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はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

壁に覆いつくされた雄勝の海辺

2021年03月05日 | 雑感

2021/03/05

 

高い壁を見あげる女性の写真を見たのは、2月のこと。

衝撃を受けました。海岸線がこんなふうになっているのかと・・・

私が2016年に復興応援バスで訪れたことのある宮城県石巻市雄勝の海岸の写真です。

3㎞にわたって作られた防潮堤

私のパソコンの画面撮りなので不鮮明な写真ですが、おおよそはわかると思います。(お写真お借りします)

引用元のAERA ↓

https://dot.asahi.com/aera/2021020900050.html?page=1

 

AERAより抜き書きで引用します。

〈灰色の巨大な壁が現れた。高さ9.7メートル、長さ3キロにおよぶ防潮堤だ。城壁のように延びる防潮堤のすぐ裏にある海は見えず、その気配すら感じない。

 震災前、この海沿いには住宅や商店が立ち並び、350世帯が暮らす街があった。だがいま、地区に残るのはわずか30世帯ほど。海際の低地は災害危険区域に指定されて住むことはできず、高台の集団移転地に暮らしている。

「雄勝は、防潮堤に殺された」

 高橋頼雄さん(53)は絞り出すように言う。雄勝の名産でもある硯(すずり)職人の3代目。震災後の地域復興を引っ張るリーダーだった。だが、高橋さんは19年春に雄勝を離れ、いまは福島県いわき市で暮らす。

高橋さんら地元住民の多くは、巨大防潮堤の建設に反対してきた。市役所支所が事務局を担い、高橋さんが副会長に就いた雄勝地区震災復興まちづくり協議会では11年7月、石巻市長に11項目の要望書を提出した。要望の一つ目は住宅再建のための高台造成。二つ目に、高い堤防を築かないよう求めた。

震災前と同じ4.1メートルに留めるよう求め続けた。しかし、16年、工事は始まった。

高さ9.7メートルもの防潮堤をつくっても、東日本大震災規模の津波が来れば、たやすく越水する。それどころか防潮堤で海が見えず、避難が遅れるとの指摘も多い。

防潮堤をつくらず、海際には大事なものを置かない。そして、あの日のことを語り継いでいくのが本当の防災ではないかと高橋さんは言う。

工事が進んだある日、高橋さんは趣味の釣りのために沖へ出て愕然とした。

「青い海の先に山が連なり、幾筋もの沢が輝く。そんな海から見た雄勝が私の原風景です。でもその日は、高い壁で囲まれたグロテスクな景色でした」

この日、雄勝に住み続けることを完全に諦めたという。

 東日本大震災で破壊された海岸堤防等の復旧・復興事業は被災6県(青森、茨城、千葉を含む)の621カ所(延長432キロ、原子力被災12市町村除く)で進められ、昨年9月末現在で75%が完成、今年度末を目途に工事終了を目指す。昨年度までに1.4兆円が投じられ、東北各地に10メートルを超える防潮堤が出現した。

 政府の中央防災会議の方針を基本に防潮堤を計画。村井嘉浩知事は「やめたらもう先には、どんな理由があってもやれない」と、全額国費で賄える復興期間の5年間(のちに延長)での完成を目指したのだ。〉

 

私がこの記事に目を留めたのは、先にも書いたように、2016年に訪れたことのある場所だったからです。

仙台駅からJRの復興応援バスに乗り、石巻市の「大川小学校」を左に見ながら、右折して雄勝湾に向かって行くと、雄勝店こや街(おがつたなこやがい)がありました。

そこで昼食をいただいたのです。

この海鮮丼のおいしさは今でも忘れられません。ここはおいしい海産物が採れるところなのだと知りました。

ガイドさんが雄勝は風光明媚な場所で「日本一美しい漁村」だと言っていたのが印象的でした。

雨で暗かったので、海の写真はあまり撮りませんでしたが、店こやの裏側にあった雄勝港です。


(おがつ店こや街は令和2年3月をもって閉店したそうです)

