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はちみつと青い花 No.2

飛び去っていく毎日の記録。

眞子さん、小室さんの結婚会見 まずお祝いしたい

2021年10月26日 | 雑感

2021/10/26

 

今日のトピックスはなんといっても、お二人の結婚会見でしょうね。

私はちょうど家に帰ってきて、テレビで見たのですが、眞子さん(もう今日から眞子様ではないのね)の強い決意に満ちたまなざしに打たれたのです。

お二人が出てきて、記者たちの前に立った時、どうしてこの人たちがこんなに誹謗中傷に合わなくてはいけないのか、何か悪いことでもしたというのだろうか、誰かに迷惑をかけたというのだろうかと思ったのです。

どんな思いで婚約発表以後暮らしてきたのだろうと、かわいそうという言葉も適切ではないかもしれないけれど、かわいそうだと思ったのでした。

国民の税金を使っている、ということを言う人もいますが、皇族たちはそれを自分で望んだのではないのです。皇室に生まれたのも、自分で選んで生まれてきたのではないでしょう。

ヒゲの殿下=三笠宮寬仁親王の例にあるように、皇室を離脱して自由な職業に就きたいといっても許されるものではないのです。

眞子さんのまなざしの中には、「自分の生き方は自分で決める」といった強い決意を見ました。

結婚会見でありながら、笑顔のない会見でしたね。

普通だったら、「どんな家庭を作りたいか」とか、「お子様は何人?」「お互いに何と呼び合っているのか?」というような仲の良さを問う質問もなく、記者からの「おめでとうございます」の発声もなく短時間で終わりました。

小室さんはときに相好を崩しそうな、笑顔になりそうな気配があって、この人は普段は眞子さんにとっては気の置けない、気の休まる人なんだろうなと思いました。

私の推測ですが、主導権は眞子さんにあるように感じました。

小室さんが司法試験に受かっているか、就職して結果を出せるかはまだ未定ですが、努力はしてきたのではないかと思います。

というより、彼は上昇志向のすごく強い人かもしれない。

二人で働いて生活していくというのは、今どきの夫婦らしいですね。

まずはお祝いを申し上げたいと思います。

心穏やかに暮らしていただきたいです。

 

〈追記〉

北原みのりさんは

眞子さん結婚会見は「プリンセスの亡命宣言」だと書いています。

亡命宣言、という強い言葉に驚きましたが、読んでなるほどなあと思いました。

「若い二人が生きていけないと思った日本の社会や皇室という制度のあり方を、私たちは考えていかなければならない」

そのとおりですね。







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皇室の結婚について 

2021年10月01日 | 雑感

2021/10/01

 

(この記事は、今日の宮内庁発表前にアップしたものですが、眞子様の複雑性PTSD報道を耳にして、無関係な人にあれこれ言われるのは(中傷であれ賛同であれ)ご本人にとって、つらいことだろうなと思いました。それで一旦、記事は下書きにしました。その後、考えて、期限付きでアップすることにしました。)

〈追記〉

この皇族結婚については、もっと深い問題が隠されていると気づいたので、しばらく記事はこのままにします。

 

 

眞子様のご結婚については、100人いれば100通りの考え方があると思うくらい、報道は過熱しているし、いろんなことが言われていますね。

多くの意見が出ているので、これ以上、私などが言うべきではないと思ってきましたが、やっぱり私も感じたことを少し書いておきたい。

 

AERA.dotに北原みのりさんが書いていたことに私も同感です。

https://dot.asahi.com/dot/2021092900024.html?page=1

 

 一部引用させていただきます。

「小室さんのロン毛について。多くの人の想定を超える空気の読めなさと(誰が小室さんがロン毛で帰国することを予想できただろう)、垣間見える尋常ではない深く強い自己肯定感。こういう人でなければ、何の後ろ盾もない一般男性が皇室の女性にプロポーズするなど、無理なことなのだと理解した。」

(中略)

「小室さんのロン毛。女性の自由と権利を搾取するシステムそのもののおかしさを超越した破壊力。私は初めて、小室さんを好きだと思った。もうこういう破壊力を持つ人しか、日本のプリンセスを自由にできないのかもしれない。眞子内親王の新しい人生を応援します。」

