はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

写真集:アーティストの部屋

2024年07月06日 | 
2024/07/06



『世界のアーティスト250人の部屋
人生と芸術が出会う場所』
(サム・ルーベル著)
という写真集を図書館から借りてきました。




芸術、建築、デザイン、ファッション
文学、音楽、映画などの分野で
活躍する人たちの私邸や別荘
私設美術館・博物館として公開されている家
の写真集です。




素敵なインテリアだなあと感心。


以下の写真は本書をスマホで撮影したものです。
曲がっていたり、反射していますがご了承を。
(著作権があるでしょうから、少しだけ紹介)


アイリス・アプフェル邸
マンハッタンに購入したアパートの部屋


アイリス・アプフェルはホワイトハウスの
装飾を手掛けたインテリアデザイナー。

ジェイン・オースティンの家博物館

18世紀、英国の小説家ジェイン・オースティン。
毎日このテーブルで小説を書いた。

横浜や神戸の洋館にありそうな
テーブルと椅子。
白い暖炉と緑の模様の壁紙。

落ち着いて、いい感じです。


画家のフランシス・ベーコンの部屋
これはゴミ屋敷かな?…。

フランシス・ベーコンはアイルランドの画家
画風も素行も風変りだったという。


ピエール・カルダンの部屋

どこか南欧風の曲線の部屋

シャネルの部屋

クラシックで素敵ですね。



ローザ・ボヌールの部屋

ボヌールは女性画家。

天井の梁といい、床のヘリンボーンといい
高い窓の格子がいい感じ。

メキシコの女流画家フリーダ・カーロ

メキシコらしい雰囲気。


 


昔読んだインテリア雑誌に
「好きなものに囲まれて暮らす」
という文があって、ふと
自分の部屋を見回しました。

「好きなものに囲まれて暮らす」
という考え方を私は持っていなかったのです。

必要があって買った電化製品や家具は
実用一点張り。

でも毎日、目の届く範囲にあるものが
お気に入りのものばかりだったら
さぞ、気持ちよく暮らせるだろうな
と眼を開かれた気がしました。


ここに載ったアーティストたちの部屋は
ステキすぎてちょっとやそっとでは
真似できませんが、取りあえず
カラーコーディネートだけでも
なんとかなりそう。

心地よい部屋に暮らしたいですね。







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『安井かずみのいた時代』その3

2024年06月29日 | 
2024/06/29


島崎今日子著
『安井かずみのいた時代』の3回目です。

シリーズもののようになってしまいましたね。

この本を読むまで
安井かずみも加藤和彦もよく知りませんでしたが
そのせいでかえって興味深く読んでいました。


・・・・・・・・・・

1993年12月に安井かずみは
左肺上葉のがんと診断された。
悪性度の高い腺がんでステージⅣだった。
  
東京医科大学病院の加藤治文医師が
主治医だった。

当時はまだ告知するかどうか
議論のあった時代だったので
余命のことは加藤和彦にだけ伝えた。

余命は1年と聞いて
「じゃあ、その1年間、私はすべての仕事をキャンセルします」
と加藤は答えた。

「3年余命があれば話したかもしれませんが、わずか1年では立ち直るまでの時間が惜しかった。それならこの1年を、僕の全力で妻を支え、できるだけ妻らしい生活を全うさせてやりたい。」(p.328)

当の安井は3月16日の日記に
「精神的には”今の自分の状態が解らないこと”が辛い。不安、何病? そして治療は?」と心中を吐露している。
そして、その日の教授回診で告知を受けた。

最初は前向きに捉えていた。
ノートに夫への愛と感謝を書きつらねた。

「私たちはやっと本当の夫婦になれたと思う。
これで以後、本物の人生ができる」と書いた。 
(『ありがとう!愛』大和書房)


安井は抗がん剤と放射線治療を受けた。 
治療によって一時回復したかのように
思われたが、再発をした。

12月12日には夫婦そろって
キリスト教の洗礼を受けた。

亡くなる前の40日間
加藤は病院に泊まり込み献身的看護を続けた。

「1994年3月17日、午前6時5分、夫の祈りの声を聴きながら安井は眠るように息を引き取り、55年の生涯を終えた。」
(p.336)