地元の方たちが、防潮堤を「これで安心だ、よいものができた」と喜んでいるなら、それでいいのです。地元民でない私がとやかく言うことではありません。

でも地元の方が悲しんでいるというなら話は別。住民の意見を無視した復興は、本当の復興なのでしょうか。

私は静岡県の浜名湖西岸の海の近くで育ちました。海まで歩いて行けました。浜は美しい砂浜でした。だから、そういう場所にこのような防潮堤ができたらと想像すると、気持ちがわかります。

住民はいつも海を見て、海からの恩恵を受けて暮らしていたのでしょう。何十年、何百年に1度の津波のために、毎日の生活の恩恵を奪われてしまうのは悲しいことです。そこに住んでいる住民の意見を聞かないのも悲しいことです。

この防潮堤は今後ずっと、何十年もあり続けるのでしょうね。

 

 

 

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森会長に代表される社会

2021年02月12日 | 雑感

2021/02/12

 

森会長が辞任なさった。

私は7日のブログに、「森さんはそんなものだろうと、期待も憤りもなかった」と書いたのです。

それは、森さんに代表されるような権力・政治力のある男性がトップにいる社会とはそういうものだ、それは大きすぎて変えられない、という諦めのようなものだったのです。

でも、ムーブメントはどんどん盛り上がって、SNSでも、マスメディアでも、「これはやっぱりおかしい」、「声を上げなくてはいけない」という声が大きくなっていきました。

これはうれしい誤算でしたね。やはり、女性が軽視されている社会はおかしいと思っている人たちが潜在的にたくさんいたということですね。

話題になったことで、気づかなかった人たちにとっても、身の回りにある「女性蔑視」や「男女不平等」に気づくきっかけとなり、社会を変えていこうという潮流になっていったら、とてもうれしいのです。

 

私は大学で「女性学」を履修したことで、社会が男性中心に回っており、全ての学問、芸術の分野においても、男性の目線で学問が作られ、語られて、芸術が創造されていることを知りました。

その後、2008年に区の男女平等推進センターの「男女共同参画」講座を受けたことから、運営委員になり、イベントの企画、会報誌の編集委員を務めさせていただきました。

そのときに講師として来てくださった社会学・メディア学のM先生(男性)がおっしゃった言葉がとても印象に残っています。

「自分は学者として、部落差別とか人種差別を研究しようと思っていたが、もっと大きな差別があることに気づいた。それは男女差別だった。それは身近で、もっとも大きな問題だった」

この言葉は私にも大きな気づきを与えてくれました。メディアで描かれる女性性、男性性を細かく具体的に学び、マスメディア報道を見るときにも、ジェンダー観にとらわれた送り手の視線を読み解く方法を知りました。

 

そんな中で気づいたことのひとつに、ほんとうに賢い男性たちは女性蔑視の視線がない、ということ。

この社会でも女性なくしては成り立たないこと、女性に愛され支持を得ることこそが、最も強い、社会を生きていく力なのだと知っているということです。

 

 

 

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今は家にいる時

2021年01月28日 | 雑感

2021/01/28

 

コンサートやバレエ、演劇、お笑いの公演情報がメールで毎日届きます。

例年だったら、喜んで申し込んでいたものばかりです。でも、今は先のことがわかりません。春から夏にかけての公演でも、まだ申し込むことには躊躇します。

昨年は、覚えているだけでも11公演払い戻しをしました。払い戻しもしないで、そのまま行かなかった公演もありました。

私は行動的だと思われているフシもあるのですが(笑)、実は家にいるのが好きです。パソコンも、読書も、ピアノも、テレビも、園芸も好きなので、退屈しないうちに時間が過ぎていきます。

今はこういう時期だから、家にいて、せいぜい自分を楽しくさせて過ごそう、と思います。

何かちょっとためになることをしておこう、いや、しなくても全然かまわない。…というのも、無為に過ごしてしまったと自分を責めるのもよくないから。

何ごともなく平穏無事に暮らせたことこそ、大切なのではありませんか。

何気ない日常がありがたいことですよね。

 

午後から雪が降ってきました。

降り出す前に買い物に行っておいてよかった。

ずいぶん冷えると思ったけれど、雪になりました。視界が白い。

 

