2025/08/12
今日は日航123便が群馬県上野村の
御巣鷹の尾根に墜落してから40年目
にあたる日だそうです。
私のブログ記事のなかで
青山透子さんの著書『日航123便墜落の新事実』
が多くアクセスされていました。
昨年、あの本を読んだときの衝撃は
大きいものがありました。
青山透子著『日航123便墜落の新事実』 - はちみつと青い花 No.2
2024/05/15先日このブログに書いた森永卓郎さんの本の中に紹介されていた青山透子さんの本です。この本も今Amazonのベストセラー1位になっていますね。私は連休中ずっと読ん...
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上の記事には書いてないことが多くあります。
私の読書ノートには
たくさんの書き写しが残っています。
それをここに載せようと思います。
(長くなります)
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青山透子 『日航123便墜落の新事実』河出文庫 2017年7月出版
〈引用〉
重要な証拠物の圧力隔壁が現場でほぼそのままの状態で見つかったにもかかわらず、遺体収容や搬出困難といった理由で、日米合同調査の調査委員が来る前日の15日に自衛隊が大型カッターで5分割にしてしまったのはなぜか。(p20 )
あの夜、上空を飛んだ飛行機の中には、事故機がこの下で燃えていると視認した者もいる。方法も技術もある。なぜ10時間も墜落位置を特定しなかったのか。
中曽根首相は群馬県上野村が自分の選挙区であるにもかかわらず、静養中と称して上野村とはほど近い軽井沢で水泳やゴルフなどを楽しみ、事故発生時には現場に来なかった。
中曽根首相は後に自分が書いた本の中で次のように語っている。
『日航ジャンボ機墜落の報告が私に届いたのは、軽井沢から東京に戻る列車の中で午後7時すぎでした。それで午後8時頃首相官邸の執務室に入って、即時にいろいろな報告を受けたし、こちらから対策の司令も出した。』
その後、東京女子医大病院へ人間ドックに夫人とともに入る。8月17日退院。終えて軽井沢別荘で静養とある。
中曽根は3か月後の11月4日に初めて現場を訪れた。群馬県警から忙しいので伸ばしてほしいと言われて、ひと段落した時期に伺った。 (p.67)
8月12日、20時20分羽田空港に対策本部設置。その羽田東急ホテルで日航の町田副社長は乗客に詰め寄られて「北朝鮮からのミサイルに撃たれたのだ」と叫ぶ。その数日後、社長候補だったにもかかわらず失脚する。(P.82)
1985年当時、北朝鮮から領空侵犯して相模湾に入ってピンポイントで日航機を打ち落とすほどの技術があるはずもない。当時そんな技術があれば、今さら実験しているわけもない。
(ジャパンタイムズ紙の記事 1985年8月14日)
墜落事故の翌日の13日、中曽根首相と加藤紘一防衛庁長官が、マンスフィールド大使同席のもと、米軍のクラフ米太平洋軍司令官とティッシュ在日米軍司令官に会い、加藤紘一防衛庁長官からクラフ氏に勲章を渡している。その勲章は「The First Class Order of Rising Sun」というもの。そして、米空母ミッドウェイ艦載機の発着訓練基地の確保、自衛隊の継戦能力の充実、防衛協力に関する首相の努力などについて語り合ったという。
事故の翌日、今まさに現場で遺体を収容している翌日に勲章を渡すとはどういうことなのだろうか。このようなおめでたい話には緊急性はなく、通常はお互いに配慮して延期することも可能なはずである。(p.102)
アントヌッチ氏の証言によると「墜落上空でいち早く駆けつけた米海兵隊を帰還させて他言無用の指示を出した」
在日米軍の最高責任者に、墜落現場にまだ行っていない首相が、何に対して勲章をあげたのだろうか。(p.101)
【時系列】
8月16日には圧力隔壁の修理ミスが事故原因として有力と毎日新聞が報道。
ボーイング社が圧力隔壁説を否定。
日航の整備部長は「突風など何らかの外からの力で垂直尾翼が折れ・・・・」と外的要因を強調。