(あとは全文をお読みください)

 

やはり、こういうふうに考える人がいるのだなと思ったので、私も書いておきます。

ここ2~3年の結婚報道を見ていると、皇族と結婚しようとすればどれだけ大変か、ふつうの人ならわかるでしょう。

いえ、もう美智子さまの頃からそうでしたね。

自分だけでなく、家族の3代前にさかのぼる家系が出たり。両親の出身校やら職業、兄弟・姉妹のこと、自宅のおおよその住所まで・・・。

そして、パパラッチのような人々が自宅や学校や職場の近くに出没して、プライベートを覗き見られてしまう危険にも晒されるのです。

自分にとって無関係な人たちなのに、自分のことを話題にしている・・。

男性としたら、そういう困難さを考慮してもなお、この人と結婚したい、一生かかってもこんな素晴らしい女性には出会えないと思わなければ求婚しないでしょう。

一般男性にとって、それはハードルが高すぎる、腰が引けてしまうことだと思うのです。

眞子さまは、きっとこのことを充分承知していらして、自分に求婚するのは小室さんだけ、と思われたのではないか、というのが私の推測です。

こんなふうに小室さんとのことが報道され続けると、万が一、万が一ですよ、ご結婚が白紙に戻ったとしても、あまりにも小室さんの印象の強い眞子さまに、今後プロポーズする男性があるのだろうかと思わずにはいられません。

まわりからそれほどに祝福されない相手は、一時は恋愛感情がまさって結婚したいと思ったとしても、本当に自分の選択が正しいだろうかと躊躇してしまうと、私なら思うのですけど。

 

眞子様は、皇室の不自由さ、窮屈さから抜け出たいと思っていたに違いありません。自分で自分のことが決められない、いつも注目されている皇室から出て、自由になりたいと思っていたでしょう。

自分の力で生きていきたい、自分で物事を決めたいと思っているのではないかと。眞子様は新しい時代の皇族、今どきの女子なのかもしれません。これは、旧態依然とした皇室の在り方に対する眞子様の異議申し立てではないかと。

さらに、自分のあとに続く佳子様をはじめとする未婚の女性皇族のためにも自分が頑張って道すじをつけておく必要がある、とまで考えているかもしれません。

皇室って、やはり時代を映す鏡だと私は思うのです。

私個人としては、報道による情報しか知りませんが、あまり小室さんに感心しない気持ちを持っています。実際に会ったこともない人なので、正しいかどうかわかりませんが。

もし、人格・行動の優れた親子であったら、きっと近所の人とか、職場の人とか、学友とか、「あいつはいいやつだ」、「お母さまは信頼のおける方です」とかいう言葉が出てくると思うけれど、それが見えてこない。小室親子をじかに知っている人々はたくさんいると思うのですけれど。

いずれにしても、何も知らない私が軽々しく言うことではありません。

眞子さまがここまでご自分を貫いたのだから、たくさん幸せになっていただきたいと願っています。

 

 

 

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15年の月日

2021年09月18日 | 雑感

2021/09/18

 

マンションのエレベーターに乗った時、後ろからすっと乗り込んできた若い男性がいました。

防犯上のことから、男性と二人だけでエレベーターに乗るのはちょっと気を使います。

スーツを着たビジネスマン風のすらっとした男性でした。その人は慣れた様子で私に挨拶をしました。私のことを知っているような感じでした。

でも、私には知らない人でした・・・。

エレベーターで一緒に上に行きながら、この人は誰なのだろうと考えていると、はっと思いあたりました。

あの子だ、ひょろっとした中学生!

前によくエレベーターに乗り合わせた学生服の中学生に違いありません。

話したことはないけれど、挨拶はしていました。日曜日には妹と一緒に買い出しに行って、大きなレジ袋を下げて帰ってくるところをときどき見ていました。親孝行らしい子でした。

あの子がもうこんなに!?

