はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

大晦日 今年を振り返って

2020年12月31日 | 日々の出来事

2020/12/31

 

昨夜は強い北風が吹き冷えましたが、今朝は一転して快晴の青空でした。

おせちは少しだけ準備。焼き豚、ゴボウのチキンロール、柚子釜は手作り。

黒豆、昆布巻きは市販品。写真に撮ると量も少なく質素ですねえ。

 

今年は仕事が中止になり家にいることも多く、本をいつもよりたくさん読みました。

今年読んだ本を記録しておきます。読んだ日付順です。

1.『カサンドラ症候群』岡田尊司 角川新書 

 2.『強く美しく鍛える30のメソッド』菊地晃 光文社 

 3.『痴漢とは何か 被害と冤罪をめぐる社会学』牧野雅子 etc.books

4.『上級国民/下級国民』橘玲 小学館新書

5.『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』 橘玲 幻冬舎

6.『三島由紀夫の日蝕』 石原慎太郎  新潮社  

7.『地図から消される街 3.11後の「言ってはいけない真実」』青木美希 講談社現代新書 

8.『花粉症は環境問題である』奥野修司 文藝春秋 

9.『安倍官邸vsNHK』相澤冬樹 文藝春秋 

10.『太陽と鉄・私の遍歴時代』三島由紀夫 中公文庫

11.『翼を羽ばたかせて』田村明子 双葉社 

12.『五衰の人』徳岡孝夫 文春文庫     

13.『三島由紀夫と全共闘の時代』板坂剛 鹿砦社 

14.『女のいない死の楽園 供儀の身体・三島由紀夫』渡辺みえこ (株)パンドラ

15.『倅・三島由紀夫』平岡梓 文春文庫

16. 『三島由紀夫の最期』松本徹 文藝春秋 

17.『近代日本の百冊を選ぶ』伊東光晴 大岡信 丸谷才一 森毅 山崎正和編 講談社

18.『新版・三島由紀夫 ある評伝』ジョン・ネイスン 野口武彦訳 新潮社 

19.『三島由紀夫の家』篠山紀信 美術出版社 

20.『家庭の幸せの経済学 山口慎太郎 光文社新書

21.『荒野より』三島由紀夫 中公文庫

22.『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』阿佐ヶ谷姉妹 幻冬舎

23.『三島由紀夫と天皇』 菅孝行 平凡社

24.『学びを結果に変える アウトプット大全』樺沢紫苑 sanctuary books

25.『三島由紀夫 剣と寒紅』 福島次郎 文藝春秋

26.『暴流のごとく』平岡倭文重 新潮・昭和51年12月号

27.『ペルソナ 三島由紀夫伝』 猪瀬直樹 文春文庫

28.『ヒタメン 三島由紀夫 若き日の恋』 岩下尚史 文春文庫

29.『戦争の歌がきこえる』 佐藤由美子 柏書房 

30.『パスタぎらい』ヤマザキマリ 新潮新書

31.『三島由紀夫の世界』 村松 剛  新潮社

32.『金閣を焼かなければならぬ』 内海健 河出書房

33.『彼女たちの三島由紀夫』 編著/中央公論新社

34.『今さら聞けないスキンケアの正解』 吉木伸子 主婦の友社

35.『夫が倒れた!献身プレイが始まった』野田敦子 主婦の友社

 

今年は三島由紀夫没後50年で映画が公開されたことから、4月頃から三島関係の本を多く読みました。

昔はよくわからなかった三島ですが、何十年も経た今読むとわかるのです。そのきっかけは石原慎太郎の『三島由紀夫の日蝕』でした。それをヒントに謎が解けていく感じでした。

その育ちや性格傾向、性的志向、精神病理も含めて、読んでも読んでも興味の尽きぬ人で、もうしばらくは三島を読み続けるでしょう。

今年はコロナで心配が多く神経も使いました。コロナがこれ以上拡大して続けば、きっと疲弊してしまうでしょう。

ですが、仕事が休みになったことは、私の心に安寧をもたらしたことも確かです。

自分にとっては生きがいであり、励みでもあると思っていた仕事ですが、どこかで無理をしていたと感じることもありました。見直しの機会にもなりました。再開後は新鮮な気持ちで向き合うことができました。

