よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

土下座外交だけは勘弁だ

2010年10月29日 | いろいろ
失点挽回するはずのハノイで、日中首脳会談ドタキャンの憂き目にあったカンちゃん。よくよく外交にツキが無い御仁だ。もともと外交オンチだから、張り切ってもしょうがないと言えばしょうがないが。まさか、来月の日本開催のAPECで、汚名挽回を図ろうとして、土下座外交を目論んではいまいな。

目の前で辱めを受けたわけだ。これが逆だったら、中国からのリベンジは、さぞ凄まじいだろうに。こちらから、首脳会談の意向を聞く必要など全くはあるまい。向こうから言ってくるまで知らん顔を決め込めば良い。ある種の危うさを感じる外相のマエハラだが、親米派として、得意分野で中国に直球を投げ続けているのだけは、「買い」だ。
それと、サッカーで言えば、ホームの試合。堂々と構えていればいい。仮に首脳会談が無くても良いではないか。突き放すくらいの気概が欲しいが、いつも疲れきったような顔では、それも望めまい。

腰砕け日本外交と見て取ったのか、ロシアが俄然、北方領土への大統領訪問を画策している。竹島は最早韓国に獲られた様なものだし、北方領土問題は、かつての鈴木宗男ー佐藤優ラインが国策捜査で潰されて以来すっかり非力となってしまった。

島国国家の由々しき伝統、全く国境の概念が育っていないニッポンでは、これから国民にどうやってその概念を教育していくかは大問題だが、絶望的問題でもある。昔に比べて若者が海外を嫌っている現実からすると、「井の中の蛙」族は益々蔓延り、外が見えないまま、小松左京の「日本沈没」が、なにやら現実味を帯びてきた。

反対 - 裁判員制度

2010年10月26日 | アメリカ通信
約一年前に始まった裁判員制度に対し、既に様々な問題点が指摘されている。新しい事を始めるのには、常に試行錯誤が伴うとは言え、果たして、普段法律とは距離の或る普通の人に裁判の席で判断を委ねることが日本の社会で馴染むのか、正しく機能するのか、はなはだ疑問を感ずる。その意味ではこの制度には反対だ。

まず第一に、そして、最近の検察やゴロツキ弁護士の横行を見るにつけ、裁判官も含めた裁・検・弁の司法界全体の疲弊から来る負い目を素人国民に媚を売るような形で、無理矢理作り上げたように感じる。

拠り所の一つとして、アメリカでは陪審員制度で長らくやっているではないか、と言う者もいる。アメリカの陪審員制度と同じようにやれると思っているならば、アメリカに大変失礼だ。そもそも、スタートの土台が違う。彼らは、初めから自分達の手で、「裁く」事を決め、失敗を繰り返しながら、裁判、弁護、そして判決という司法の世界を積み上げ、築き上げてきたはずだ。一方、日本では、元々その気も無い人々に対し、謂わば押し付けたようなもので、これでは血となり肉となるには程遠い。

加えて、国民性がある。普段、大人しい、で通っている日本人。おしゃべりはするが、議論はしない。何となく避ける。アメリカ人は別名、ディベート人間だ。相手が上であろうと下であろうと、リスペクトしながら、議論する。アメリカ人よりは大人しいが、ヨーロッパ人も負けてはいない。

たまたま、大學が語学系だったこともあり、よくディベート大会が行われていた。個人の主義主張に関係なく、テーマに対し、賛成派と反対派に分かれ、資料を駆使して、相手を論破する高等ゲームである。日常生活や、会社生活の中で、このような議論体質が形成されているならまだしも、日本人の国民性では、裁判員制度は馴染まないだろう。

