1635(寛永12)年の今日(6月21日)は、江戸幕府が「武家諸法度」を改訂。毎年4月の外様大名の参勤交代を義務化した日。
江戸時代、諸大名が一定の期間、封地から将軍のお膝元江戸に伺侯することを参勤交代という。参勤交代は、初めは「参覲交代」とも書かれており、「覲」は「まみえる(お目にかかると)いう意味であり、「勤」「つとめる」ではなかった。つまり、大名が江戸に行くのは勤めるためでなく、将軍にまみえに行くものであった。
参勤交代の起源は、鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕に始まり、戦国大名の一部は自身の居城の城下町に服属した武士を集めるようになり、豊臣秀吉が大坂城・聚楽第・伏見城で支配下に服した大名に屋敷を与え、そこに妻子を住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがったようである。
1600(慶長5)年に、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため江戸に参勤するようになるが、江戸時代の大名の参勤交代では、1602(慶長7)年に加賀の前田利家が母を人質として家康のもとにさしだして参勤したのが最も早い例といわれる。とりわけ外様大名の場合、江戸に参勤し、妻子を江戸に居住させることは、中央集権体制を目指す将軍徳川家への忠誠の証としての意義があり、多くは自発的に江戸参勤・人質提出をしたが、家康は秀吉の例にならって江戸城下に屋敷を下賜した。これら自発的な参勤とあわさって次第に制度として定着してゆき、幕府の権力が強まった1635(寛永12)年、3代将軍・家光の時代に武家諸法度において正式に制度化された。武家諸法度には「大名、小名在江戸交替所相定也、毎歳夏四月中可致参勤」(第二条)とあり、4月を交替期とする1年在府、1年在国(関東の大名は半年)の参勤交代が制度的に確立し、水戸徳川家や役付大名は定府となった。参勤する大名の供数は100万石以下20万石以上は20騎をこえないことなど、格式により、その規模は異なったが、遠隔地の大名にとっては、参勤交代に要する費用負担は重い。当初の「参覲交代」もこの時点で「参勤交代」として義務化 したものとなったといっていいだろう。
そして、参勤交代が譜代大名にも義務付けられ、原則として全ての大名が参勤交代を行うようになるのは1642(寛永19)年である。ただし、水戸徳川家などの一部の親藩・譜代大名は領地が江戸に近かったり、領地が小さいことから、例外として交代を行わずに江戸に常駐し、「在府」と呼ばれた。また、「交代寄合」と呼ばれる格式の高い旗本は 大名に準じて参勤交代を行った。
この参勤交代は在府(江戸)・在国(国元)の二重生活を余儀なくされる大名にとっては、参勤交代のための長途の大規模な旅の費用と相俟って、経済的負担が重く、その上、在国支配も手薄になったが、少なくとも、江戸時代を通じて幕府の中央集権的支配体制を維持するためには非常に有効であったといえる。この参勤交代によって、三都を中心に五街道、宿駅の整備など交通網の整備が進み、消費都市としての江戸は大きく発展、江戸と地方の間の文化交流も活発化するなど、社会や文化の発展にも大きな影響を与えた。
我々は、これまで、江戸時代というと、農民は年貢を取り立てられ、娘は身売りされ、悪代官がいて・・・などと暗いイメージを持っていたように思うが、今、江戸時代の文化水準は非常に発達しており、日本人の識字率も高く高度な知識を持っていたことなどが見直されている。
江戸時代の人口は、約7割以上が農山漁村人口で、都市の人口は三割足らず、庶民の大多数は農民であった。それも半農半漁、半農半工、半農半商、半農半芸といった半農形態が多かった。江戸時代の年貢制度では、6公4民とか7公3民といわれ、庶民には非常に厳しかった年貢も元禄(貞享の後、宝永の前。1688年から1703年までの期間)を境に変わり徴収率み緩むが、それは、開幕以降、投資されてきた国土整備がほぼ整い、参勤交代制度により、道路網、宿場が整備され、また、諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるが、これらは、皆、生産に携わっている人たちではなく、消費のみをする人達なのである。そのため、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が100万人を超え、八百八町といわれる世界有数の大都市へと発展を遂げていたといわれている。