2024/06/26
島崎今日子著『安井かずみがいた時代』
の続きです。
1977年、安井かずみは8歳年下で
ミュージシャンの加藤和彦と再婚。
当時、安井は45歳、加藤は37歳だった。
以下、本書より抜き書き、要約引用させていただきます。
「安井が加藤と出会ったのは、1970年代の始めである。当時、安井の恋人のミュージシャンが加藤の友人という縁もあり、交流があったが、加藤には福井ミカというパートナーがいて恋には至らなかった。」(p.181)
「二人の再会は1975年12月、安井のエッセイ集『TOKYO人形』の出版記念パーティであった。加藤の離婚を聞いた安井は〈しめた〉と思い、〈明日、電話してください〉と加藤に囁いた。」
「夕食も休暇も、すべての愉しみを夫婦で共有するのが安井の望んだ結婚の形である。その抜きんでたセンスと経済力に支えられた生活は、庶民には到底手の届かないものだった。」(p.184)
ワインのPR誌の取材で、ウィーン、ヴェネツィア、ローマを巡ったとき、夫婦は会社が用意したビジネスクラスのエアと4つ星のホテルを、自費でファーストクラスと5つ星アップグレードした。
太田進は語る。(雑誌『週刊ホテルレストラン』を創刊し、「オータバブリケイションズ」の2代目社長。加藤の弟分のような存在で、二人の旅のコーディネートを依頼されていた人物である。)
「世界のホテルで世界中のセレブのドレスコードやマナーを見て、学ぶところは多かったのですが、あの二人は最初から日本人離れしたものを持っていました。かずみさんは英語もフランス語もできて、イタリア語も挨拶ぐらいはできた。どんな人を相手にしても動じない雰囲気を持っていた。」
「うちの母が言ったことがあります。加藤さんはかずみさんと出会ったことで、相当いろいろ学んだのよ。フォーク・クルセダーズの頃はエスタブリッシュの世界に来るような人ではなかった。かずみさんによって立ち居振る舞いやワインのこと、絵のことなどを学んでいったのでしょう。」(P.189)
二人はハワイ、マウイ島のカパルアに別荘を買った。
加藤は安井との生活を大事にしていると公言し
どんなに多忙でも二人で夕食を摂る
という決めごとを破ることはなかった。
安井も加藤と結婚してから
2人の生活を大切にしようという気持ちだった。
「いままで私は日常生活のない女だったの」
「加藤和彦と結婚してからは、健全で健康的な〈昼の生活スタイル〉にシフトする。保守的な安定志向が散見される。
加藤和彦と理想の夫婦として生きることが、女の幸せの完成形としてエッセイに綴っていった。」(p.100)
太田は長い付き合いの中で、二人がけんかをしているのを見たことがない。
「加藤さんが言うことをきいちゃうんですね。」
そして一方、安井の女友だちの目には、「彼に気を使いすぎて痛々しい」、「尽くし過ぎ」と映っていた。(p.191)
安井と結婚してからは
加藤の音楽の友人たちとは疎遠になっていった。
安井と加藤には収入格差があった。
安井にはカラオケブームの莫大な印税が入って来た。
二人の生活を、日本中が
ショーウィンドウに飾られた商品のように見ていた。
大宅映子の話
「『贅沢は敵だ』の大宅壮一の家で育っている私には別荘なんてありえない話。和彦さんからの誕生日プレゼントが紫色のポルシェであったり、カルティエの500万のイヤリングであったり。」
大和書房の編集者・矢島祥子の話
初めて六本木の家を訪れた矢島は安井の変貌に驚いた。
「メイド服を着たメイドさんがいる家の中で、アルマーニのジャケットを着て、ヴァンクリフ&アーベルのダイヤのイヤリングをつけていた。私の知っている安井さんってお金持ちで、サンローランも着ていたけれど、パリの名もない店で見つけたスカートをはいていたりする人。ブランドで飾り立てることを一番嫌っていた人が、ブランド尽くめのコンサバになっていた。幸せそうに振る舞っていたのに、私にはあんまり幸せそうな顔には見えなかった」(P.273)
「あくまで私の推測ですが、安井さんが六本木の家を買ったのは、加藤さんとの関係を再構築するためだったんじゃないかと思います。結婚して数年たったころ、加藤さんの浮気問題に、安井さんはひどいショックを受けていた。」
傍目には、キャリアも収入も上の女が
年下の男をリードするように映っていた。
ただ、男が他の女に気持ちを移した瞬間に
二人のパワーバランスは完全に逆転した・・・
安井は加藤と夫婦を生きることが
アイデンティティになっていた。
加藤にとっても、安井とカップルでいることは
ステータスだったに違いない。(P.276)
1993年、安井かずみは肺がんのステージⅣ
であると宣告された。
この続きは次回に。