毎年大晦日に行っていた近所の蕎麦屋が閉店してしまいました。おいしくて気に入っていた店でした。

駒込の小松庵に行きました。つゆも蕎麦もとてもおいしかったです。

汁蕎麦と盛りが半分づつの大晦日蕎麦。

 

今年1年、家族も含めて体調を崩すことなく、無事に暮らして来られたことに感謝です。

1年間お読みくださった皆様、ありがとうございます。

よいお年をお迎えください。

 

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三島由紀夫の死の理由とノーベル賞

2020年12月30日 | 三島由紀夫

2020/12/30

 

三島由紀夫のことを少しでも知っている人は、彼の死の原因、そして「なぜあのような死に方をしたのか」ということを考えると思う。

ここでは前回12月8日の続きで『ヒタメン』(岩下尚史著 文春文庫)で湯浅あつ子が語っている三島の死の理由から、引用してみようと思う。


 

9章「最後の証言者」より(湯浅あつ子の言)

歌舞伎座で『椿説弓張月』の興行のとき(昭和44年11月)に偶然、三島と会った。その時「萬之助のために芝居を書いて欲しい」と頼むと、「残念だが、もう時間がないんだ。今ちょうど一生作(ライフワーク)に打ち込んでいるところで、これを書き上げたら、あっちゃん、僕は、此の世から居なくなるからね」と言いましたのよ。

あの人は、「20台(原文ママ)の頃から45歳になったら死ぬんだ、男が人間として見ていられるのは、45まで。」と公言して居りましたからね。

「あっちゃん、後を頼むよ。ずいぶん会わなかったのに、ここで遇ったのも、やっぱり縁があるんだね」というんです。後を頼むとは、子どもだけは守ってほしいと云うメッセージだったんです。つまりマスコミ対策を頼んだつもりだったのでしょう。(p.325)

先程から申し上げているように、20台の頃から45になったら死ぬと公言しておりましたから、彼の計画通りと言えば、言えないこともありませんね。(P.326)


それと・・案外、お金の苦労もあったんじゃないでしょうか?

”楯の会”を作った頃だと思いますが、「みんなの制服代だってバカにならないんだぞ、ぼくの貯金だって、多いときからみると10分の1になっちゃたんだ」なんて、こぼしていましたもの。

もちろん、そのことだけが、ああした死に結びつくとは考えられませんけれども、40を過ぎた頃から金銭的なことで、だんだん心細くなっていったことは事実です。

もうその頃になると、公ちゃんの書く小説だって、彼が30前後のときのようには、売れなくなっていたではありませんか?


・・・・・

湯浅あつ子が話した「楯の会」費用については、『ペルソナ 三島由紀夫伝』で猪瀬直樹も書いているので引用します。

「楯の会は100名近くに膨らんでいた。運営費は三島のポケットマネーから捻出された。西武百貨店社長堤清二の好意で派手なデザインの制服が提供されたが、貰ったわけではない。イージーオーダーで1着1万円が支払われたが実費は2万円強である。夏服、冬服で101着分202着が発注された。(中略)喫茶店代や合宿代、自衛隊体験入隊費用、制服支給費など、三島が2年間(昭和43~45年)で支払った総額は1500万円になるという。

『新潮』に連載した「春の雪」から『天人五衰』までの「豊饒の海」シリーズの原稿料は、4百字詰め原稿用紙1枚につき1500円だった。全部で3千枚だから、原稿料収入は450万円に過ぎない。(単行本は別途)。当時、湯浅あつ子に「支出がばかにならない」とぼやいている。」(p.364~365)

・・・・・

湯浅あつ子の証言の続き

ノーベル賞のことは大きいですね。あれは三島由紀夫にとって、大きな打衝(ショック)だったと思いますから。

だって、自分では当然受けるつもりで、授賞式用の礼服まで誂えちゃって、傍目にも可笑しいほど浮き浮きしていたんですから・・・。

それが、恩師として立てていた人に横から取られちゃった形で、私たちの前では、ずいぶん、口惜しがっていましたし、恨んでもいました。

ほんとうに、公ちゃんの人生は、色んなことが思うようにならず、可哀想でした。(p.327)