このような、人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、東日本各地の農村と結ばれた大市場となり、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増し、18世紀末から19世紀始めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらしたのである。その一方で、農村から弾き出された余剰人口が江戸に流入したことは都市に貧民の階層を拡大させ、様々な都市問題が露呈することにもなったが、年貢が緩むと、庶民はさまざまな遊びをするようになる。歌舞伎を観たり、寄席に行ったり、男どもは吉原に遊び、精進のいい人はお宮参りをするということが流行る。しかも、当時の人は、時間的なゆとりも持っていた。今のように毎日あくせく働くということはなかったようで、週の半分ほどほどしか働かなかったともいわれている。江戸の町人に経済的ゆとりができ、庶民たちにも小銭が貯まるとゆとりの中で遊びをしたくなるのが人情。そのひとつが旅である。江戸時代の初期の旅は、公務を目的とした武士の旅が中心であったが、その後だんだんに伊勢参りなど寺院や神社に参詣することを目的とした庶民の「物見遊山」の旅も盛んにおこなわれるようになった。
旅をする庶民が増加するにつれて、実際の旅行に役立つガイドブックのようなものが必要となり、この需要に応じて作られたのが、実際の旅行に役立つガイドブックのようなものが必要となった。この需要に応じて作られたのが、実用性に優れ、携帯に便利な、道中記・巡覧記・名所記などと呼ばれる旅行案内書である。そして、案内所には、旅の注意事項などが細々と書いてあり、「道中所持すべき品の事」として、まず、矢立、扇子、糸、懐中鏡、日記帳などが挙げられている。江戸の庶民が旅に出るということは字を書いて日記を書くということでもあった。したがって、必需品の第一が矢立に帳面となるわけである。『旅行用心集』に日記の書き方、フォーマットが載せられている。旅というのは遊びだけでなく日本の文字文化を大きく底上げしたと言える。
現在の我々の年代の日本人には、「一所懸命働くということは良いこと」と思っている人が多いと思うが(ひょっとしたら最近の若い人はそうではなくなっているかもしれないが??・)、人類がそのような働くことに価値観をもつようになったのは、それほど古いことではないようだ。ほんの150年ほど前の江戸時代でも、当時の人々は時間を惜しんで仕事をするということはなく、その日その日で満足できる程度に仕事をしてそれで終わっていたようである。要するに「ガキとカカアの飯代を稼いだら、あとは自分が満足するだけ」・・、多くの人にとって余分に働くというような考え方は無かったようだ。いろいろ功罪のある参勤交代ではあるが、江戸時代の文化を華やかにした最大の要因はこれに始まるのは間違いないだろう。
(画像は大名行列「国侯行列之図」『名古屋市史』所蔵。御三家にうち、尾張、紀伊の両徳川家の参勤交代は、3月交代で在府、在国各1年であった。本図は、天保14年(1843)、第12代藩主斉荘(なりかた)が尾張へ帰国するおりの行列を描いたもの。NHKデーター情報部編、ヴィジュアル百科「江戸事情」より)
参考:
参勤交代-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%8B%A4%E4%BA%A4%E4%BB%A3
参勤交代(さんきんこうたい)
http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/204030.htm
前田家参勤交代路
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/rekishi03.htm
「江戸の旅-諸国めぐり-」-金沢市立玉川図書館近世史料館
http://www.lib.kanazawa.ishikawa.jp/list/2001/tenji13k.htm
旅行用心集(兵庫県立歴史博物館)
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/column/column_youjin.html
東海道Q&A
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index.htm
東海道中うんちく集
http://www.pref.aichi.jp/dourokensetsu/tokaido/untiku/index.html
