よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

この暖かさは何だろう

2015年12月28日 | アメリカ通信
冬であって冬でないこの暖かさは何だろう。この年末までジョージアも春の暖かさである。裏の樫の木には早くも蕾らしいものが付いている。これで一挙に寒波がくればダメージも大きかろう。これだけ暖かければ草木も春到来と勘違いしているに違いない。春に出てくる水仙が出始めている。

これらはすべて「地球温暖化」と言うことなのだろうが、それにしても世界中が狂いに狂っているの図だ。二三日前にテキサスのダラス近郊にトルネードがタッチダウンした。冬の12月のトルネードの発生タッチダウンは初めての観測らしい。

アメリカ西部のワシントン州。日本の富士山のように美しいセイント・へレンズという山がある。世界中で氷河地域が溶け出している大問題を抱えているのだけれど、このセイント・へレンズの氷河部分は逆に氷河化が進んでいると判明した。いろいろな所でどこかが狂っている。

この数年裏庭から見えるクリーク沿いの林の中を鹿が走るのを見かける。3~4年前は年に一度、それも二三頭が走っていくのを見るようになった。ところが一昨年くらいから集団の5~6頭で移動する姿を見るようになり、それが住宅地の道路まで出てくるようになった。しかも、年に数回どころか頻繁に見かけるようになった。これも一種の異常現象だが、こちらは人間様の都市開発で森林部分をダメにしている証拠でもある。日本でも田舎の山間などで、今まで出なかった熊や他の動物が土地開発による食料難で町に出てくる現象と同じである。人間様は自然界に多大なる迷惑を掛けているにもかかわらず、のほほんとしているのだ。

人間は便利さを求めて止まない。そして、その陰で自然界が狂うとすれば、人間はなんと傲慢で、手前勝手で罪作りなのだろうか。かく言うよし坊もその一人には違いなく、のほほんと、今日も何もしないで、歴史の時が刻まれるのを傍観しているだけだ。

来年はどんな年なのだろうか。平々凡々。

澤穂希よ、ご苦労さん

2015年12月17日 | サッカー
澤穂希が引退する。くしくも今年は、かつてライバルとして、その後同じチームメイトとして共に戦ったアメリカ女子サッカー界の主砲、アビー・ワンバックも引退を表明した。

アメリカ女子サッカー界は多くの卓抜したプレーヤーを輩出してきたが、その中でもレジェンドと呼ぶに相応しい3人のプレーヤーがいる。ミッシェル・エイカーズ、その後を引き継いだミア・ハム、そしてワンバックである。有体に言えば、パイオニアのエイカーズ、中興の祖のハム、そして後継者ワンバック、そういう位置づけではないだろうか。

その意味で言えば、澤穂希はまさにパイオニアであり、中興の祖である。人気先行でバブルの如き広がりを見せたJリーグの陰に隠れてマイナーな存在だった日本女子サッカーを日本のみならず、同時に世界に知らしめたのは澤のお陰である。

アメリカのスポーツ界に於いて独特の地位を築き活気溢れる女子サッカーの実情とは正反対の言葉を耳にしたのは2003年女子ワールドカップがアメリカで行われた時のこと。オハイオで日本対ドイツの予選ラウンドがあり、7時間かけて車をすっ飛ばした。たまたま座った席の横にアメリカ人と日本人妻のカップルがいた。旦那の里帰りとワールドカップ観戦を兼ねて来ていたサッカーファンである。その彼女が言った。「日本だとお客が来ないのよね、いつもガラガラ」。この頃の日本では女子サッカーはこの程度であった。

1999年、澤穂希が単身アメリカの土を踏まなかったら、強豪アメリカを制した2011年のワールドカップの優勝はなかったであろう。当時の女子サッカー界において誰も行かなかった海外武者修行に旅立ち、開拓者の道を選び、その夢を2011年に結実させたのである。

よし坊の耳には今でもアトランタのハーンドン・スタジアムでの選手紹介のアナウンスが残る。「No.8, Midfielder from Japan, Homa~~re Sawa!!!!」アメリカの女子プロサッカー元年の年、澤はアトランタのピッチに立った。アメリカの強豪プレーヤーのみならず、世界の各地からはせ参じたプレーヤーの中で小さな体を孤軍奮闘させていた。

アメリカに来て野球、バスケ、アメフトと言う三大スポーツ一色のアメリカスポーツに辟易していたよし坊には興味を引くようなスポーツは見当たらなかった。1994年のワールドカップがアメリカで開かれたにも関わらず、男子サッカーはパッとしなかった。ところがである。女子サッカーを調べてみると予想もしなかった人気度なのである。女子のプロリーグが無かったのでアピール力には欠けていたが、すそ野の広りはとてつもなかった。言わば、幼稚園から大学まで女子サッカーは超人気なのである。これは見方を変えないといけないな、と思っていたら女子プロサッカーリーグ誕生のニュースが駆け巡ったのだ。我が家は一気に女子サッカー観戦へとのめり込んでいった。澤がアトランタに来たこともあり、我が家は大いに楽しませてもらった。澤穂希に感謝しなければならない。