考えてみると、最初にマンションに引っ越してから15年。あの時13~14歳だとしたら、もう28~29歳になっているはず!スーツ姿のサラリーマンでもおかしくないです。

ああ、そんなに月日が過ぎてしまったのかと、びっくりしてしまいました。

 

それに、隣りのKちゃん、お隣と初めて会って挨拶をした時には幼稚園児でした。出かける時間も帰る時間も違うので、それ以後、数年に1度くらいしか会いません。

でも最近、隣りの玄関ドアから出てきた背の高いきれいなお姉さん。

エレベーターで一緒に乗りながら「Kちゃん?」と聞くと、「そうです」。

「大きくなったねえ~」と親戚のおばさんの言いそうな言葉しか出てきません。もう外で会っても隣りのKちゃんとはわからないでしょう。

本当に15年という月日は、子どもが大人になってしまうんですね。

 

また、逆の経験もあります。

向こうからやってくる高齢女性・・と思ったら、近くに来たときに、顔がはっきり見えて、知っている奥さんだとわかりました。私より年下だと思っていたけれど・・。

髪を染めていないせいか、地味な服装のせいか、歩き方のせいか、ずいぶん老けてしまったように見えました。ちょっとショックでした。明るい感じの方だと思っていたけれど。何か病気をされたのかもしれませんし。

でも考えてみたら15年たっているのだもの。

人のことは言えませんね。人さまも私のことをそう思っているかもしれません。

「久しぶり~ 全然変わってないね」は社交辞令的と思われがちな言葉、ある年齢以上には、かなりの褒め言葉なのかも。

 

 

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小田急線の事件で思ったこと

2021年08月13日 | 雑感

2021/08/13

 

8月6日に小田急線の車内で、10人の乗客が刃物で刺傷される事件がありました。

〈捜査関係者によると、対馬容疑者は今年に入って生活保護を受け始め、事件の数日前にも生活費を受け取っていた。事件当日には都内で食料品を万引きし、警察に通報されていた。調べに対し、こうした境遇への不満を口にしているほか、「大学や出会い系サイトで知り合った女性に馬鹿にされてきた。華やかな女性や一緒にいる男性の首を切りたいと思うようになっていった」「電車での大量殺人を前から考えていた」などとも供述しているという。〉

犯人は「逃げ場がなくて大量に人を殺せるから電車を選んだ」と供述をしているそうです。快速急行で、通過駅は10駅で8分間停車できない区間の犯行だったとのこと。

電車に乗るのも怖いなあと思いました。

火をつけようとサラダ油をまいたのですが、サラダ油では引火しなかったのがせめてもの救いです。

犯人は36歳の男で「幸せそうな女性を殺してやりたい」などと供述しました。

これを知った時、私は、またしても狙われるのは女なんだなと思いました。幸せそうに見えたらいけないのかな、と思う人も出てくるかもしれません。

なぜ、若い女なのか。

なぜ、勝ち組男ではないのか・・・。

 

福島瑞穂さんは「ミソジニー(女性蔑視)」といっています。

〈(容疑者から)「女性に見下されているような感じがした」という言葉も出てきている。無意識のうちに女性を見下す対象と思っているのに、その対象から見下されているということが怒りとかにもつながったとすれば、やはり根底にすさまじい女性差別があると思う。〉

https://www.asahi.com/articles/ASP8C73G1P8CUTFK01Q.html

 

上野千鶴子さんも事件の背景に「ミソジニー」があると分析しています。犯行が無差別だった場合と、女性を狙った場合とでは、事件の解釈や社会の受け止め方も変わります。

〈今回の小田急線刺傷事件と江南ミソジニー殺人に共通しているのは、無差別ではなく、加害者は逃げられない空間で、自分よりも弱い女性を真っ先に狙っていたということです。〉

〈貧困や非正規雇用、学歴崩壊などが背景にあるという解釈もできるでしょう。しかし、なぜそれで女性を狙うのでしょうか。解雇した会社や使用者、ピシッとしたスーツに革靴をはいた“勝ち組男”が狙われる可能性だってあるでしょう。しかし、使用者や勝ち組男に憎悪の矛先は向かわず、抵抗しない弱い対象に攻撃が向かうのです。DV夫がよそで受けたストレスを、弱い立場の妻に向けるのと構図が似ています。〉