取材で「妻との約束を守ることができた」
と加藤は語っている。
彼は前夜式で「寂しいけれど、悲しくはない」
と言った


主治医の加藤治文の話
「和彦さんはやさしく、世俗的でなく、私たちにはとても持てないような心を有した人。マナー、道徳、精神のコントロール、どれも素晴らしいですし、何より真の愛を備えた人でした。僕はこれまで50年の医師生活で、あのような素晴らしい家族に会ったのは初めてだったので、僕の心の歴史に残る場面を見せていただいた。」(p.337)


しかし、安井の実妹のオースタン順子の
受け止めは少し違っている。

「昼間に病院に見舞いに行くと、病室の隣りの予備室には誰もいないことが多かった。その頃はもう延命治療でした。
『このままでは姉が可哀想。つらいんじゃないでしょうか』と主治医に訴えてしまった。その翌日、早朝に姉は亡くなった。
姉の遺体は葬儀までの4日間、病院の霊安室に置かれたままだった。
『なぜ家に連れて帰ってくれないの?』と加藤に尋ねると、『階段があって棺を運ぶのが大変なんだ。』と答えていた。
それから、加藤は順子や母が六本木の家に来ることを拒むようになった。周囲にはいろいろな噂が飛びかっていた。彼には恋人ができていたのである。」

「けれど順子は加藤を恨むことができない。それは、彼が姉との生活の中で耐えていたものがあることを容易に想像できるからだ。友人たちの前で激しくなじられる彼の姿も目撃していた。母は加藤さんには心から感謝していました。」
(p.354)


二人は最期まで理想のカップルを演じていた。





編集者・矢島祥子の話 
「葬儀が終わって間もなく、六本木の家の前に、安井の服や下着や写真が透明なゴミ袋に入れられて、大量に捨てられていた。『下着は母が整理した』と加藤は淡々と説明し、私はショックを受けた。」(p.278)


吉田拓郎の話
「加藤は優しすぎて弱い。むしろ鈍臭い。だから自分より先を歩いてくれる女じゃなきゃあダメ。 
安井の友人たちは、この結婚を歓迎しなかった。酒を飲めなかった男がワイン通になっていて、えらく一流好みになっていた。
日本一ゴージャスでおしゃれな夫婦にどこか空虚さを感じずにはいられなかった。家はまるでホテルで、まったく生活感のない空間でした。人間は普通、あんなところに長年いたら疲れてしまいますよ。」


実妹・順子の話。
「姉は自己主張が強く勝ち気な少女でした。姉は一家の女王蜂でした。私は命令されて、年中叱られていて、だから怖いというイメージが強かった。」(p.340)

安井は自分自身を
「「激しい気性」と書いていた。

なにより上昇志向が強く、一番になりたがった。

安井はキャンティで遊んでいた頃から「どう自分を見立てても、私は平凡な女であった。その頃から私は、自分の持っている普通さ、自分の育ちの普通さ、自分のほかに対する反応の普通さをとても意識し始めた」と自書に書いている。(p.68)


その勝気さと頑張りと社交術が
若くして当代随一の売れっ子作詞家に
彼女をのし上げたのだった。

戦中の生まれである彼女は
「ぜいたくは敵だ」の時代を知っている。

戦後、日本が経済力を高めていった時期は
自分の欲望に忠実に生き、贅沢をする時代でもあった。

彼女の数多い恋愛遍歴、豪遊
ハイブランドずくめのファッション

だが、心が満足していなければ
いつも寂しくて不安である。
モノや人では心は満たされないのである。


コシノジュンコの話
「ZUZUはトノバン命みたいになっていて、彼がちょっと誰かを好きになりそうになると、ものすごく神経質になって、ファッションを変えていた。彼の前では何か演じているような感じがしたものです。経済的格差があって、トノバンも途中からヒモみたいに言われたりして可哀想だった。
トノバンは彼女の最期まで、あれ以上やりようがないというくらい献身的に尽くしていました。だから彼の早い再婚。ZUZUの四十九日を過ぎないうちにガールフレンドと手をつないでみんなの前に現れた時には驚きましたけれど」
(P.69)