・・・・・

ノーベル賞が取れなかったこと、川端康成に横取りされたと感じた恨みについては、他の人も語っている。

テレビのBS1スペシャル「三島由紀夫X川端康成 運命の物語」では、そのことを取り上げていた。

三島と親しかった女優・村松英子によれば、三島は川端の鎌倉の住まいに呼ばれ、ノーベル賞は辞退してほしいこと、そして川端の推薦文を書いてほしいと頼まれたと話したという。

そして瀬戸内寂聴は、「平岡家はみんな川端を憎んでいた、と弟の千之から聞いた」と語っている。

母・倭文重も「ノーベル賞を取っていたら死ななかったと思う」と書いている。

川端の受賞を知り、お祝いに駆けつけた三島

1963年度(昭和38年)から1965年度(昭和40年)の有力候補の中に川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎と共に三島が入っていた。そして1961年(昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたとされる。

世界の文豪を特集したドイツのラジオ新聞(昭和38年12月)上から2段目、右2人目が三島

三島が推薦文を書いたのは36歳の時だったから、まだ三島は若かった。年功序列的な日本文壇では、断り切れなかったのであろう。

候補として名前が出たのは38歳。川端がノーベル賞をもらったとき、三島は43歳だから、10年待てば、また日本人にまわってくるのでは、という気もするが、三島はそこまで生きるつもりはなかった。昭和43年の日本人のノーベル文学賞が、三島にとって最初で最後のノーベル賞チャンスだったのである。

たくさんの三島関係の書物を読んで感じるのは、三島ほど、称賛や名誉を欲しがった人はいないということ。どんな場合も、小説だけでなく、ボディビルでも映画でも、注目されること、称賛されることを強く願った。

ジョン・ネイスンの『三島由紀夫・ある評伝』には、こう書いてある。

三島はノーベル賞を飢渇しつづけた。

昭和40年2月の初めのこと、三島は私にはっきりとノーベル賞が欲しいと語り、私に助力も依頼した。

三島と銀座「浜作」で待ち合わせ、次の小説を翻訳するだけでなく自分の正式な翻訳者になってノーベル賞を取る手助けをするという約束をしてくれないかと申し出たのであった。私は夢見心地でそれを承諾し、二人は握手を交わした。

『絹と明察』(昭和39年)は(中略)錯雑を極めた。それを英語に移すことはたいへんな労苦になるだろう。私は翻訳の仕事を続けるのに必要な熱意を持つことができまいと悟った。

このことを三島に伝えると彼は穏やかに了承したが、その後連絡を取ることはなかった。

私には三島のきっぱりした絶縁の背後に何があったのか、今もって完全には理解できない。当時それを理解するにはあまりに手痛い打撃だったのだが、今になって分かった1つだけ確実なことは、私は深く三島を傷つけてしまったことである。

私たちが最後に会ってから程ない頃、三島は一群の作家たちに私のことを「左翼に誘惑された与太者」であるといった。(P.246~247)


先日、これと同じようなことを私は、ドナルド・キーン研究会のブックトークでも聞いた。

三島はノーベル賞を取ることに執心した時期があって、ドナルド・キーンに『愛の渇き』の翻訳を頼んできたが、その当時は忙しかった。後になって『愛の渇き』は忘れて、安倍公房を翻訳してしまった。それがノーベル賞受賞と関係があるかどうかわからないが、自分の心残りになっている、というものだ。

 

翻訳を断ることは作品の否定ではない。翻訳者の事情もある。だが、三島は作品を否定されたように感じたのかもしれない。後の三島の死を知った2人の翻訳者は、悔恨の情を抱かざるを得なかった。

 

三島が「楯の会」を立ち上げたのは、昭和43年10月のこと。川端康成のノーベル賞が決まったのも43年10月であったことを思うと単なる偶然とも思えない。文壇の道ははっきりと諦めて、武の道へ向かったのが、この川端のノーベル賞受賞がきっかけだったかもしれない。

三島の死の理由は、ノーベル賞をもらえなかったことだけではない。ノーベル賞のことは大きなきっかけではあったと思うが、私が考えることは他にもある。

それはまた次回にします。

 

 

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あと三日で今年も終わり

2020年12月29日 | 我が家

2020/12/29

 

