よし坊のあっちこっち

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TIME誌 Person of the Year 今年の顔

2017年12月12日 | アメリカ通信
先日恒例のタイム誌「今年の顔」にSilence Breakersが選ばれた。ハリウッドを頂点とするアメリカ芸能界の闇を勇気をもって告発した女優達である。これをきっかけに映画界の有名どころでは、アカデミー賞を二度もとったケビン・スペイシーや、NBCの看板キャスターのマット・ラウワーがやり玉にあがり、転落した。

芸能界では起こりがちな、地位を利用したセクハラである。その要求を飲まなければ業界で生きていけないから、嫌々要求に応じて体を提供してしまう。その後芸能界で成功しても、その事実は消えず、トラウマとなって本人の精神を苛ませ続けることになる。成功すればその苦痛もいくらかは和らぐかもしれないが、成功しなかったら、その苦痛、ダメージはいかばかりであろうか。”弱者は沈黙するしかない”をいいことに、卑劣な行為を繰り返すのである。

今回の発端はハリウッドの名うてのプロデューサーのハービー・ワインスティンの悪行がニューヨーク・タイムにすっぱ抜かれたことによる。長年のセクハラ三昧で、今までに8件の示談があったと報じられ、そのうちの一人、女優のローズ・マックゴーワンがワインスティンにレイプされたことを公表した。この公表で長い間ハリウッドでグツグツと燻っていたマグマが一気に噴き出したようにその後の大きな流れを生み、それは芸能界だけでなく、政界や有名企業にも波及している。

実はこのマグマの噴出の陰には、鍵となるひとりの有名女優の存在がある。なかなか表に出にくいスキャンダルを認知させ、世間を動かすには、知名度の高い、誰もが耳を傾ける起爆剤的な存在が必要となる。それが女優アシュレイ・ジャッドだった。

アシュレイ・ジャッドは数年前、自叙伝を出版したのをきっかけに、その足場を政治的社会的環境で仕事をすることへシフトした。自叙伝の内容の衝撃的事実は、世間の注目を集めた。両親の離婚と母の繰り返される再婚に翻弄され、養父や親せきからの小さいころからセクハラを受け続けていたのである。彼女はこの逆境をバネにしてハリウッドへ打って出た。

女優として少しづつ上向いてきた1997年、名うてのプロデューサー、ワインスティンから声が掛かった。新作の話があるからペニンシュラホテルの部屋に来てくれと言う。部屋に入ると、映画の話は出る素振りは無く、ベッドインを強要してきた。咄嗟をついて彼女は部屋から脱出し、ホテルのロビーに向かった。そこには彼女を心配して、たまたまロスに仕事で来ていた義理の父が付いてきていた。義父は彼女の顔から異変を察し、彼女は何が起こったのかを全て話した。この時、彼女は「ワインスティンの許されない行為」を業界に口コミで広めることに決めた


この10月、かねてより、ハリウッドの闇を調べていたニューヨーク・タイムスのインタビューに彼女が応じ、ワインスティンとの出来事と共に8件の示談の事実が明るみに出た。このことがマックゴーワンへの後押しとなった。

これだけではない。アシュレイ・ジャッドはニューヨーク・タイムスと協力し、芸能界に限らず、あらゆる業界や会社から、セクハラに苦しむ人達の場を提供し、聞き取りを行い、その声を全米に発信し始めている。アラバマは長年共和党の揺るぎない地盤であったが、一昨日の火曜日の特別選挙で、かねてより”女たらし”で悪名を馳せていた候補者が20年ぶりに民主党候補に敗れ去ったのも、この度のうねりが大いに影響していると言えよう。



コマネチを知ってますか? (6) 新しき人生

2017年12月03日 | アメリカ通信
アメリカは、誰かが困っていたら必ず手を差し伸べる者が出てくる。この国の宗教的社会的精神構造がそうさせるのだろうが、日本ではなかなかそうはいかない。

パナイートとの決別に尽力してくれた友人の援助のもと新生活を始めたコマネチだが、時経たずしてその友人が事故で他界してしまい、途方に暮れていたとき、「体操」のコミュニティからサポートの手が届く。

「体操」と言うスポーツコミュニティは決して大きくない。しかし、その分コミュニティとしての団結力が強い団体である。そのコミュニティから一人のコーチがコマネチにオクラホマに来ないかと言ってきた。ポール・ザート、オクラホマ大学の体操コーチとして、かつて全米大学チャンピオンに導き、あのオリンピック・ゴールドメダリストのバート・コナーを育てた男である。バート・コナーと言えば、1976年、モントリオール五輪のアメリカ体操チームに最年少として参加し、メディアの要望に応じてコマネチの頬に写真撮りのキスをした選手である。

直ぐにオクラホマという訳にはいかなかったが、かつての花形スターの体操界でのイベントへの露出は俄然多くなり、各地に出向き、TVショーへの出演も増えていった。そして、あるイベントでバートと共演することになった時、いつでも連絡するようにと、電話番号を渡された。人間不信に陥っているコマネチは、最初は警戒していたが、電話での話は専ら体操イベントで共演する打ち合わせ等で、次第にコマネチの警戒心は解かれていった。

およそ一年半経った頃、バートがオクラホマに来て体操教室をオープンするのを手伝ってくれないかと提案してきた。彼は体操の後継者作りの為のアカデミーを計画していたのである。こうして、コマネチはオクラホマに移り、バートの事業を手伝う事になった。これが、やがて人生のパートナーに発展していく。

1994年、バートはコマネチにプロポーズ、コマネチはバートと共に残りの人生を歩んで行くことを決意した。コマネチがアメリカの土を踏んで5年後のことである。そしてアトランタ五輪を控えた1996年4月、コマネチの祖国ルーマニアの首都ブカレストで盛大な結婚式が行われた。

コマネチが殆ど覚えていなかったモントリオールでのキスは、バートにとっては大事な宝物であった。バートは言う「この20年間大事な思い出として心にしまってきた」と。彼はいつか、あのコマネチに会えるのではないかと、秘かに想い続けてきたのであろう。夫婦には男の子が授かり、体操の普及と関連事業を二人三脚で、幸せな、Beautiful Lifeを送っている。 完