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選んだ道を自分で正解にしていく

2021年01月09日 | 雑感

2021/01/09

 

ジェーン・スーさんの言葉で、もうひとつ心に響いた言葉があります。

「自分の選んだ道を正解にするのは自分である」という言葉です。(ラジオで1度聴いただけなので、この言い方だったかどうかは定かではありませんが、このような意味です)

人生にはさまざまな選択の場面があります。進学、就職、出会い、別れ・・・など。何を選んだらいいのか、どれが自分に向いているのか、悩み迷うことがありますよね。

決めた道を歩んでいる途中にも、これは正しかったのか、これでよかったのか、向いていないのではないか、と揺れることがあります。

ジェーン・スーさんは、「選択に正解はない」というのです。

これを聴いたとき、「なるほど」と思いました。

それまでの私は選んだ道が正解だと思えたら、それは運がよかったとか、勘が働いたとか、先見の明があったとか考えるでしょう。

でも、スーさんは決めた道は、自分が努力して、動いて、考えて、正解を作っていくものだというのです。道を決めたときは出発点。その後の動き方、心の持ち方が大事なのですね。

私にはこの考え方がいいなと思いました。

 

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自分を幸せにする

2021年01月08日 | 雑感

2021/01/07

 

ジェーン・スーさんのラジオ(TBS)が好きで、聴いています。

特にスーさんのお悩み相談コーナーが好きなのです。

私も人のお悩みを聞くと、いろいろな感想を持つことがありますが、ジェーン・スーさんは私の思う感想などを上回って、いつも素晴らしい回答をなさるのです。

私より若いけれど、人生経験、仕事の経験から来る洞察力があって、ものの見方が幅広く公平なのです。スーさんの回答で、それはちょっと違うなあと思ったことはありません。

教えられることが多くて、世の中ってそういうものなんだな、と思ったりします。

 

そのジェーン・スーさんが、今年の抱負を「自分を幸せにすること」とおっしゃったのです。

私の思いつかなかった言葉でした。

自分を幸せにするというのは、自己本位、自己中心的に生きることではありません。

もし、そんなふうに生きたら、人と対立したり、迷惑をかけたりして、人は離れていくでしょう。そして孤独になってしまうでしょう。孤独で、本当に幸せな人はいません。

自分を幸せにするというのは、人を幸せにすることなんです。人が自分のしたことを喜んでくれたほうが、ひとりだけで喜んでいるより、ずっと幸福を感じるのです。

何か役割をしたり、与えたりして、人の役に立っていると感じるとき、人は幸せです。

「自分を幸せにする」という言葉は含蓄が深いなと思いました。自分も人も大切にするのです。人が不幸なとき、自分だけ幸せを感じることはありません。結局、人類愛なのだと思いました。

私も「自分を幸せにする」を、今年の目標にしようかなと思います。

 

 

 

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目は口ほどにものをいう

2020年12月28日 | 雑感

2020/12/28

 

NHKBSプレミアムで放送中の「ヒューマニエンス」はおもしろいシリーズ番組。

今年10月から始まった番組ですが、見始めたのは11月の下旬からです。

12月24日は、「"目” 物も心も見抜くセンサー」。

https://www.nhk.jp/p/ts/X4VK5R2LR1/episode/te/X4QPWLZVL2/

「白目を持つことで生まれた「視線」は、ヒトが一瞬で心を通わせて、他の生物にはない集団コミュニケーションを可能にする進化の賜物だった。目で心を伝え、読み取る。」

 

私が特におもしろいと思ったのは、後半の白目の役割と視線の持つ力について。

ヒトは目の強膜(白目)部分が横長で大きく、それが自分の気持ちを伝え、相手とコミュニケーションを取る役割をしているのです。

視線を合わすことでオキシトシンが分泌。

 