気がつけばもう29日、今年もあと3日で終わりです。

あまり季節を感じることなく年末になってしまったような気がします。行事が少なかったからでしょうか。

窓拭きと網戸拭きをしました。先日テレビで見たやり方・・・網戸の両側を雑巾で挟んで拭くと、網がゆるんでこない。

上からぬれ雑巾で拭いていくと雑巾が真っ黒。汚れていたんですね。何度も雑巾を洗って拭きました。下の桟も溝も拭いてすっきりしました。

ベランダの花、今年は少ないのですがきれいに咲いています

 

密を避ける分散参拝の初詣が呼びかけられていますが、歩いて15分くらいの氏神神社にお参りに行ってきました。

今年は大変な年でしたが、一応無事に過ごせたことへのお礼と

コロナの収束をお願いしました。

 

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目は口ほどにものをいう

2020年12月28日 | 雑感

2020/12/28

 

NHKBSプレミアムで放送中の「ヒューマニエンス」はおもしろいシリーズ番組。

今年10月から始まった番組ですが、見始めたのは11月の下旬からです。

12月24日は、「"目” 物も心も見抜くセンサー」。

https://www.nhk.jp/p/ts/X4VK5R2LR1/episode/te/X4QPWLZVL2/

「白目を持つことで生まれた「視線」は、ヒトが一瞬で心を通わせて、他の生物にはない集団コミュニケーションを可能にする進化の賜物だった。目で心を伝え、読み取る。」

 

私が特におもしろいと思ったのは、後半の白目の役割と視線の持つ力について。

ヒトは目の強膜(白目)部分が横長で大きく、それが自分の気持ちを伝え、相手とコミュニケーションを取る役割をしているのです。

視線を合わすことでオキシトシンが分泌。

 

生後18ヵ月の幼児の前に2つの違った物を置き、前にいる大人がAに笑顔で視線を向け、Bには厭な顔をしてみせる。

そして、ちょうだいと手を出すと、幼児の87%は笑顔を向けたほうの物を手渡すという。

こんなに小さいうちから、子どもは相手の気持ちを理解して、それに添った行動をするのですね。

さらに興味深いと思ったのは、文化圏によって目と口のどちらで感情を読み取るかということ。

コロナ禍、欧米の人々がマスクをいやがり、なかなかしなかったのに比べて、東アジアではすんなりマスクをするようになったのは、目と口のどちらで感情を読み取るかが関係しているらしいのです。

日本では、口ではっきりものを言わずに意思を伝えるやり方をやってきた。だから、マスクで口元を隠しても、それほどコミュニケーションに支障はなかった。

日本とアメリカでは、顔文字で読み取る意味が違うそうです。

この絵文字は日本人には笑顔マークですが、欧米人には無表情なのですって。

 

日米、どちらが笑顔として認識されるか

日本ではへの字口でも、目が笑っていると、幸福だと認識されるのです。

日米の顔文字の対応図がおもしろい。

アメリカは目は点々で、口の形によって変化をつけているのですね。

 

パフォーマンスとしても視線は大事。

オバマ元大統領は演説の時には、左右双方に同じくらいの回数で視線を送っている。

見られることは、相手に関心を持たれていると感じさせる。

(写真はすべて画面撮りです)

政治家の人心掌握術ですね。手元の原稿に目を落としてばかりいたら伝わりませんよね。

演技でもダンスでも視線の使い方は大切ですよね。

なるほどと思うことがいっぱいでした。

 

 

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年末の仕事

2020年12月26日 | 日々の出来事

2020/12/26

 

よい天気が続いています。風もなくて穏やかな日々。

昨日の夕やけがきれいでした。

 

今日は気になっていた年賀状に手をつけました。

毎年出す数は減ってきており、だんだんとシンプルになっています。が、いただく年賀状はすてきな家族写真だったり、アイディアがあったりと、丁寧に作ってくださっているので、こちらもきちんとしたものを作らなくてはと思うのです。

「〇ちゃん、こんなに大きくなったのね~」と家族写真の年賀状を見るのが楽しみですが、今年はうちから出す賀状には、よい家族写真がなくて(自分の写真写りがいまいちで)、型通りの挨拶文でまとめた年賀状。

宛名印刷も、郵便番号が枠からはみ出したりして苦労しながら印刷を終えました。枠からはみ出した郵便番号の年賀状が届いた皆さん、すみません。先に謝っておきますね。

あとは一言ちょっと書き添えるだけ。ここまで終えると、ほっとします。

 

 

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