国を守る、身を守る

2010年10月22日 | アメリカ通信
もう何年も前の事、お隣の州、サウスカロライナのハイウェーを、アポイントに遅れそうで急いでいた。制限速度を軽く時速10マイル(16キロ)はオーバーしていたに違いない。気が付くと後ろにピタッとポリスカー。車を脇に止めた。ルールは、警官が来るまで大人しく座って待つ。しかし、あせっていたよし坊は、つい車から出て、言い訳を言おうと、ポリスカーへ向かって歩き出した。と、ポリスカーを降りかけた警官が、激しい口調で、止まれ、車の中へ入れ、を連呼、右手はおもむろに、拳銃を掴みかけていた。これを無視して進めば、ズドンとなり、文句は言えないのがアメリカである。よし坊、ハッと気が付き、慌てて車の中に逃げ込んだ。50ドルの罰金であった。

限りなく平和で大人しい国日本の警察は、これまた親切でおとなしい。銃社会ではないにしても、警察が犯人を捕まえる、その捕まえ方は限りなく”やさしい”のだ。

アメリカでは、ちょっとした騒動を起こした当事者を単に事情聴取するだけでも、連れて行く時に必ず手錠を掛ける。警官達に不測且つ無用な危害が及ばないようにする。事情を聞いて、痴話喧嘩だとわかれば、厳重注意で釈放だ。それで全てが終わる。やや悪質になれば、地べたに腹ばいにさせられ、手錠が掛けられる。手錠は常に後ろ手だ。

人を信じろ、とは美しい言葉だが、アメリカでは、人は疑え、と言ってもいい。この差が、結局は、身を守る、国を守る、という姿勢に大きな違いをもたらしているのだろう。日本は昔から「優しい国」とか「親切な国」とか言われ続け、それに酔っている節があるが、本当は「お人よし」と言うのに相応しい国なのだろうな。

荒波の国際社会で、あの島国を守るには、相当大変だ。




映画三昧 - 死刑囚の映画 

2010年10月19日 | 映画
死刑囚を扱った映画やドラマでは、古くは大島渚の問題作「絞首刑」がある。又、刑務所の中を、ユーモアたっぷりに描いた、ずばり「塀の中」という映画もあった。成る程、そういう生活をしているのかと、知らない我々に見せてくれる。多少の脚色はあるのだろうが、大筋では逸脱してないのだろう。

社会派のヒューマンドラマと言うふれ込みだったから、ドラマ「モリのアサガオ」の初回を観たが、ガッカリと言うか、裁判員制度や死刑制度が注目を集めている現在、なんとも酷いドラマを作ったものだと思う。問題点は、これから出てくるであろうテーマ、心の交流ではない。ヒューマンドラマを標榜する以前に、拘置所内の生活設定が一般的に聞いている話と大きくかけ離れ、これでは実際その任に当たっている実在の職員の方々の仕事に対して失礼ではなかろうか。荒唐無稽を取り込むドンパチものの代表の刑事物ならいざ知らず、刑務所とか死刑という思いテーマに取り組むならば、もっと丁寧に作るべきだろう。考証の部分が極めてお粗末、の一言に尽きる。何も知らずに観ている一般人に間違ったメッセージを送ってもらっては困るジャンルではあるまいか。看守が房に入って、死刑囚の腰を揉まされるシーンなど、ありえないし、対面の房同士で話が出来るようには作られていないはずだ。目を覆いたくなるドラマ作りと言える。

小林薫と西島秀俊の「休暇」という映画があるが、淡々と死刑囚と看守達の生活がよく描かれている。ある種、教育的映画だと思う。それに比して、このテレビドラマは、如何なものか。全く観るに耐えない気がする。毎回駄作のテレビドラマがあり、いちいち論ずる気もない。観たくないものは観ない主義だが、この一件だけは、黙っていられない。

オバマの再選は無いだろう

2010年10月18日 | アメリカ通信
中間選挙が近付いて来た。アメリカの政治もよく分からないのだが、識者の本やコメントで実態を垣間見る事が出来る。今オバマ政権がどうなっているか。第39代大統領のジミー・カーターの最新本に関しての本人のコメントにそのヒントを見ることが出来る。

カーターは、35年前、ホワイトハウスの切符と手に入れる原動力となった自己の草の根運動と比べ、最近クローズアップされてきたTea Partyによる草の根運動は何処が違うのか、最近の議会はどう変質してしまったのか、解説してくれる。