〈社会の中で負け組になったと思う男性は、勝ち組男を恨まず、自分よりも弱そうな女性に憎しみを向けるのです。DVは世界中にありますし、韓国でミソジニー殺人が起きたように、女性への暴力は日本社会の特殊な事情ではありません。〉

〈秋葉原無差別殺傷事件の加藤智大死刑囚(当時25)は、犯行前、携帯サイトに「彼女さえいればこんなに惨めに生きなくていいのに」といった書き込みをしていました。〉

〈彼女さえいれば、というのは、実際は、女性1人を所有すれば男としてのアイデンティティが保てたのに、という解釈の方が正しいでしょう。女性は男性のために存在するものだと無意識に思っているのです。〉

https://dot.asahi.com/dot/2021081300043.html?page=1

 

私は、女性蔑視というより、男の人はそんなにも女に愛されたいのかという、根源にある女性崇拝とも云うべきものを感じたのです。

愛の対象であったからこそ女を狙い、愛の対象ではなかったから、勝ち組男を狙わなかったと考えたら、間違いでしょうか。

小田急事件の容疑者は女性に対して「かわいさ余って憎さ百倍」になったのではないでしょうか。

生育歴などを知らなければ何とも言えないのですが、一応、私立大学にまで進み、見た目も今どきの若者風の容疑者の不幸や怒りは何だったのでしょう。

「貧困と学歴崩壊」が招いた犯罪なのでしょうか。

若い女性だった、幸せそうに見えた、というだけで被害にあった女性の心の傷は、いかばかりかと思うのです。

先日、『マチズモ』で書いた「女が道を歩くとき」の怖さ、気の使いようが、ここでも具現された事件だと思いました。

 

 

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思っていることを言葉にする

2021年08月10日 | 雑感

2021/08/10

 

今日も暑い日でしたね。

都内は37℃でした。猛烈な暑さ、としか言いようがありません。でも空気がカラッとしていて、汗でじっとりしないので、気持ち悪い暑さではありませんでしたよ。

 

さて、私はこうして毎日ブログを書いています。

最初にブログを書いたのが2006年でしたから、もう15年も書いていることになります。いつの間にか、こんなに長く書き続けてしまったのですね。

最初のうちは書きたいときに書くという感じでした。最初の頃のブログを見ると、1ヶ月に20日くらいは書いていました。(そのブログは今は公開していません)

始めた頃は大学の通信課程で学んでいたので、そのこととか、リトミックのこと、身の回りのこと、買ったものや食べ物のことなどを書いていました。

なるべく差し障りのないことを書こう、と思ったのを覚えています。

以前は、政治と宗教の話はするものではないと思っていました。みんな考え方が違うのだから、喧嘩になる話題は避けましょうと、世間もそんな感じでしたね。

でも、ネットの世界は自分の政治的意見や宗教観を書くことなど当たり前、それどころか、感情や気分をぶつけたり中傷したりと、何でもありの無法空間でした。

私も数年前に、今の政治はおかしいと思い始めて、ネットの中では政治の意見があふれているのだから、自分も政治のことでも書いていこうと思ったのです。

無力ながら、巨悪な組織には立ち向かいたいなと・・・

 

1日の中でいろいろな経験をしますが、その日に起こったことや思ったことで、取り上げるトピックを見つけて記録します。

備忘録としてブログはとても役に立ちますが、自分のなかの混沌とした考えを言語化する、確認する、という意味でも大変役に立つと思っています。

インプットしたものをアウトプットする作業でしょうか。

 

 

さて、初めてブログをアップした日、それは2006年6月10日でしたが、「初めまして」と書いて、その当時、大学の児童学科で学んでいたので、「子どもの造形」という科目で作った木馬の写真を載せました。

大きな造形作品を作ることが課題でした。

作品の写真を撮ってレポートに添付せよとのことでした。その頃はまだ紙にプリントアウトした写真でしたね。

近所のスーパーから段ボールなどを集めてきて、新聞紙や毛糸、ペットボトルなど、ありあわせの材料で作りました。

こんなものが完成したというのが、ちょっとうれしかったのですね。

 