経済的に自立して、多くの遊びも恋愛も重ねながら
結局はただ一人の男性との結婚生活を望んだ。

大宅映子が安井のジュエリーを
羨ましがったとき
「あなたには娘が2人もいるじゃないの!」
と言ったという。

夫婦と子どもという家族のあり方が
安井のもっとも望む形だったのだろう。

このあたりは昭和の家族観から抜け出ていない。
夫婦はいつも一緒にいるという考えで加藤を縛った。


地位も名誉も財産も持っていた安井だが
自分の寂しさを満たすためにお金は使っても
人のために、社会のために何ができるかという
考えにはまだ至っていないようだ。

その意味でも、あの時代の象徴的な
人だったと思われてならない。





二人が暮らした六本木の家は全面改装され
翌年2月、加藤は中丸三千絵と再々婚。
結婚記者会見で「安井とのことは完結しました」といった。

そして5年の結婚生活の後、中丸と離婚した。

2009年10月16日、加藤は軽井沢のホテルで自死。
62歳だった。

「これまでに自分は数多くの音楽作品を残してきた。だが、今の世の中には本当に音楽が必要なのだろうか。『死にたい』というより『生きていたくない』。消えたい」との趣旨が記されていた遺書があった。


軽井沢で行われた葬儀には約100人が参列し
最後に同居していた30代の女性が
加藤の遺影を抱いて助手席に乗り込んだ。

加藤和彦もまた、何を求めていたのだろうか。



 
 


・・・・・・・・・・・・

長々とお読みいただきました
『安井かずみのいた時代』は
これで終わります。

(写真はネットよりお借りしました)

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二人の結婚『安井かずみがいた時代』その2

2024年06月26日 | 
2024/06/26


島崎今日子著『安井かずみがいた時代』
の続きです。

 

1977年、安井かずみは8歳年下で
ミュージシャンの加藤和彦と再婚。
当時、安井は45歳、加藤は37歳だった。

以下、本書より抜き書き、要約引用させていただきます。


「安井が加藤と出会ったのは、1970年代の始めである。当時、安井の恋人のミュージシャンが加藤の友人という縁もあり、交流があったが、加藤には福井ミカというパートナーがいて恋には至らなかった。」(p.181)

「二人の再会は1975年12月、安井のエッセイ集『TOKYO人形』の出版記念パーティであった。加藤の離婚を聞いた安井は〈しめた〉と思い、〈明日、電話してください〉と加藤に囁いた。」

「夕食も休暇も、すべての愉しみを夫婦で共有するのが安井の望んだ結婚の形である。その抜きんでたセンスと経済力に支えられた生活は、庶民には到底手の届かないものだった。」(p.184)

ワインのPR誌の取材で、ウィーン、ヴェネツィア、ローマを巡ったとき、夫婦は会社が用意したビジネスクラスのエアと4つ星のホテルを、自費でファーストクラスと5つ星アップグレードした。 

太田進は語る。(雑誌『週刊ホテルレストラン』を創刊し、「オータバブリケイションズ」の2代目社長。加藤の弟分のような存在で、二人の旅のコーディネートを依頼されていた人物である。)
「世界のホテルで世界中のセレブのドレスコードやマナーを見て、学ぶところは多かったのですが、あの二人は最初から日本人離れしたものを持っていました。かずみさんは英語もフランス語もできて、イタリア語も挨拶ぐらいはできた。どんな人を相手にしても動じない雰囲気を持っていた。」

「うちの母が言ったことがあります。加藤さんはかずみさんと出会ったことで、相当いろいろ学んだのよ。フォーク・クルセダーズの頃はエスタブリッシュの世界に来るような人ではなかった。かずみさんによって立ち居振る舞いやワインのこと、絵のことなどを学んでいったのでしょう。」(P.189)


二人はハワイ、マウイ島のカパルアに別荘を買った。
加藤は安井との生活を大事にしていると公言し
どんなに多忙でも二人で夕食を摂る
という決めごとを破ることはなかった。

安井も加藤と結婚してから
2人の生活を大切にしようという気持ちだった。

「いままで私は日常生活のない女だったの」

「加藤和彦と結婚してからは、健全で健康的な〈昼の生活スタイル〉にシフトする。保守的な安定志向が散見される。
加藤和彦と理想の夫婦として生きることが、女の幸せの完成形としてエッセイに綴っていった。」(p.100)

太田は長い付き合いの中で、二人がけんかをしているのを見たことがない。
「加藤さんが言うことをきいちゃうんですね。」

そして一方、安井の女友だちの目には、「彼に気を使いすぎて痛々しい」、「尽くし過ぎ」と映っていた。(p.191)