カーターの草の根運動の中心は、普通の人達だった。ところが、Tea Party Movementと言うのは、スポンサーが大きな企業だったりして、どうも業界誘導的な動きが濃厚である。注目を集めたのは、共和党内での補選に独自の女性候補を立て、立て続けに旧来の候補者を打ち破った辺りからだ。この運動には女性が前面に出ているのが特徴である。その流れの中で、前回共和党の副大統領候補として、サプライズを起こしたSarah Palinがいつの間にか運動の中心に潜り込んだ格好になり、Tea Party運動は彼女に乗っ取られたという人も出てきている。共和党内で無視できぬ団体になりつつあり、それは民主党にも脅威である。中間選挙で存在感を示せば、次の大統領選への影響も十分出てくるから、目が離せない。

次に、現オバマ政権下では、民主、共和両党による話し合いが殆ど無くなってしまったらしい。かつては超党派で法案を出したり、民主党の一部が共和党法案賛成に回ったり、その逆があったものだが、それが、最近は全く無いという。さらに、牛歩戦術が飛び出してきたという。戦術としてはあるが、今まではその前に話し合いで解決して来た。ところがパイプが寸断されているから牛歩へ突っ走る。
そうなった基本構造は、かつては、議会の中心に位置していた中間派或いは穏健派が弱体化し、過激派が主導権をとってしまったとカーターは分析している。

経済が中々期待したように浮上しない為、オバマにとっては風当たりが強い。その原因はブッシュ政権の失政であることは周知とはいえ、不満は現政権にぶつけるしか無いのだ。あと2年でどれ程の成果をオバマが挙げられるかだが、再選は相当難しそうだ。

日本人は「日の丸」の下に集まれるのか

2010年10月15日 | アメリカ通信
メキシコのチャンネルでの実況に釘付けであった。チリの炭鉱救出劇は世界が固唾を呑んで見守る中、見事だった。

テレビには、現場に大統領夫妻の姿が見える。そして、最後の一人が救出されるまで、その姿を全世界に見せている。見事なリーダーのパフォーマンスだ。国民とは、こういうことに感動し、そして「あー、この国に生まれてよかった」と思うのだろう。正に、世界標準とも言えるリーダーシップの取り方だ。

不幸とは度々あっては困るが、この様な事が日本で起こったらどうだろう。かの国のリーダーには、到底この様なリーダーとしてのパフォーマンスは望めまい。近年での最大の惨事、阪神大震災がそうだ。時のリーダーの登場は遅れ、しかも、日本じゃそんなものだ、という空気。
9.11のアメリカ。市長のジュリアーニの連日の陣頭指揮は当然として、大統領のブッシュが現場に立ち、全アメリカ市民に対し協力と結束を促す。
「United, We Stand」。はためく星条旗の下に瞬く間に全米に結束の輪が広がった。街行く人は胸にバッジを、車には結束のステッカーを貼り、アメリカが一つになる。

今、日本人は、「日の丸」の下に集まれるのか。
どうも、戦後復興を果たした辺りから、日本人のマインドは変質して行ったのかもしれない。そもそも、今の日本で旗日と言う祝日に、日の丸を掲げる家がいくつあるだろうか。日々の生活の中で、国旗や国家に接する機会がいくつあるだろうか。

アメリカの会社に行くとよく分かる。大体正門のところに星条旗がある。スポーツイベントでは、必ず初めに国歌の斉唱がある。

日本では、「日教組」という悪人がいて、散々かき回した結果、教育の場を台無しにした経緯がある。こんな事があるから、君が代を歌わない現内閣総理大臣が出現する。この一件をもって、そもそも総理大臣失格なのだが。

はたして、日本人は、「日の丸」の下に結集出来る民族なのか。外から見ると、日本及び日本人は、国家感とかアイデンティティの追求に関しては、どうも世界標準からズレているように思えてならない。それがひょっとしたら、今の国力を限りなく衰退の方向に導いている根っこかも知れぬ。