江戸時代、諸大名が一定の期間、封地から将軍のお膝元江戸に伺侯することを参勤交代という。参勤交代は、初めは「参覲交代」とも書かれており、「覲」は「まみえる(お目にかかると)いう意味であり、「勤」「つとめる」ではなかった。つまり、大名が江戸に行くのは勤めるためでなく、将軍にまみえに行くものであった。
参勤交代の起源は、鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕に始まり、戦国大名の一部は自身の居城の城下町に服属した武士を集めるようになり、豊臣秀吉が大坂城・聚楽第・伏見城で支配下に服した大名に屋敷を与え、そこに妻子を住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがったようである。
1600(慶長5)年に、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため江戸に参勤するようになるが、江戸時代の大名の参勤交代では、1602(慶長7)年に加賀の前田利家が母を人質として家康のもとにさしだして参勤したのが最も早い例といわれる。とりわけ外様大名の場合、江戸に参勤し、妻子を江戸に居住させることは、中央集権体制を目指す将軍徳川家への忠誠の証としての意義があり、多くは自発的に江戸参勤・人質提出をしたが、家康は秀吉の例にならって江戸城下に屋敷を下賜した。これら自発的な参勤とあわさって次第に制度として定着してゆき、幕府の権力が強まった1635(寛永12)年、3代将軍・家光の時代に武家諸法度において正式に制度化された。武家諸法度には「大名、小名在江戸交替所相定也、毎歳夏四月中可致参勤」(第二条)とあり、4月を交替期とする1年在府、1年在国(関東の大名は半年)の参勤交代が制度的に確立し、水戸徳川家や役付大名は定府となった。参勤する大名の供数は100万石以下20万石以上は20騎をこえないことなど、格式により、その規模は異なったが、遠隔地の大名にとっては、参勤交代に要する費用負担は重い。当初の「参覲交代」もこの時点で「参勤交代」として義務化 したものとなったといっていいだろう。
そして、参勤交代が譜代大名にも義務付けられ、原則として全ての大名が参勤交代を行うようになるのは1642(寛永19)年である。ただし、水戸徳川家などの一部の親藩・譜代大名は領地が江戸に近かったり、領地が小さいことから、例外として交代を行わずに江戸に常駐し、「在府」と呼ばれた。また、「交代寄合」と呼ばれる格式の高い旗本は 大名に準じて参勤交代を行った。
この参勤交代は在府(江戸)・在国(国元)の二重生活を余儀なくされる大名にとっては、参勤交代のための長途の大規模な旅の費用と相俟って、経済的負担が重く、その上、在国支配も手薄になったが、少なくとも、江戸時代を通じて幕府の中央集権的支配体制を維持するためには非常に有効であったといえる。この参勤交代によって、三都を中心に五街道、宿駅の整備など交通網の整備が進み、消費都市としての江戸は大きく発展、江戸と地方の間の文化交流も活発化するなど、社会や文化の発展にも大きな影響を与えた。
我々は、これまで、江戸時代というと、農民は年貢を取り立てられ、娘は身売りされ、悪代官がいて・・・などと暗いイメージを持っていたように思うが、今、江戸時代の文化水準は非常に発達しており、日本人の識字率も高く高度な知識を持っていたことなどが見直されている。
江戸時代の人口は、約7割以上が農山漁村人口で、都市の人口は三割足らず、庶民の大多数は農民であった。それも半農半漁、半農半工、半農半商、半農半芸といった半農形態が多かった。江戸時代の年貢制度では、6公4民とか7公3民といわれ、庶民には非常に厳しかった年貢も元禄(貞享の後、宝永の前。1688年から1703年までの期間)を境に変わり徴収率み緩むが、それは、開幕以降、投資されてきた国土整備がほぼ整い、参勤交代制度により、道路網、宿場が整備され、また、諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるが、これらは、皆、生産に携わっている人たちではなく、消費のみをする人達なのである。そのため、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、町が急速に拡大した。その人口は絶えず拡大を続け、18世紀初頭には人口が100万人を超え、八百八町といわれる世界有数の大都市へと発展を遂げていたといわれている。