久しぶりに写真を見たら、以前の家の庭も懐かしい。緑がいっぱいある庭でしたね。

あの当時はフィルム写真でしたし、なにかにつけて写真を撮るという習慣もなかったので、今となっては、あの頃の写真は貴重です。

 

 

 

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道の譲りかた

2021年07月31日 | 雑感

2021/07/31

 

今読んでいるのは武田砂鉄さんの『マチズモを削り取れ』(集英社)。

この本がとてもおもしろくて、武田砂鉄さんの鋭い視点に感心しています。

この本の感想はたくさん書きたいのですが、それは別の機会にして。

まずは冒頭部分に書かれていたこと、マチズモと離れますが、自分の感想を書いてみます。

 
1章の「自由に歩かせない男」。
 
武田砂鉄さんの担当編集者のKさん(若い女性)からの「檄文」(ちょっとおもしろがって檄文と書いているような)。

 

〈ただ道を歩くだけでも、抱えている恐怖が男女で異なる。夜道は5分ほど歩いたらまず振り返り、まわりを確認するようになった。

男性と道ですれ違うとき、道を譲ってもらえることはなかなかないと気づき「超ハードモード」(視線をたどり着きたい方向にピッと合わせ、まわりへの配慮の視線を捨て、ただわが道を突き進むモード)に切り替えて歩かないと、うまく人ごみを歩いて渡れないことに気づいた。でも、よく考えてみると、このモードって、多くの男性の歩き方そのものなんじゃないか。・・続く〉(P.14)

 

後半部分、「道を譲ってもらえない」に「あ、同じ!」と膝を打ちました。私も東京に来てから、同じ思いを抱いていたのです。

東京では狭い歩道にたくさんの人が行きかっています。真向こうから歩いてくる人がいて、自分が道を譲らないと、きっとぶつかってしまうという場面によく遭遇します。

皆さんに道を譲っていただけるほどに迫力があるか、あるいは高貴な雰囲気、あるいは高齢者感を漂わせているわけでもないので、自分がちょっとよけて、道を譲ることになるのです。

でも、内心は、レディファーストだよとか、若い人だった場合、年長者に道を譲るってことはないの、と密かに思ってきました。

私はだいたいは道を譲ります。

譲ることのできる人のほうがえらい、とかなんとか、自分に言い聞かせてます。

でも、この道を譲ってもらえない感じというのは、今の所に住むまで、どこの街でも感じたことがなかったのです。人が多いためだとか、東京という町は自己主張をしないと生きていけないんだ、と解釈したのです。

確かにKさんの文章のように、「超ハードモード」にして歩いていくと譲ってくれるようです。あるいは、下に視線を落として前を全然見ていない人のように歩くとね。

ほんとうに東京では人に道を譲りなさい、などと教えると、ずっと譲り続けなくてはならなくなってしまいます。

だから、それが必要とされる場所、仕事とか、固有名詞が通用する空間での振る舞いとしてはあるけれど、単なる歩行者として歩く道とでは、みんな使い分けているのだと思います。

東京近郊の街に行ったとき、道ですれ違った中学生の男の子が「こんにちは」と言った時には、驚くと同時に、まだ、知らない人にも挨拶をする文化、敬意を払う文化が残っていた!と感激してしまいました。

武田砂鉄さんは、観察したところ、道を譲らないのは男ばかりだったので、「直進男」と名付けています。

私の場合は、男ばかりとは限らず、一般的には若い人が多いです。高齢の方たちは男女問わず、道を譲ってくれる方が多いです。礼儀作法として、そういう教育を受けた世代なのかなと思います。

道を譲ってもらえるとうれしくなって、こちらもお礼を言って、通していただきます。

 

『マチズモ』に書かれているのは男性優位社会についてなので、私の、どちらかと言うと、年代による道の譲りとは主旨が異なっていますが、東京の道を歩くということについて、ずっと抱いていたモヤモヤと合致したということで、書きました。

 

ちょっと余談です。

自転車での出会い頭は、事故になると困るので、100%譲っています。そのほうが簡単なのです。ちょっとだけ止まったり、避けたりするだけのこと。

もしもぶつかると、怪我がなくても、5分、10分は「大丈夫ですか」とか「すみません」とか、「警察を呼びますか」とか、会話をして時間がかかるので、急いでいる場合は困ります。それだったら、2~3秒でも止まって待ったほうが何ごともなく、スムーズなんです。