8月23日 現場調査に実際に行った運輸省の調査官は「隔壁に大穴はなかった」と発言。
9月14日、日航の河野宏明整備部長がボーイング社の整備ミスを否定。
10月2日、ボーイング社が修理ミスを認めるような発言をする。
1990年8月12日公訴時効成立
1999年11月、航空事故調査委員会が日航機事故関連のおよそ1トンもの重要書類を裁断して破棄、焼却したことがわかった。
事故調査委員会から発表されているものはたったの8行。
『後部圧力隔壁破損によるもので、起因は不適切修理と推定される』とある。つまり断定ではない。(p.28)
【目撃者たちの証言】
2015年9月 突然、出版社をたずねてきた女性がいた。前に出版した本を読んで来たのだという。藤枝市の小林美保子さん、当時22歳。当時、運輸関係の会社に通勤していた。
18時30分頃、キャーンキャーンという悲鳴のような音がして空を見上げた。
日航123便が低空飛行をするのを見た。はっきりと窓が見えるほど高度が低い状態だった。機体の左下のお腹が真っ赤に抜けたように見えた。円筒形で真っ赤。楕円ぽい形でした。胴体に赤い丸い絆創膏を貼ったようなものがくっついていた。
ギザギザに折れた垂直尾翼が目視できていた。
18時35分頃、5分後に目の前を跳ぶファントム機が2機、同じ方向に飛んでいった。 藤枝市立大洲中学付近である。
事故調査委員会の発表では24,900フィート(7470m)と書かれた地点で、目撃情報では超低空飛行だったという証言。
18時40分頃、群馬県吾妻郡東村の自衛隊員もファントム機を目撃していた。
ファントム機が追尾していったのなら、すぐに墜落地点が分かるはず。
群馬の山々の稜線からすると1,000m程度
なぜファントムの存在を隠し続けるのか そうしなくてはいけない理由があった。事故ではなく事件だと感じた。(p.109)
【上野村小学校、中学校の文集 235名の目撃情報】
「小さな目は見た」というタイトル。
大きな飛行機と小さな飛行機2機が追いかけっこをしている。
5分以上たっているのに、ぐるぐる回ってばかりいる。中学3年生の目撃証言
完全炭化の遺体 骨や歯まで完全に炭化 ポロポロ崩れるほど
木々の茂る山中に放り出された生身の肉体が炭化するほど焼けるのか?
〈青山さんの推察〉
18時40分にはファントム機2機は上野村上空にいた。
赤い物体は誘導弾では? 誘導弾とは命中率を上げるために自ら動いて目的物まで飛翔する。
訓練用の炸薬非搭載のミサイル…赤色で長さ4∼5mの円筒形、だ円の物体。
高浜機長は自衛隊出身でその存在を知っていたのではないか。 何かが機体に付きまとっている。
相模湾では自衛隊の護衛艦まつゆきが試運転中、短SAMシースパロー(艦対空ミサイル)も垂直発射装置の試験中だった。
赤い破片、ミサイルの痕跡を消すために人命救助は後回し。時間稼ぎをしたのではないか。(p.171)
日航123便以外の事故の生の、ボイスレコーダーは社員に公開されているが、あれだけ(123便)は乗員側が何度申し出ても、遺族への配慮という理由で公開されない。
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長々と書きました。
抜き書きなのでわかりにくいところも
あるかと思います。
123便は相模湾で訓練中の自衛隊によって誤射をされ
その痕跡を消すために追尾され
ついには自衛隊により御巣鷹山で
撃ち落されたのだという。
その処理のため、炭化するほど焼かれ
場所が特定できないということにして
翌朝まで時間稼ぎをした。
この事故の責任を米ボーイング社に押しつけ
肩代わりしてもらった見返りとして
日本政府はアメリカの言いなりになった。
ということが書かれています。
青山透子さんは、7月に
『日航123便墜落事件 四十年の真実』(河出書房新社)
という本を新たに出版されています。
真実はいったい何なのか。
青山さんの書いたことは本当なのか…
今読み返してみても驚くべき内容です。
本当のことを知っている人が必ずいるはずです。
語ってほしいと思います。