パイオニアとフォロワー。たくさんのフォロワーはいるが、パイオニアは一人しかいない。パイオニアがいたからこそ、その後にフォロワーが続くことが出来る。その意味では澤はレジェンドに相応しい。

澤の後を誰が引き継ぐのだろうか、そんなことを折に触れてワイフと議論することがある。残念ながら、我々のナデシコに対する予想はそれほど楽天的ではない。澤が大勝負を掛けたあの2011年がナデシコのピークだったのではないか。そんな気がする。

良き伴侶を得た今、澤には本当に”ご苦労さん”と言いたい。

韓国製タイヤ

2015年12月12日 | アメリカ通信
行きつけのタイヤショップでローテーションをしてもらいに行ったところ、大分摩耗が進んでいるから変えた方がいいと言う。5年前にワランティ85000マイルにしては安かったので初めて韓国製のクムホブランドに替えてみたのだが、約半分走った段階で交換となった。ワランティの半分と言うのは、おだやかではない。そういえば最近現代かどっかが性能水増しねつ造をしていたニュースがあった。フォルクスワーゲンの例もある。たまたま悪い生産ロットに当たった可能性もあるが、そうではなく、もともとが粗悪品だった可能性も十分にある。

ワランティの半分のコストを返してくれたので新しく交換することにした。韓国最大メーカーのHankok製を勧められたので、またもや韓国製だが、もう一度騙されたつもりで乗ってみようと思い、承諾した。ワランティは70000マイル。韓国ナンバーワンにしてクムホより謙虚な数字なのが承諾した理由だ。これでどこまで乗れるのか興味深い。

韓国No.1のHankokも売り上げベースで見ると世界では7位で、クムホは10位だが、品質を含めた総合評価ではHankokは7位と変わらないがクムホは姿を消す。Hankokはそれなりに地位を得ているとみてよい。

それにしても、クムホの前に乗っていたミッシェランはワランティ65000マイルだったが、交換するまでに100000マイルを超えていた。もちろん気が付いた時が100000を超えていたので、もっと前に交換すべきだったのだが、よく持ったと思う。さすがはミッシェランか。Hankokにミシェランを期待するつもりはない。ワランティぎりぎりでダメになってくれればそれでよいのだ。


映画三昧 -「鳥」とヒチコックの世界

2015年12月11日 | 映画
久しぶりにヒチコックのThe Birds(邦題・鳥)を観た。アメリカに来た時、当時MGMの版権を所有していたターナーブロードキャスティング(TBS)が一挙テレビ放映していたものをビデオ録画しておいたものだ。

日本公開が1963年とあるので、よし坊は高校一年。鳥の攻撃という意表をついたドラマであることと、ヒチコック作品なので観に行ったと思う。この映画でヒチコックはティッピー・ヘドレンを世に出した。

当時、アメリカとは映画やテレビで観るだけの、遠い存在だったが、今アメリカで観ると、それぞれの場面が近く感じる。例えば、舞台になったBodega Bay(ボデガ・ベイ)。店の看板にそう書いてあるので、ここはボデガ・ベイなのだなと分かる。サンフランシスコより北方に位置するこの小さな町を舞台にカラスを中心とする鳥が町をパニックに落とし入れる。ヒチコックのワンシーン出演は相変わらずである。やはり、この映画は動物を使ったサスペンスの原点でもあり得るのかな、という映画ではないだろうか。

ヒチコックの作品はレベッカ、裏窓、サイコ、そしてマーニーくらいだが、夫々に面白い。

レベッカは”風と共に去りぬ”に出ていたオリビア・デ・ハビランドの妹ジョーン・フォンテーンが出ていることでも興味を引いた。姉妹が日本生まれであることは十分当時のよし坊の興味を倍増したはずである。

サイコのアンソニー・パーキンスの、あの怖さは十分過ぎるくらいの強烈な印象を与えてくれた。この映画を観たら、パーキンスを忘れるものではない。それほどのインパクトだ。

マーニーはティッピー・ヘドレンのヒチコック二作目ということと、007ドクター・ノーで一躍注目を浴びたショーン・コネリーの出演作というので観に行かないわけにはいかなかった作品である。