これはいつか、仕事先の人が、帰宅時に交差点で自転車同士でぶつかって病院に運ばれ、レントゲンを撮った後、警察で聞き取りがあり、深夜まで帰宅できなかった、という話を聞いたからなんです。

1日の仕事の疲れと、打った体が痛いのと、何時間も警察で待たされたのとで、本当につらかったと言っていました。

それを聞いて、ほんのちょっとのことだから、自転車は100%譲ろう、と思ったのです。相手が譲ってくれるとは期待してはいけないのです。

歩くのも、自転車で走るのも、何事もなく通っているように見える場合は、小さな配慮があって、表向きは気がつかないのです。そんなのが一番いいのです。

 

 

 

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立花隆さんのこと

2021年06月24日 | 雑感

2021/06/24

 

立花隆さんがご逝去されました。一昨日に訃報を聞きましたが、4月30日にお亡くなりになっていらしたようです。

立花隆さんにはひとつ思い出があるので、書いてみたいと思います。

1996~1998年頃、立花さんは東大教養学部で、立花ゼミを主宰されていました。ゼミの学生たちに「調べて書く」という、各界の人々にインタビューをして、それをまとめることを課題にしていました。

夫も、立花ゼミの学生さんたちにインタビューを受けたのです。夫は当時サイエンスライターで、「複雑系」の本を出していました。

当時、立花さんは大変に名前の知られたルポライター、作家でした。そのゼミの学生さんたちが、夫を選んで(数十人のうちの一人だったのですが)インタビューに来てくれるというので、私もうれしかった思い出があります。

我が家は静岡に住んでいて、3人の学生さんが静岡まで来てくれました。

そのゼミのインタビューは3冊の本になりました。

二十歳のころの生き方が、その後の人生を決める、という内容です。


夫のは〈2〉に載っています。

各界の著名な方々のお話はとても面白く参考になります。興味のある方はぜひお読みください。

 立花さんはインタビュー後、丁寧に自筆のお礼状をくださって、「荒巻鮭でも送ります」と書いてありました。

私は真に受けて、楽しみにしていましたが、いつまでたっても鮭は送られてきませんでした。もう20年以上前のことで、時効でしょうから書いてもいいですよね(笑)

あれはジョークだったんですね。インタビューした人は何十人もいましたからね。

ですが、立花隆さんというと荒巻鮭を思い出してしまう私です(笑)。

立花さんのご著書も何冊も読ませていただきました。
猫ビルと呼ばれた事務所のことや、秘書を募集したら、500名もの有能で高学歴の方々の応募があってびっくりした話など、面白い逸話も心に残っています。

心よりご冥福をお祈りいたします。


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幸運は不運の顔をしてやって来る

2021年04月30日 | 雑感

2021/04/30

 

幸運は不運の顔をしてやって来る

この言葉は、ジェーン・スーさんのラジオで聴いたのです。

聴いた途端、はっとしましたね。

うん、そうだね~ 今の状況が不運に見えていても、嘆くことなかれ、これは実は幸運なのだ。

見方の転換で、絶望を希望に変える発想。

もうひとつ、励ましの言葉でもある。

どんな不運も自分のかかわり方、努力次第で幸運に変えることもできるという意味も含んでいる。

だから、めげずに努力しなさい、諦めなければ、きっと良いことがやってくるから。

この言葉を知ってから、過去のしんどかった状況をいろいろ考えてみて、あれは実は幸運の姿だったのかもしれないと思い直したりしました。

不運というより、未・幸運(未だ幸運になっていない状態)と言ったほうがいいかも。

いい言葉を覚えました。

 

季節がよくなって、都電の沿線にバラが咲き始めました。

 

 

バラはほんとうにきれいな花。花を見るのは楽しみなことです。

 

 

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緊急事態宣言下で

2021年04月25日 | 雑感

2021/04/25

 

