることが明らかになって来るだろう。このことが了解されれば、吾等は、吾々自身が自力で思い煩うことなくして、宇宙精神の創造力に委せ切って自分の欲する事物をほしいままに得ることが出来るのである。吾らは創造力を自分で造るのではない。大生命に委せ切って宇宙の創造力に働いて頂くのである。吾らの委せ切りの心が深まれば深まるほど、その程度に従って宇宙の自浄力(いやすちから)が吾らのために無限にはたらいてくれるのである。】