よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

親父の人生(7)海外行き断念

2023年01月19日 | 昭和の足跡
寝台自動車の会社に落ち着くまでの職歴は倒産に次ぐ倒産でなかなか落ち着かなかった。そんな時、親父にとって又とないチャンスが巡ってきた。

それは唐突な話だった。シンガポールに行く話があるという。今でいう海外青年協力隊のような話で、自動車を中心とした機械整備の技術指導に二年間単身で行く話だ。子供心ながら、おやじもなかなかすごいと思ったが、母親が泣く泣く猛反対し、おやじの計画は没となった。

この時の話、即ち海外へ行く、ということが自分の頭の中に刷り込まれたように思う。自分では意識していなかったのだろうが、小学校から英語に興味を持ち、大学は英語を専攻し、会社の縁でアメリカに来て、そのご住み着いて現在に至るのは、あの時の事が影響してると今でも思っている。おやじは断念したが、その意思を引き継いだとも思っている。おやじに感謝である。

親父の人生(6)自動車整備士

2022年12月21日 | 昭和の足跡
東京へ出てから親父は熊工時代の知識を生かして自動車二級整備士免許を取り、その関係で働いた。主にタクシー会社での整備だが、更に働きながら早稲田の夜間に通って、足りないメカの勉強をしたらしい。何回か早慶戦に連れて行ってもらったが、早稲田贔屓はそのためだ。

30歳で結婚し、二男一女をもうけた。会社運は高度成長前だから簡単に倒産する時代。転々としたが、数少ない寝台車を扱うタクシー会社が一番長かった。寝台車というのは、病院で亡くなった場合、自宅まで亡骸を運ぶ特別仕様の車で、医院や病院には付き物であった。親父が亡くなった時、東京大塚の病院から小平まで移送してもらったのは親父が務めていた会社の寝台車であった。

整備士としての腕はかなり良かったようで、たまに外車を家に持ってきた。今思うとあれはマスタングに違いない。知り合いから整備を個人的に頼まれたという。プロ野球のラジオ解説者の愛車で、定期整備や点検には必ず親父に任せていたらしく、相当信頼されている感じがした。名前は忘れたが当時では有名な解説者だったらしい。

親父の人生(5)縁切り、そして東京へ

2022年11月14日 | 昭和の足跡
親父は台湾で中学を出ると、熊本の祖父の実家に居候し、熊本工業高校に入学、機械工学を学んだ。中学卒業までは過酷な仕打ちに耐え、満を持して祖父に熊工受験を申し出たに違いない。何故なら、それが唯一台湾脱出、即ちイジメからの脱出のチャンスだったからに違いない。そしてその切符を手にした。こうして親父は自動車整備の道を歩み始める。

昭和8年祖父達一家は日本へ引き上げたようだ。それは同年の戸籍記述に家督が曾祖父にあったものが祖父に家督相続された届出やその他多くの届け出が記されており、一家引き上げはこの家督相続によるものだと思われる。

期せずして、この年は親父が熊工卒業の年にあたってるのではないか。そのタイミングで親父は家を出た。親父が縁を切って出た裏付けが二つある。東京への汽車賃なるものは持たずに出た事、そして生涯一度も熊本には帰らなかった事。祖父が亡くなった時も帰らなかった。東京へは今でいうヒッチハイクでたどり着いたという。広島の呉あたりの海岸で魚を取って野宿をしたと話してくれたことがある。戦争中は蛇でもなんでも食った、という話が思い出される。戦争で生き残った者は驚くほど強い。脱帽である。



親父の人生(4)継子いじめ

2022年10月07日 | 昭和の足跡
親子の継子は憎さ百倍、居候のほうが他人だからまだマシということか。

或る時、親父がポロっと言ったことがある。あまりのイジメで大騒ぎとなり、台湾現地の新聞沙汰になったことがある、と。相当酷い仕打ちだったに違いない。その時の騒動かどうかは定かではないが、酷さを裏付けるものがある。

小学校の頃は、よく親父の戦争の話を聞いていたのだか、ある時親父の左耳の少し上の部分に幅5~7ミリ、長さ3センチ程度の傷が垂直にあるので聞いたところ、戦争で敵の弾がかすめた傷だ、と説明してくれた。その時は、よく当らなかったものだ、と感心したものだ。

だが、この話はよくよく考えると、どこかおかしいのだ。後年、しかも親父が亡くなった後、いろいろ親父のことを考えていた時、ハタと気が付いた。傷は垂直にある。弾が真上から飛んでくるはずはない。従って弾丸などでは決してない。考えられるのは「焼け火箸」である。そう考えると形状、火傷特有の少し引きつったような剝き出しの皮膚が「焼け火箸」の答えを出している。