生後18ヵ月の幼児の前に2つの違った物を置き、前にいる大人がAに笑顔で視線を向け、Bには厭な顔をしてみせる。

そして、ちょうだいと手を出すと、幼児の87%は笑顔を向けたほうの物を手渡すという。

こんなに小さいうちから、子どもは相手の気持ちを理解して、それに添った行動をするのですね。

さらに興味深いと思ったのは、文化圏によって目と口のどちらで感情を読み取るかということ。

コロナ禍、欧米の人々がマスクをいやがり、なかなかしなかったのに比べて、東アジアではすんなりマスクをするようになったのは、目と口のどちらで感情を読み取るかが関係しているらしいのです。

日本では、口ではっきりものを言わずに意思を伝えるやり方をやってきた。だから、マスクで口元を隠しても、それほどコミュニケーションに支障はなかった。

日本とアメリカでは、顔文字で読み取る意味が違うそうです。

この絵文字は日本人には笑顔マークですが、欧米人には無表情なのですって。

 

日米、どちらが笑顔として認識されるか

日本ではへの字口でも、目が笑っていると、幸福だと認識されるのです。

日米の顔文字の対応図がおもしろい。

アメリカは目は点々で、口の形によって変化をつけているのですね。

 

パフォーマンスとしても視線は大事。

オバマ元大統領は演説の時には、左右双方に同じくらいの回数で視線を送っている。

見られることは、相手に関心を持たれていると感じさせる。

(写真はすべて画面撮りです)

政治家の人心掌握術ですね。手元の原稿に目を落としてばかりいたら伝わりませんよね。

演技でもダンスでも視線の使い方は大切ですよね。

なるほどと思うことがいっぱいでした。

 

 

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そういうものなのかしら

2020年11月11日 | 雑感

2020/11/11

 

私が日常で見聞したことを軽い気持ちで、承諾も得ないで書くことは、差し障りがあってはいけないと思って、近所で起こったことはあまり書いていませんでしたが、今日は書こうかと思います。

 

一昨日の夕方のことでした。

マンションのエントランスで3人の男女が入ってくるのとすれ違いました。仕事で来た人々らしく、みんな黒い服装で書類を抱えていました。その黒い服装が、なんとなく葬儀関係の人のように感じ、このマンションで誰か亡くなったのかなと思いました。

それきり忘れていましたが、今日、下の階の方と同じエレベーターに乗り合わせました。挨拶程度の間柄ですが、その方はご高齢の母親を自宅介護しています。エレベーターでちょっと話したり、介護ヘルパーさんがやってくるのに出会うこともありました。

その方が黒いマスクをしているのを見て・・私は喪中のマスクのように感じられたのです。

「おばあちゃまはお変わりないですか?」と訊いてみました。

すると少しびっくりしたような顔をなさって、「月曜日に亡くなりました。」と言われたのです。月曜日といったら一昨日です。やはりあの時の3人は葬儀関係の方だったのでしょう。

その方は黙っていてすまないというようなことをおっしゃいました。私も心の準備がなかったので、「そうでしたか。それはそれは・・・」と言っただけでした。

すぐに降りる階に来たので、それ以上のことは話さず、降りていかれました。私は「お大事に・・・」と言ってしまってから、かけるべき言葉はお悔やみだったと思いましたが、でも了解したように頭を下げて行かれました。

エントランスの横に掲示板があって、いろいろなお知らせが貼ってあるのですが、住民の誰かが亡くなったということは出ていませんでした。

今の時代、というのか、都会のマンションでは、というのか、同じマンションに住んでいても、住人の死は知らさないようなのです。

実はこの経験は今年になって2度目です。

隣りのご主人が亡くなったのは3月末。3月末といえばコロナ自粛の真っ最中で、3月29日に志村けんさんが亡くなって、有名人の死ということで衝撃が走った頃でした。

ですが、私が隣のご主人の死を知ったのは6月中旬、もう3か月近く経っていました。

それも部屋をリフォームするので騒音が出ます、というご挨拶で来られた時に、「実は3月に主人が亡くなりまして…」と話されて知ったのです。

隣りの方です。子どももいるし挨拶もするし、親しいとまでは言えないにしても、ちょっとした立ち話もするのです。15年も隣同士で暮らしているのです。

隣りのご主人はまだ60代そこそこ、ときどきお見掛けしていました。心不全で急死だったそうです。それを3か月近く知らされなかったということが、私にはちょっとしたショックでした。

