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スペインの憂鬱 ー バルセロナ

2021年03月02日 | アメリカ通信
マドリードとともにスペインを代表するバルセロナは、観光地としても訪れるに足る街であるが、実はスペインにとっては過去も現在も、そして未来も頭痛のタネなのである。これを理解するには歴史を紐解かなけらばならない。

国家の火種は部族や民族が自己のアイデンティティの拠り所である文化的背景、特に言語の破壊によって起こる。現在中国の新彊ウィグル自治区で進められている中国語強制によるウィグル語破壊はいい例で、征服者の常套手段である。バルセロナを首都とするカタロニア自治州はイベリア半島の反抗の歴史の渦の中で、常に独特の存在感を放ってきた。

スペインを大雑把に言えば、マドリードを中心とするカスティーリャ地域とバルセロナを中心とするカタロニア地域から成り立っているが、文化も言語も独自の発展を遂げている。古代ローマ帝国の支配により、キリスト教とラテン文化が導入され国の根幹となった。だが、8世紀にイスラム勢力がイベリア半島を制圧、イスラム化が推し進められた。カスティーリャは隷属し、復権まで800年を費やせねばならなかったが、カタロニアは80年で自治を奪還した。ここに、スペインの独立はカタロニアが先導したという自負とプライドが培われた。

1469年、イスラム隷属下のカスティーリャ王国とカタロニアを中心としたアラゴン王国が手を結び、漸くイスラム勢力をイベリア半島から駆逐、カスティーリャも復権した。以後、両王国はお互いの自治を認めた名目上の連合体を形成するが、カスティーリャ王国に組み込まれていたポルトガルが反旗独立を達成すると、カタロニアの独立闘争心に再び火がともり、70年戦争が始まった。結果はカタロニアの敗北に終わり、これを契機にカスティーリャのカタロニア差別、即ち教育におけるカタロニア・スペイン語の禁止が始まる。 両勢力の戦いは続き、1930年代のフランコ軍事政権に反対したカタロニアは内戦状態に入るが、ヒットラーやムッソリーニのファシスト勢力の援助を受けたフランコ勢力が圧勝し、一層カタロニアへの差別弾圧が強化されていく。そして1975年、フランコの死をもって、カタロニアの言語と教育の自治権が漸く復権した。

かつてイスラム勢力の駆逐に先鞭をつけた誇りと、近年までの差別の歴史がカタロニア・ナショナリズムを支えて、バルセロナは独自の道を模索し続ける。


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