昨日のスターズオンアイスのことをいろいろと思い出し、情報を確認したり、余韻に浸っています。

今回チケットを譲ってくださったユヅ友さんは、ある事情で行けなくなってしまったので、私が行くことができました。

私は一度手放した後に、再販があった時に3回申し込んで、すべてはずれたのです。前に買っていた人は当たりやすいという話も聞きましたが、そうでもないようです。ですが、こうして譲っていただけたので感謝です。

評判がよかったと知れば知るほど、会場に行けなかった人は残念な思いもあると思います。でもCSの放送、有料配信、今夜には地上波TBSで放送があるので、少しは救われるかな。

見に行けたのはうれしかったのですが、あの収容数と密な座席配置で、よく開催したなあと思います。

神奈川県には緊急事態宣言は出ていないし、会場は50%の収容人数ということで、違反ではないかもしれませんが、常識的には誰もが「大丈夫かなあ?」と感じたことでしょう。

いちばん感染の機会にさらされるのは、会場スタッフだと思うのです。大勢の人と接しますから。

スターズオンアイスは企画がアメリカのIMGなので、考え方が日本とちょっと違うのかもしれないと感じました。

 

さて、毎年ゴールデンウィークに行われる「上野の森バレエホリディ」も私は楽しみですが、緊急事態宣言で東京文化会館が臨時休館になってしまいました。

「上野水香×町田樹のクロストーク」と「柄本弾×中村祥子 with山本康介のクロストーク」はチケットが買ってあり、行く予定でした。今のところ、開催方法の変更を含めて検討中とのこと。

主催者側も緊急事態宣言で振り回されますね。大変だと思います。

中止ではなく、延期開催になればよいがなあと思っています。

 

そんななか、昨年行われたクロストークが期間限定で配信されています。

昨年も緊急事態宣言で見に行けなかったのですよね。

「ダンサーにとって音楽とは」という内容は興味深いです。バレエとフィギュアスケートの表現方法の違いなども興味深かったです。

 

 

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キャーキャー言える資質

2021年04月14日 | 雑感

2021/04/14

 

今日は朝から雨だったので、図書館から借りた本を読むことにしました。

酒井順子さんの『ガラスの50代』(講談社 2020年11月)

この中で面白いと思ったのは、「ドキドキしない、ときめかないのは老化ではないか」ということが書かれていて、

「50代であっても盛んに胸をドキドキさせている人・・・それは韓流やジャニーズといったアイドルのファン達。アイドルに対してキャーキャー言うことができる資質というのは、生れたときからその有無が決まっているようで、あいにく私はその資質を持っていない。」(p.71)

と、書いてあったんです。

そのとき、私は、自分がキャーキャー言うことができる資質だ、と思ったのですよ。

考えてみると、小学生の頃から、漫画の主人公やテレビドラマの主人公をカッコイイと思い、当時はキャーキャー言いこそしませんでしたが、憧れたり好きな人はいっぱいいました。今もその資質は続いています。

ゆづ友さんなどは、みんなキャーキャー言える素質の人たちでしょうね。

「生まれたときから決まっている」というのは初耳でしたが、そうかもなあ~と思うのです。同年代の女性でも、全然キャーキャー言わない人、興味を示さない人もいますからね。

キャーキャーは生まれつきなのかと考えたのですが、これはきっと「新規探索性」に近いものではないかと思うのです。

キャーキャー言う人たちは、あんがい新しモノ好きなような気がするのです。新しいものに抵抗がない。酒井さんいうところの「進取の気性に富んでいる」のではないかと。

ヒトには実際そういう遺伝子はあるようです。

そう思って読んでいたら、酒井さん自身は「IT化の波に乗り遅れた。ワープロからパソコンに変えたのもだいぶ遅かった」と書いていらしたので、キャーキャーと新しモノ好きは関連があるのではという意を強くしたのです。

(根拠はありませんので、単なる勘違いかもしれません・笑)

ともかくとして、思うのですよ。いつも新しいものを面白がったり、受け入れるのに抵抗がないというのは、毎日が退屈しないし、ときめいて楽しいのです。

 

〈追記〉

息子から「僕、新しもの好きだけど、まったくキャーキャーしない資質」だというメールがありました(笑)。

遺伝か環境か、はたまた男女差か、好みの対象の違いか・・・

 

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