映画三昧 - Conviction

2010年10月13日 | 映画
最近は話題作が少ないハリウッド映画だが、10月ともなると、来年のオスカー狙いもあって、年末に掛けて話題作が出てきそうだ。

あと数日で封切られる「Conviction」という映画がある。実の兄の冤罪をはらす、シングルマザーの実話である。演ずるのがヒラリー・スワンクだから、又オスカーに絡むかも知れない。

マサチューセッツ。1980年、アメリカでよくあるトレーラーハウスで女性が殺され金品がなくなった。近くに住む、子供の頃からの問題児だったケニーが疑われるが、2年後、突然目撃者証言により逮捕され、状況証拠のみでアッサリと終身刑になってしまう。日本の警察検察の捏造冤罪も怖いが、アメリカの陪審員制度の怖さが覗く。

ここから、無実を信じる妹、ベティ・アン・ウォーターズが立ち上がり、18年かけて執念の無実を勝ち取るという、凄まじい話である。彼女自身は高校のドロップアウトだったが、兄の無実を勝ち取る為に、一念奮起し、大學へ行き、弁護士資格を取るのである。ドロップアウトした人間が学校に行き直して学位を取り、弁護士になるところは、アメリカならではの話だ。日本ではちょっと考えられない事だろう。

アメリカには、冤罪に立ち向かう団体、Innocent Projectというのがあり、最終的にDNAテストにこぎ着け、2001年、ケニーは晴れて無罪となる。

何処の国でも、冤罪を晴らすのは相当なエネルギーが要るし、難しいが、日本は圧倒的閉塞感が先行するのに対し、アメリカは常に「希望」が先にあるように感じるから、不思議だ。

中国のトイレ戦争

2010年10月12日 | アメリカ通信
トイレとは、一つの文化だ。一見して民度が計れる。しかし、話がトイレだけに、あまり大っぴらに出来る話でもない。だからと言って軽く見てはいけない話でもある。家や会社では安心トイレも、外に出ればどうするか、時には致命的問題となる。

外で催したらどうするか。問題は「ビッグ」の方だ。日本なら、駅、デパート、地下街の公衆、時間が有れば高級ホテルなんてのも可能だ。これらが無いとしても、近くに喫茶店やファーストフードの店があれば、飛び込める。アメリカでも同じ事。大型ショッピングモールさえあれば問題解消だ。無ければファーストフードで用だけ足してもいい。車社会だから、ガスステーションが嫌と言うほどあるから、そこでもOKだ。田舎の小さなスタンドだったら、一ドルチップでOKだろう。

問題は中国。しかも地方で起こると辛い。
中国の鉄則は、仕事に出る前にしっかり厠で済ませる事。しかし、毎回そうとは限らない。

車で移動中。催してきた。我慢だ。冷や汗が出てきて、最早人と話など出来ぬ状況となる。と、突然の「公厠」の建物が、道端に忽然と現れる。もう体裁など構っておれず、車を停止してもらい、一目散にかけつけ、ドア、といっても木の扉。開けてビックリ、思わず呆然。目指す場所が、何故か真っ黒、と思った瞬間、ハエの大群が一挙に外へ飛び出すの図となった。その途端、わが身体は凍りつき、時間が止まったようだ。

あれは、上海郊外の工場だった。公司の連中と商談を始めて暫くすると、催してきた。工場の中だからと安心しきって、厠に直行。まず、扉が無い。水がチョロチョロと流れる溝があるだけだ。前後の衝立は有るのだが。たまたま、誰も居なかったのでホッとして、用を足そうかとしゃがみかけ、ちょいと明るい窓を見上げると、その向こうには、隣の棟の工場の窓。二人のオネエチャンがこっちを見ているではないか。一挙に引っ込んでしまったのを覚えている。