確かにコロナ禍で公共施設も閉まり、外に出ないことも多かったし、出るにしてもなるべく人に会いたくなくて、エレベーターではなく階段を使っていました。マンションの住民に会うことが少ない時期だったと思います。

隣りの方は、管理人にご主人の逝去を伝えたそうですが、掲示板に貼り紙が出ることもなかったそうです。プライベートなことは、自分の意思で知らせるべき人に知らせるというものらしく、同じマンションの住民だからといって、みんなに知らせるものでもないようなのです。

隣りの方も迷われたことと思います。

知らせることによって、葬儀やお通夜に出席するとか、香典はどうするとか、いろいろ気を使わせてしまうと考えたと思うのです。コロナ禍の最中のことで家族葬で送られたそうです。

私は知った数日後、いろいろ考えて、お香典ではなくお仏壇に供える供物(日本茶と菓子)を持っておたずねして、お線香をあげさせてもらいました。お返しは必要ないということを申しました。

このマンションで葬式はどうするのだと考えたことはあります。お棺がエレベーターに入るのかと話題になったこともあります。たぶん入りません。2人の方は住宅内ではなく、亡くなったのは病院でした。

静岡時代は一戸建ての新興住宅地だったので、自宅での葬式もあって、その際にはお宅でお手伝いをしたこともありました。

今は葬儀社に任せて、近所の手伝いは必要ない時代かもしれませんが、同じマンションの隣りや真下の住戸でも知らないというのは、もうそれが常識なのかなと戸惑いを感じています。

それほどお付き合いがないのなら、必要以上に気を廻すことはお互いに不要な時代になって来ているのかもしれません。

 

 

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アウトプット

2020年09月24日 | 雑感

2020/09/24

 

「アウトプット」とは、出力。話す、書く、行動すること。

「インプット」は、入力。脳の中に情報を入れる、読む、聞く。

本を読むのはインプットですが、読んだ本のことを人に話せばアウトプット。

書く、話す、行動するはいずれも体の筋肉を使っています。つまり、アウトプットとは運動です。

インプットは知識の累積で、それだけでは使えません。生きていくのはアウトプットの繰り返しで、アウトプットとは、自分の表現であり、伝達です。

ピアノを弾くことも、絵を描くことも、ダンスをすることも、練習はインプットですが、人に伝えるならアウトプットです。

 

このような、私のブログもアウトプットです。経験、感じたことなどを書くには、振り返り、頭の整理、状況を切り取ってまとめる作業、キーボードに打つ、写真を挿入するなど様々な工程があって、頭を使い、手を使います。

昔の日記は自分だけ見るものでしたが、今の日記ーブログは人に見られることを意識しています。見られる必要がなければ、ネット上に書きませんものね。伝えたいという思いがあるから、書くのです。

だから、書くときには、人に伝わるだろうか、わかりやすいだろうか、興味をひくだろうか・・・と、まあ、そこまで私は深くは考えていませんが、でも人の目というものを意識しています。アクセス数を欲しい方は、見てもらうために書くという意識がトップに来るかもしれません。

インプットをして「いいことを学んだ」と思っても、自分の中だけで完結していては、意味を成すものではありません。

アウトプットによって人は成長していくとも言えます。ということは、アウトプットの仕方を考えるのは、とても重要なことですね。アウトプットとは自分を変えていくことですし、環境を変えていくにもアウトプットが必要だと思っています。

 

 

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迷った公演だったが

2020年08月01日 | 雑感

2020/08/01

 

今日の東京都の感染者は最多の472人。

文京シビックホールで太鼓の公演があり、行こうか行くまいか、直前までずいぶん迷ってしまいました。

チケットが買ってあるので行かないと無駄になると思ったり、でも感染者の多い状況で無理に行くことはないと思ったり。

昨年も一昨年も行って楽しかったので、行けば楽しめたと思いますが、行くことに不安があることも確かで、見ている際中も不安を感じながらでは公演を楽しむ本来の姿ではない。