継母の仕打ちは親父が中学を出るまで続いたものと推定されるが、これが親父が後に家を出て、その後一切実の父親とも没交渉になった最大の要因だろう。

親父の人生(3)生まれ

2022年09月27日 | 昭和の足跡
小さいころから「熊本県玉名郡長洲町」をよく耳にした。本籍地だという。だから親父はそこで生まれたものばかりと思っていた。だが、実際は違っていた。母の死去に伴う遺産相続権確定のために取り寄せた親父の戸籍には出生地は台湾嘉儀とあり、大正5年(1916)と記されていた。

親父が台湾に住んでいたこと、親父の親父、即ち祖父が現地で果樹園を経営していたことは聞いていたが、そこで生まれたのなら納得である。

戸籍には実母は親父を産んで4年後に離婚、と記されている。死別ではなかったのだ。そこに何があったのだろうか。生前親父は実母の記憶が全く無いと話していた。唯一和服姿の写真をどうやって入手したのか、大きな額に収め、よく眺めていたのを覚えている。「これがお前のお婆ちゃんだぞ」っと。

祖父はその後、後妻を迎え、親父が8歳の時に腹違いの弟、11歳の時に妹が生まれている。このことから、離婚3年後の大正12年(1923)に後妻と結婚したのだろうと推定される。この大正12年は、親父にとっては”地獄”の始まりだったのではなかろうか。

親父の人生 (2)多くを語らぬ親父だったが。。。

2022年09月13日 | 昭和の足跡
親父は生前、自分の事は多くを語らなかったが、それでも小学、中学時代に印象に残っていることが三つある。継母にいびられたこと、高校を出てから東京へ出てきたこと、そして北支で戦車に乗っていた戦争体験。

断片的に聞いたのが、実母は、親父を産んだ後の産後の日経ちが悪く死別、親父の父は後妻をもらった。後妻は一男一女をもうけたのだが、r自分の産んだ子には手厚く、親父には冷たかったようだ。そのひとつが、ご飯は二杯目のお替りは出来なかったという。二杯目を出そうとするとチャブ台の下でつねられたそうだ。居候、三杯飯をそっと出し、よりまだひどい。継母とはそんなものか、とその時思った。

一体どんな生い立ちだったのだろうか。断片的に聞いていたことと、母が亡くなった時の遺産相続手続きで取り寄せた親父の戸籍謄本から、多少の類推が出来る。その他にも死別だと思っていた母親が実はそうではなかったということが、親父の死後、ひょんなことから明らかになった。 それらの軌跡を辿ってみたい。


親父の人生 (1)記憶をたどってみたい

2022年08月21日 | 昭和の足跡
今年で75歳となる。親父は68歳で鬼籍に入ったから、それ以上生きていることになる。親父が死んだとき、ワイフに親父の68は是非越えたいものだと言ったのを思い出すが、それ以上はお釣りの人生だと思ってもいいだろう。,

若い頃は親父とはろくに話もしなかった。別に仲が悪かったわけではないが、取り立てて話す話題も見当たらなかったからだ。しかし、自分も結婚し子供が出来、齢を重ねていくと、無性に親父が思い出される。何故もっと話をしなかったんだろうか、と。でも、親父と息子なんて、そんなものかもしれない。ただ、親父はもっと話をしたかったのかもしれないと思うと、自分の不徳を恥じ入る思いが沸き起こる。

そんなわけで親父のことを書いてみたくなったのだ。

昭和の足跡(30)会社生活 楽しい職場

2021年10月26日 | 昭和の足跡
よし坊の会社人生は、一言で言うと、実に楽しい時を過ごさせてもらったと言える。そう言えるのは、何より職場が良かったということだろう。世間でいう有名大手企業に就職したが、配属はいきなり新規立ち上げの子会社。これが幸いしたと思っている。新規の会社故に最初の5年間は苦労しっぱなしの事業だった。こういう環境は人の結束を産む。時折日本へ帰ると、今でも同じ釜の飯を食べた連中と酒と肴で盛り上がる。

入社したての頃、山陽新幹線が開通した。それまでは大阪から工場のある広島県への出張は泊まりであったが、新幹線で日帰りとなった。泊まりの楽しみが減ったのである。

最初の3年は営業の裏方、受け渡しと棚卸管理をやらされた。カシオの電卓が出る前だから、計算はアシスタントの女性に頼る。この女性(既婚)が実に優秀で、よし坊の不慣れな仕事を残業承知で頑張ってくれた。この女性には仕事のみならず、ワイフとの結婚への手助けをしてもらったので、足を向けて寝られない。

