よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

44回目の結婚記念日

2021年03月21日 | アメリカ通信
20日の土曜日、44回目の結婚記念日を迎えた。結婚してから18年が日本、26年がアメリカ生活ということになる。

来年は節目の45年だから、どこか行きたいが、はてさてコロナが何処まで続くやら。願わくば、もう一度スペイン・ポルトガルへ行きたいのだが、このご時世だから最早諦めねばならないのだろうと思う。

今のところ、夫婦揃って、まあまあ健康の部類だ。今の楽しみがウォーキング、トレッキングだから、よしとすべし。それでも年を取るといろいろ出てくるのは致し方あるまい。
よし坊は年一回の通風。血圧も年だけに高めだが、何とか薬を飲まずに済んでいる。3年前だったか、帯状疱疹の時、血圧が以上に高く、医者から薬を飲むよう勧められたが、測定データを二か月取ってみたら現象に転じたので飲まないことに決めた。以来毎日データを取っている。気が付いたのは冬場には上がるということだ。今のところまだ飲まなくて済みそうだ。

ワイフは、数年前から魚の目が出来やすくなった。魚の目コロリを塗っているが、根っこから取れない、とぼやいている。人間それぞれ、何がしかあるものだ。

今我が家の桜は満開を迎えた。記念日は我が家お好みのJet’S Pizza のバーベキュー・チキンに安いワイン。上々の記念日となった。

昭和の足跡(22)転校

2021年03月17日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
小学校5年の一学期で転校した。東京の杉並から当時は北多摩郡といっていた小平町(現小平市)だ。家が建つまでの夏休みは西武線井荻近くのアパートで暮らした。その間、家の建前式があって、父が持参した一升瓶が大工さんに振舞われた。その時、お祝いだからと初めて湯吞茶碗に注いでもらったのを飲んだ。飲んだ後、後ろ向きにひっくり返っていた。それが人生で初めてアルコールに接した時、小学校5年である。

転校して何よりも嬉しかったのは、給食ではなく弁当だったこと。ただ、よし坊の中では忘れられない「日の丸弁当事件」(既述)だ。都会からの転校だったから一応注目の的になる。その注目の的の弁当がご飯の真ん中に梅干し一つだったのだから。

仲良くなったのが小林君と中里君だった。どういうわけか女生徒も直ぐ仲良くなり、鈴木章子ちゃん、河野操ちゃんは懐かしい。

小平は人口急増だったから、中学の最初の一年は新設の第三中学校が完成するまで市の公民館で授業を受けた。黒光りする床掃除とトイレ掃除が懐かしい。

中学ともなると不良が出てくる。家がヤクザの者は卒業後その道に入り、それと仲が良かった双子の鈴木君も付いて行ってしまった。今ほどではないだろうが、当時もイジメはあった。勉強が出来たり、学級委員なんかをやってると結構ターゲットになり、よし坊もその口だったが、どういうわけか喧嘩グループが二派あって、危なくなるといつも助けてくれる奴がいた。これといって親しかったわけではないが、彼は必ず助けてくれたから、他の一派からやられることはなかった。あれが侠気なんだろうと今でも思う。

映画三昧 ー 思わぬ所で、ビビ・アンデルセン

2021年03月08日 | 映画
古い西部劇を観た。1966年製作Duel at Diablo 。ジェイムス・ガーナー主演で共演がシドニー・ポアティエ。組み合わせが面白いので観たのだが、二人とも初めての西部劇だというのも気に入った。ところが、である。冒頭流れる配役に、アッと驚いた。何?ビビ・アンデルセン? 西部劇に出てる? そう、あのビビ・アンデルセンだ。スェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン作品で常連だった、あのアンデルセン。なんとアメリカの西部劇に出ているとは。懐かしい顔が画面に現れた。

ベルイマン作品は日本ではATG系しか掛からない、いわば大衆受けしない映画に属するが、ビビ・アンデルセンの出る作品では第七の封印、野イチゴ、ペルソナを観ている。正直なところ、神の存在を扱う第七の封印は難解だったのを覚えている。やはり、スェーデンの大女優ともなると、アメリカからもお声が掛かるということなのだろう。スェーデン女優では他にもリブ・ウルマンとかイングリッド・チューリンがいるが、やはりビビ・アンデルセンの愛くるしさには脱帽だ。

古い映画を観ていると思いがけない人に出会う。だから止められない。

スペインの憂鬱 ー バルセロナ

2021年03月02日 | アメリカ通信
マドリードとともにスペインを代表するバルセロナは、観光地としても訪れるに足る街であるが、実はスペインにとっては過去も現在も、そして未来も頭痛のタネなのである。これを理解するには歴史を紐解かなけらばならない。

国家の火種は部族や民族が自己のアイデンティティの拠り所である文化的背景、特に言語の破壊によって起こる。現在中国の新彊ウィグル自治区で進められている中国語強制によるウィグル語破壊はいい例で、征服者の常套手段である。バルセロナを首都とするカタロニア自治州はイベリア半島の反抗の歴史の渦の中で、常に独特の存在感を放ってきた。

スペインを大雑把に言えば、マドリードを中心とするカスティーリャ地域とバルセロナを中心とするカタロニア地域から成り立っているが、文化も言語も独自の発展を遂げている。古代ローマ帝国の支配により、キリスト教とラテン文化が導入され国の根幹となった。だが、8世紀にイスラム勢力がイベリア半島を制圧、イスラム化が推し進められた。カスティーリャは隷属し、復権まで800年を費やせねばならなかったが、カタロニアは80年で自治を奪還した。ここに、スペインの独立はカタロニアが先導したという自負とプライドが培われた。

1469年、イスラム隷属下のカスティーリャ王国とカタロニアを中心としたアラゴン王国が手を結び、漸くイスラム勢力をイベリア半島から駆逐、カスティーリャも復権した。以後、両王国はお互いの自治を認めた名目上の連合体を形成するが、カスティーリャ王国に組み込まれていたポルトガルが反旗独立を達成すると、カタロニアの独立闘争心に再び火がともり、70年戦争が始まった。結果はカタロニアの敗北に終わり、これを契機にカスティーリャのカタロニア差別、即ち教育におけるカタロニア・スペイン語の禁止が始まる。 両勢力の戦いは続き、1930年代のフランコ軍事政権に反対したカタロニアは内戦状態に入るが、ヒットラーやムッソリーニのファシスト勢力の援助を受けたフランコ勢力が圧勝し、一層カタロニアへの差別弾圧が強化されていく。そして1975年、フランコの死をもって、カタロニアの言語と教育の自治権が漸く復権した。

かつてイスラム勢力の駆逐に先鞭をつけた誇りと、近年までの差別の歴史がカタロニア・ナショナリズムを支えて、バルセロナは独自の道を模索し続ける。