太鼓はすごく空気が振動するのです。映画や、少数の演奏者が無言で演奏する演奏会より、リスクが高いと思います。

今日、初めて公演を知ったとして、券を買ってまで行きたいと思うだろうかと考えたときに、それはないと思ったので行かないことにしました。

延期か中止になるだろうと予想していたのですが、それはありませんでした。多くの演奏会が中止になり、演奏者団体の経営維持が大変な状況なのだと思います。練習して準備してきた演者の方々は見に来てほしかったと思います。

昨年の公演の感想を書いています。↓

https://blog.goo.ne.jp/yoshieri/e/da99ca69244a854ec90218d2a48a941f

 

今回のチケット代は、応援・寄付をしたと考えようと思いました。

 

 

 

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皮膚はすべて知っている?

2020年05月31日 | 雑感

2020/05/31

 

先日、NHKEテレの番組「又吉直樹のヘウレーカ!」で「皮膚は全て知っている」というのを放送していました。

興味があったので録画しておいて見ました。講師は皮膚科学研究者、資生堂 主幹研究員の傳田光洋さん。

〈近年の研究によると「皮膚」には私たちの想像をはるかに超えた能力「五感」が備わっているという。触ったときの感覚はもちろん、光の色の違いや耳に聞こえない音まで感じているというのだ〉

ヒトは目で見たもの、耳で聞いたものだけがすべてではなく、全身の皮膚がセンサーになって情報を得ているのです。

聴こえないはずの超高周波を聴いたり、色を区別したりしているのです。

虫の音、鳥の声、風のそよぎなど、はっきりと意識していない音や、耳に聴こえないはずの超高周波(ハイパーソニックエフェクト)は免疫機能を高める効果もあるようです。

番組を見ていて、前に傳田光洋さんのご本を興味を持って読んでいたことを思い出しました。

2013年のブログに書いてありますが、ここに改めて載せておきます。

2013年5月21日

傳田光洋著『皮膚感覚と人間のこころ 』(新潮選書 2013年1月1日)


私たちは日頃、自分の皮膚の感覚をどれだけ重視しているだろうか。

私はむずむず痒いのや、ひやっと冷たいのはいやだけれど、強烈で不快な刺激でなけれは、あまり注意を払うほうではない。

しかし、夫や息子は皮膚感覚が敏感で、ちくちく、ざらざらすること、べたべたすることなどが気になるらしい。

夫は肌着の縫い目が肌に当たって気になると言って、いつもシャツを裏返しに着ている。

思えば、皮膚感覚を表現する言葉はたくさんある。

触感ーざらざら、さらさら、べたべた、つるつる、ぶつぶつ、ちくちく、ひりひり

温度感覚ー熱い、冷たい あたたかい なまぬるい 

湿った、濡れた、乾いた、押しつける、風を感じる etc.


著者は資生堂研究所主幹研究員で工学博士の傳田光洋氏。

本書の紹介文には、外界と直接触れ合う皮膚は、自己と他者を区別する重要な役割を担っている。
脳からの指令を受ける一方で、自ら状態をモニターしながら独自の情報処理を行う、とある。

人の心は、触れられてあやつられるそうだ。

お釣りを渡す時など、店員が約0.5秒、相手の手に触れると、タッチしない時よりタッチしたほうが、触れられた相手は好感を持つという。 これは男女に関係ないらしい。

親に、なめたり体をきれいにされた子マウスは、怖がることが少ない。皮膚の接触は、恐怖に対する行動を制御する脳の回路を形成することに役立っている。

なでられると心が落ち着き、穏やかになるのは、自分の経験でもわかる。


子どもは特に皮膚の接触が脳の発達にも大切だそうだ。マッサージは子どもの多動性、自閉症にも効果がある。
うつ状態、アルツハイマー病の行動の改善にもなるそうだ。

視覚、聴覚優位の社会にあって、皮膚感覚はあまり重きを置かれていないようだが、実は人を動かしているのは皮膚感覚なのかもしれない。

人の皮膚の表面積は大きく、それがすべて感覚器であるから、皮膚が受け取る情報は膨大で、脳の判断や気分に影響を与えるのは当然かもしれない。

 

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