4年目に国内営業見習いの後、輸出担当になった。小さい組織故、上司は実質、部長直結であった。韓国、次に中国、そしてヨーロッパ、アメリカと出張は広がっていった。必要とあらば気軽に出張が出来たのは、子会社の機動力のせいだろうと思う。これが本社であれば、そう簡単には行かせてくれなかっただろうと想像する。

海外出張と言えば、韓国出張で二つの思い出がある。ひとつは、ソウルのど真ん中、New Soeul Hotelで火事にあったこと。もうひとつは、当時近い韓国でも海外出張となれば一日で済む仕事も一週間くらいの仕事をしてこなければ許可が下りない。だからいろいろと調査項目を入れて期間を延ばすのである。だが、緊急の時はどうするの?っていう話である。緊急時庵が起こり、現地の商社は直ぐ来てくれのシグナル。上司の許可をとり、朝便でソウルへ飛び、夕方便で帰ってきた。日帰りである。この日帰り海外出張の記録は破られたのだろうか。後年、本社の人事面接があった時、同席していた人事部次長が、こう言った。「君が日帰り海外出張した本人か。本社を含めて初めてのケースだ」。子会社の書類は後で本社の管理部門に回るから、目についたのだろう。

お陰で、平成6年この職場を去るまで、仕事はのびのびのさせていただいた。感謝、感謝、である。

昭和の足跡(29)関西生活と関西弁

2021年09月10日 | 昭和の足跡
昭和46年当時、大阪は東京からみれば今よりはるかに格下にみられていた。人口や経済規模からすれば格下なのは事実なのだが、数字には表れない”格下感”が存在していたと思う。だから東京人からすれば大阪に行くことは「都落ち」の感があるのだろう。事実、大阪での入社式に向かう新幹線の中で初めてボックスシートで顔を合わせた同期入社の一人が、いみじくも”大阪に向かうのは都落ちかな?”と言っていたのを思い出す。

よし坊にはそうした”都落ち”という概念は全くなかった。むしろ、わくわく感でいっぱいだった。関西にはすでに馴染みがあった。テレビである。松竹新喜劇の藤山寛美が面白かった。吉本新喜劇の花紀京、岡八郎に笑いこけた。花紀京のおやじ、アチャコ・エンタツの頃から面白いと思っていたのかもしれない。関西弁はノリが違う。標準語に比べはるかに柔らかみというか丸みがある。関西弁の抑揚感も独特だ。これはよし坊の独断で何も根拠はないのだが、独特のリズムを持つ関西弁を話す人々は外国語、とりわけ英語の習得に関し、日本人の中では長けているのではないだろうか、と思うことがある。

東京から大阪に配属になった同期の多くが当初、関西弁に抵抗があったようだが、よし坊には心地よかった。

昭和の足跡(26)高校時代

2021年06月23日 | 昭和の足跡
高校は武蔵境にある都立武蔵高校へ進学した。数学は苦手科目だったが、一年で教わる代数は何故か成績が良く、数学の先生に注目されたが、二年の幾何になると成績がガタ落ちとなり、化けの皮が剝がれてしまった。英語はひたすら邁進した。ある日英語の矢吹先生から交換留学試験を受けないかと提案されたが、グズグズしているうちに別のクラスの山下譲が合格してアメリカに行ってしまった。何故挑戦しなかったのだろうか。

クラスA組はよかった。なんといっても長谷川明主導のクラス一丸となったコーラスは懐かしい。毎年文化祭での争いでは常勝ではなかったか。記憶に間違いなければ、杉並公会堂で行われた都の合唱コンクールに出たのを覚えている。今でも仲の良いクラスだ。

高校に入り、バレー部に入った。毎日の放課後練習、夏休みは学校での合宿等など。背が低いのでセッターポジションだったが、レギュラーにはなれず控えに甘んじた。丁度二年生の時に9人制から6人制に移行した時代である。

高校に入っても相変わらずの「映画小僧」で、観たい映画があると授業をサボって出かけていた。これも青春時代の一コマとして懐かしい。

高3ともなると大学受験勉強に拍車がかかる。そして受けた東京外語大は見事に落ちた。やはり数学がネックであったのは間違いない。お決まりの予備校コースへ突入、代々木ゼミ行きとなった次第である。