中国でのトイレ戦争は、別の意味で厄介な戦争だ。

映画三昧 - 美女と液体人間

2010年10月08日 | 映画
今時、大昔の映画がたまにネットで観れる便利な世の中。インターネット様々で、特に海外にいると、その恩恵の度合いは大きい。

1958年の東宝特撮映画「美女と液体人間」を50年振りで観た事になる。当時11歳か。横でワイフが、「何かチャッちい」を連発。「当時でこの発想、液体人間とは、なかなかだ」と反論。挙句の果てに「原爆実験の結果こういうことになったのだ、これは反戦映画なのだ」などと、つい言ってしまう。

この頃は、佐原健二や平田昭彦が全盛で、美女には、白川由美、確かに美女だ。これに河内桃子なんかがいて、同じ頃の「地球防衛軍」にも出ていた。

特撮で思い出すのは、この頃の大映の「透明人間と蝿男」。品川隆二と北原義郎といった、どちらかというと脇の俳優が出ていて、女性は、なつかしの叶順子だ。何でこの映画を観たのか、ネットで調べてみて分かった。「赤銅鈴の助」との併映と出ていたので、納得。話の筋はもう忘れたが、妙に品川と北原の顔だけは覚えている。

昔も今も変わらない、アブナイ国です中国は

2010年10月06日 | いろいろ
この数年来、中国上海は湧きに湧き、かつて世界一の都市を実現した街に相応しい活力で成長している。写真で見ると、高層ビルが立ち並び、正しく中国の顔である。一見、西側先進諸国の街と変わらないから、この国が、共産主義の一党独裁国家ということを、つい忘れる。そこに落とし穴がある。かつてこの国にビジネスで行き来した、つたない経験ではあるが、この国がどのような国なのか、もう一度垣間見てみたい。よし坊よりもっと造詣の深い先人は数多おられ、ほんの素人の「中国覗き見」で申し訳ないが、お許しを願いたい。

いかに近代的高層ビルが並ぼうとも、一党独裁である限り、そのシステムは変わらない。一党独裁国では必須の、隣組スパイシステムとでも言おうか。その典型は北朝鮮で、相変わらず、身内や、謂わば町内会での相互監視を行っているが、中国は文革を経て開放政策に転じたとはいえ、本質は全く変わっていない。いや、むしろ増加した海外からの来訪者へ一層の監視を強化していると見なければならない。

かつての情景が蘇る。
ホテルには、各階に監視員が常駐していた。粗末な小さな木の机に座っている。適宜ポットに入れた熱いお湯のサービスがある。その時に部屋の状態をそれとなくチェックする。もちろん、外出で居ない時も勝手に入って隈なくチェックを怠らない。盗聴?それは彼の国で常識である。

タクシーに乗る。運転手も監視員である。外国人を乗せれば聞き耳を立て、組織への報告に余念が無い。運転手も国家公務員であるから。

ビジネスで中国の国営工場にいったとする。名刺交換をして、ふと見ると、工場長が二人居る。何故だろう。ひとりは、本当の工場長。即ち製造責任を負っている工場長。もうひとりは、政府から派遣されているお目付け役の役人、即ちスパイである。会議の一部始終を聞き、上に報告する。

中国企業にも資本主義が導入され、自由度が増したとはいえ、一党独裁のシステムは変えていないはずだから、うわべの顔に騙されたらいけない。基本的に行動は全て報告されているという前提に立って全ての物事を処理判断しなくてはいけない国だ。

世界一お人好しの日本人、夜の世界が限りなくお好きな日本人ビジネスマン。ゆめゆめ羽目を外しちゃいけません。しっかりファイルされ、ここぞと言う時やられます。特に注意は、妻子は日本の単身赴任のアナタ。ネンゴロ気分で現を抜かしていると、国外追放か、日本の妻と離婚して現地妻と結婚するか、二者択一を迫られます。

国外追放、あなたのキャリアにキズがつき、出世の道はお先真っ暗。加えて離婚が追い討ち掛ける。進むも地獄、戻るも地獄。同じ地獄を見るならば、いっそこの際進んでしまえ。かつてこの道を選んだ方々は中国の大地で元気にしているのだろうか。

今一度、アブナイ中国を肝に銘じねばなるまい。決して友好的隣人ではないのだから。