いつの日か、少なくともヒチコックのアメリカ作品は全部観てみたいものである。

我が家のラーメン

2015年12月03日 | アメリカ通信
日本のラーメン文化は並のものではない。その味の追及は凄まじいものがある。そもそもは中国の拉麵、所謂汁そばが日本で独自の発展を遂げ、花開いたわけだ。小学生の時代に醤油味の、ナルトとシナ竹、ひとつまみのほうれん草が入ったシナソバが一大ラーメン文化を築くなんて想像できないことだった。

よし坊はラーメン大好き人間である。たまに日本へ帰った時、真っ先に食べたいものがラーメンである。アメリカ人が日本から帰って真っ先に駆け込む所がハンバーガーなのと同じである。日本に居る時も、一人で出張する時は決まってランチはラーメンだった。家族同伴で遊びに行く時はそうもいかないが、独りの時は大抵ラーメン屋を探す。

ワイフから言わせれば、たまに日本に帰ったら、もっと美味しいものがあるだろうから、と言うがそうはいかない。やはりラーメンを食べて帰らなければ納まりがつかぬ。二年前に日本へ行った時はたった一回しか食べられなかったが、その一回に何十年振りかで神座のラーメンを食べた。

アトランタで20年、わざわざ食べに行くラーメンがある。激辛味噌ラーメンで、唯一これだけは美味い。これにヒントを得て、我が家のランチにたまにワイフに作ってもらう。麺が長らく手に入らなかったが、この2~3年日本からの干ラーメンで何とかいけるものが入ってきてるので、以来それを使っている。問題はつゆの味だ。激辛にはコチュジャンを使うが、行きつけの激辛味と比較して何かが足りない。具体的には甘さだが、微妙な甘さが再現できずにいる。今のところそのレベルで折り合いをつけている。

もうひとつよし坊の好物にタンメンがある。日本でラーメンを食べると言ったが、タンメンを食べて帰ってくると言い直しても良いくらいタンメンには目が無い。残念ながら関西ではタンメン普及率が極めて低いから店を探すのが大変である。ワイフが作るタンメンは良い線いっているので不満なし、である。

殆どワイフが作るのだが、よし坊の担当は麺茹で、一応ラーメン作りに参加をさせてもらっている。因みに今日のランチはこの激辛味噌ラーメンを家で食べた。次は恐らく二週間後のタンメンとなろう。

我が街 アトランタ (2) 初めてのアトランタ

2015年12月01日 | 風と共に去りぬ の アトランタ
初めてアメリカに行ったのはいつ頃だろうか。間違っていなければ昭和56年(1981)だったと思う。この年、日本キューバ経済委員会主催の企業視察団が組まれ、それに参加したついでに同行した商社マンのNYオフィスを訪問したのが最初だ。この時の出張が中国ビジネスへ入るきっかけとなった。

加工基地韓国中国との商売は企画元アメリカとも接点が出来る。その頃は企画元のアメリカ企業をたまに訪問していたが、毎年行われるスポーツ産業の一大イベントであるスーパーショウにも顔を出すようになり、当時はシカゴで開催されていたので2-3回行っている。

思えば、アメリカに出張で来たとはいえ、NY、シカゴ、サンフランシスコ、ロス等どの地域もアメリカを代表する都市には違いないが、点のアメリカであり、アメリカを面でとらえ理解することは難しい。これらの都市はいずれも北部にあるから、まして南部のアメリカは全く視野の外になってしまう。

スーパーショーの開催が1985年からアトランタになった。その年に行ったか翌年行ったかは定かではないが、その一回を最後に担当替えになったので最後のスーパーショーとなった。長らく眠っていたアトランタの名前が再び仕事の関係で現れたのである。

当時は日本からの直行便はなかったはずで、ロスとかサンフランシスコで乗り換えたのであろう。思い出がある。空港に着いて荷物を待っていたのだが、待てど暮らせど荷物が出てこない。そのうち回転荷物台が止まってしまった。困っていると屈強そうな大柄の係の人が”どうした”と声を掛けてくれた。しばらくして荷物台が再び動き出し、荷物が漸く出てきた。

タクシーに乗りホテルへ。コンベンションがあるとホテルが満杯になるから、それほどいいホテルではなかったはずだ。今でも市営鉄道のマルタの東西線と南北線の交差点ファイブ・ポイントに大きなオムニホテルと、それに隣接してコンベンションセンターがあるが、ここから一駅か二駅のところにホテルがあったと記憶する。毎日そこから会場へ出向き4日間開催の三日目まで通った。初めてのアトランタも会場とホテルの往復であっと言う間に過ぎた。これが初めてのアトランタであった。観光で周りを観るわけでもなく、仕事優先だから当然と言えば当然なのだが。

この時からおよそ10年後に今度は駐在で家族共々アトランタに来ることになろうとは。