このような、人口の増大は、江戸を東日本における大消費地とし、東日本各地の農村と結ばれた大市場となり、経済的先進地方である上方(近畿地方)と関東地方を結ぶ中継市場として、経済的な重要性も増し、18世紀末から19世紀始めには、上方にかわる文化的な中心地ともなり、経済活動や参勤交代を通じた江戸を中心とする人の往来は江戸から地方へ、地方から江戸へ盛んな文化の伝播をもたらしたのである。その一方で、農村から弾き出された余剰人口が江戸に流入したことは都市に貧民の階層を拡大させ、様々な都市問題が露呈することにもなったが、年貢が緩むと、庶民はさまざまな遊びをするようになる。歌舞伎を観たり、寄席に行ったり、男どもは吉原に遊び、精進のいい人はお宮参りをするということが流行る。しかも、当時の人は、時間的なゆとりも持っていた。今のように毎日あくせく働くということはなかったようで、週の半分ほどほどしか働かなかったともいわれている。江戸の町人に経済的ゆとりができ、庶民たちにも小銭が貯まるとゆとりの中で遊びをしたくなるのが人情。そのひとつが旅である。江戸時代の初期の旅は、公務を目的とした武士の旅が中心であったが、その後だんだんに伊勢参りなど寺院や神社に参詣することを目的とした庶民の「物見遊山」の旅も盛んにおこなわれるようになった。
旅をする庶民が増加するにつれて、実際の旅行に役立つガイドブックのようなものが必要となり、この需要に応じて作られたのが、実際の旅行に役立つガイドブックのようなものが必要となった。この需要に応じて作られたのが、実用性に優れ、携帯に便利な、道中記・巡覧記・名所記などと呼ばれる旅行案内書である。そして、案内所には、旅の注意事項などが細々と書いてあり、「道中所持すべき品の事」として、まず、矢立、扇子、糸、懐中鏡、日記帳などが挙げられている。江戸の庶民が旅に出るということは字を書いて日記を書くということでもあった。したがって、必需品の第一が矢立に帳面となるわけである。『旅行用心集』に日記の書き方、フォーマットが載せられている。旅というのは遊びだけでなく日本の文字文化を大きく底上げしたと言える。
現在の我々の年代の日本人には、「一所懸命働くということは良いこと」と思っている人が多いと思うが(ひょっとしたら最近の若い人はそうではなくなっているかもしれないが??・)、人類がそのような働くことに価値観をもつようになったのは、それほど古いことではないようだ。ほんの150年ほど前の江戸時代でも、当時の人々は時間を惜しんで仕事をするということはなく、その日その日で満足できる程度に仕事をしてそれで終わっていたようである。要するに「ガキとカカアの飯代を稼いだら、あとは自分が満足するだけ」・・、多くの人にとって余分に働くというような考え方は無かったようだ。いろいろ功罪のある参勤交代ではあるが、江戸時代の文化を華やかにした最大の要因はこれに始まるのは間違いないだろう。
(画像は大名行列「国侯行列之図」『名古屋市史』所蔵。御三家にうち、尾張、紀伊の両徳川家の参勤交代は、3月交代で在府、在国各1年であった。本図は、天保14年(1843)、第12代藩主斉荘(なりかた)が尾張へ帰国するおりの行列を描いたもの。NHKデーター情報部編、ヴィジュアル百科「江戸事情」より)
参考:
参勤交代-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%82%E5%8B%A4%E4%BA%A4%E4%BB%A3
参勤交代(さんきんこうたい)
http://db.gakken.co.jp/jiten/sa/204030.htm
前田家参勤交代路
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/rekishi03.htm
「江戸の旅-諸国めぐり-」-金沢市立玉川図書館近世史料館
http://www.lib.kanazawa.ishikawa.jp/list/2001/tenji13k.htm
旅行用心集(兵庫県立歴史博物館)
http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/column/column_youjin.html
東海道Q&A
http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index.htm
東海道中うんちく集
http://www.pref.aichi.jp/dourokensetsu/tokaido/untiku/index.html