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『若し誰にてもあれ、渇かば吾れに来たりて飲め。吾れを信ずる者は聖書に録されたる如く、その内より生命の水、河の如く流れ出でん』

2021-08-07 11:49:39 | 日記
吾等が為すべきは
内なる「霊」を流入させればよいのである。
そしてこの「無限生命」への接触は、
真理を知ることと祈りが基本の方法であるが、
愛によって完成する。
純粋で聖なる愛が
実相の大河が流入する導火線となる。
神を愛することが「愛」なのである。
愛は「無我」になって現われるのである。
だが愛の完成ということは
一気にできることではなく、
人が“神の子”を顕わすときと、
一緒なのである。
(心と運命 ヘンウィック・ホルムス著 谷口雅春訳)
【吾が哲学の大教主は如何によくこの原理を了解し給うていたことであろう! 「終りの日、饗宴の大いなる日にイエス立ちて叫びて云えり。『若し誰にてもあれ、渇かば吾れに来たりて飲め。吾れを信ずる者は聖書に録されたる如く、その内より生命の水、河の如く流れ出でん』・・・しかしこれは彼を信ずるものが受くべきところの『霊』(みたま)について言えるなり。」と。此の場合「吾れを信ずる者は」と云う「吾」によって耶蘇は内在する「大我」のことを云い給うたのである。何故なら耶蘇は明らかにそれを「霊」(みたま)に関連して語り給うたからである。それ故に吾々はここに光栄ある人間の本性と、その内在の「癒やす力」とについて一層明らかに知る事が出来たのである。若し誰にてもこの「貯槽」の底に穴を穿って、パイプを通ずるならば、水すなわち「霊」は、あたかも噴泉のように自己の内を充たすであろう。】
【ギリシャ語で「霊」はpsyche即ち「生命」を意味するのである。。果たして然らば吾等が吾が内奥の噴泉より「霊」を流入せしむる時、其処には死も病気も欠乏もあり得ないのである。そしてこの「無限生命」への接触は愛によって完了する。】
 

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