安井と結婚してからは
加藤の音楽の友人たちとは疎遠になっていった。

安井と加藤には収入格差があった。 
安井にはカラオケブームの莫大な印税が入って来た。

二人の生活を、日本中が
ショーウィンドウに飾られた商品のように見ていた。

大宅映子の話
「『贅沢は敵だ』の大宅壮一の家で育っている私には別荘なんてありえない話。和彦さんからの誕生日プレゼントが紫色のポルシェであったり、カルティエの500万のイヤリングであったり。」


大和書房の編集者・矢島祥子の話 
初めて六本木の家を訪れた矢島は安井の変貌に驚いた。
「メイド服を着たメイドさんがいる家の中で、アルマーニのジャケットを着て、ヴァンクリフ&アーベルのダイヤのイヤリングをつけていた。私の知っている安井さんってお金持ちで、サンローランも着ていたけれど、パリの名もない店で見つけたスカートをはいていたりする人。ブランドで飾り立てることを一番嫌っていた人が、ブランド尽くめのコンサバになっていた。幸せそうに振る舞っていたのに、私にはあんまり幸せそうな顔には見えなかった」(P.273)

「あくまで私の推測ですが、安井さんが六本木の家を買ったのは、加藤さんとの関係を再構築するためだったんじゃないかと思います。結婚して数年たったころ、加藤さんの浮気問題に、安井さんはひどいショックを受けていた。」


傍目には、キャリアも収入も上の女が
年下の男をリードするように映っていた。
ただ、男が他の女に気持ちを移した瞬間に
二人のパワーバランスは完全に逆転した・・・

安井は加藤と夫婦を生きることが
アイデンティティになっていた。
加藤にとっても、安井とカップルでいることは
ステータスだったに違いない。(P.276)

1993年、安井かずみは肺がんのステージⅣ
であると宣告された。


この続きは次回に。




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『安井かずみがいた時代』島崎今日子著

2024年06月25日 | 
2024/06/25


安井かずみといえば70~80年代
多くの流行歌を作詞していて
その数は4000曲にものぼるといいます。

題名をいえば
ああ、この曲も安井が作詞していたのか
と思うほどヒット曲を書いています。

小柳ルミ子『私の城下町』
沢田研二『危険なふたり』
郷ひろみ『よろしく哀愁』
浅田美代子『赤い風船』
竹内まりや『不思議なピーチパイ』…


加藤和彦のドキュメンタリー映画
『トノバン 音楽家 加藤和彦とその時代』
を見た頃から
『安井かずみがいた時代』を読んでいました。




映画の記事 ↓

380ページもあり
それぞれの話は大変に興味深くて
読むのに時間がかかりました。

 

〈彼女を知る26人の人々のインタビューから
安井の華やかでスキャンダラスな私生活に迫り
数々の伝説で彩られた55年の人生を追うドキュメント。〉

本の冒頭にはこんな一文があります。

〈数々の伝説に彩られたその人生は
戦後からバブル崩壊までの日本を
体現するかのようで
同時代の日本女性に最も影響を与えた
女性の一人である。〉


林真理子にとっても最高に眩しい
ロールモデルであったといいます。

そんな安井かずみが
1939年生まれと知ったときは
少し意外な気がしました。
戦前の生まれだったんだと。

生きていれば、現在85歳。
デザイナーのコシノジュンコと同い年。

55歳で肺がんにより亡くなりました。

読んでみて、確かに
安井かずみは時代の申し子というか
あの時代を象徴するような
キャラクターだったなと思うのです。

高度成長期、バブル期の日本の
華やかな部分を生きた安井かずみの人生を
あらためてなぞってみます。


イタリアンレストラン「キャンティ」。
1960年に飯倉片町にオープンした有名な店。
三島由紀夫、川端康成、黛敏郎といった
名だたる人たちが集った東京カルチャーの発信地だった。

キャンティで安井は
加賀まりこやコシノジュンコと毎夜
遊んでいた。 


加瀬邦彦の話
「ジュリー(沢田研二)にずっと片思いしてたからね。一緒になれないとわかっていて、一緒にご飯を食べたり買い物できたらそれでいいと思っていたんじゃない?
パリやロンドンでレコーディングする時も、プロモーションでヨーロッパを回る時も、彼女は『私も行く~』 って追っかけて来たよ。渡邊美佐さんと一緒に来た時は、グレース・ケリーやシルヴイ・ヴァルタン、ジョニー・アリディが来るようなパーティに一緒に出た。そんな中でもZUZU(安井の愛称)は颯爽としていて、カッコいいんだ。ドレスの上に、ボロボロのデニムのジャケットをはおったりして、で、フランス語がペラペラ。海外に行くと、彼女のよさが際立って、僕もジュリーも加賀まりこもZUZUにくっついて歩いた」(P.163)


村井邦彦の話
(自分の生き方について)
「フランソワーズ・サガンをモデルにしていたんじゃないかと思う。」


大宅映子の話
「ジュエリーはどこのメゾンのものかによるのよ」
「例えば私が2、3万の指輪をしていると『くだらない』っていうの。彼女は厳選するから数はそう多くは持っていないけれど、つけている指輪は二千万の指輪とかですからね」
「ある雑誌の鼎談でシャネルが好きという話になったとき、『一着や二着シャネルを買って、シャネル好きなんて言わないでちょうだい。ラックの端から端までバーッとシャネルを買ってから、シャネルが好きだっていうのよ。』」
(p.202)


引用すればきりがないほど
豪奢な逸話に事欠かない安井かずみ。


1966年、27歳のとき富豪の息子で
実業家、新田ジョージとローマで結婚式を挙げ
ニューヨークに居を構える。
しかし2年後、パリに服を買いに行くといって
ニューヨークの家を出て離婚。

「何をしても、何か少しづつ変だった。どうしても何か、満たされなかった。それをなしたら、そこに行ったら、それを読んだら、見たら、それを買ったら、それを着たら、その人と恋をしたら、満たされるだろうと思ったことは即実行した。もちろん金に糸目はつけないつもりだった。私は狂気の沙汰で仕事をしていたので、その分だけ収入もあった。気前よく浪費した。いやらしいほど、金を費やした。その陰(著者注:心の陰り)に怯える自分を救うために」
(安井かずみ著『女は今、華麗に生きたい』大和出版)(p.36)


写真家・斉藤亢の話
(恋多き女で)
「一人で家の中にいられず、男性を救急車代わりにしていたわけで次々と数だけは増えましたが、じっくり付き合う恋人もできるはずなかった。」


かまやつひろしの話
「恋人が替わるのがあまりにも早くてね」
「ZUZUは自分が翻弄できる男が好きなんだよ」


1977年、8歳年下でミュージシャンの加藤和彦と
安井は再婚します。

この2人の生活は幸せだったのか…

長くなりましたので
また次回に書きたいと思います。






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アンデシュ・ハンセン著『運動脳』

2024年05月30日 | 
2024/05/30


この本を読むと
ああ、運動って大事だなあ~と
つくづく思うのです。


本書の結論という所から
引用するのがわかりやすいでしょう。

・・・〈科学が示す「現時点での最新の結論」〉・・・

脳は身体を活発に動かすとドーパミンを
放出して気分が爽快になるように
プログラムされている。

それは「狩り」が生存の可能性を増やすからだ。

脳は一万年前からほとんど
進化していないため現代の私たちにも
このメカニズムが残っている。

私たちがランニングやウォーキング
をして家に戻ると
脳は食べ物や新しい住み処を
探してきたのだと解釈し
報酬として多幸感を与えてくれる。

幸せな気分になれるのは
生存の可能性を増やす行為をした時だけだ。

座りがちでいると調子が悪くなる
『お仕置き』をされることも
それで納得がいく。

1日中座ってばかりいれば
獲物は捕まえられず
新しい住み処も見つからない。
座ってばかりいると生き残れない。

多くの現代人が
心や身体を病んでしまう理由は
『脳』と『私たちの環境』の矛盾、そこにある。
(p.348∼349)

・・・・・・・・・・・・・

 


私は以前にも運動と脳の関係について
ブログに書いています。


これも改めて読みかえしてみたら
とても興味深いのです。

この2冊の本は
著者も別ですし、国も違っていますが
運動こそが脳によいという点で同じです。

脳を鍛えようとクロスワードパズルや
記憶力のトレーニングをするより
ランニングやウォーキングのほうが
脳の働きがよくなるのです。


〈身体を動かすと、
気分が晴れやかになるだけでなく、
あらゆる認知機能が向上する。
記憶力が改善し、注意力が研ぎ澄まされ、
創造性が高まる。
それどころか知力にまで影響が及ぶ。〉(p.2)

〈脳の老化を予防するなら、週5日、20~30分歩こう〉

長時間歩かなくても
1回20∼30分でいいそうですよ。

〈この本を閉じて、今すぐ外に出て走ろう〉
という言葉には
それもそうだ、と思ってしまいました。

 

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