寝台自動車の会社に落ち着くまでの職歴は倒産に次ぐ倒産でなかなか落ち着かなかった。そんな時、親父にとって又とないチャンスが巡ってきた。
それは唐突な話だった。シンガポールに行く話があるという。今でいう海外青年協力隊のような話で、自動車を中心とした機械整備の技術指導に二年間単身で行く話だ。子供心ながら、おやじもなかなかすごいと思ったが、母親が泣く泣く猛反対し、おやじの計画は没となった。
この時の話、即ち海外へ行く、ということが自分の頭の中に刷り込まれたように思う。自分では意識していなかったのだろうが、小学校から英語に興味を持ち、大学は英語を専攻し、会社の縁でアメリカに来て、そのご住み着いて現在に至るのは、あの時の事が影響してると今でも思っている。おやじは断念したが、その意思を引き継いだとも思っている。おやじに感謝である。
それは唐突な話だった。シンガポールに行く話があるという。今でいう海外青年協力隊のような話で、自動車を中心とした機械整備の技術指導に二年間単身で行く話だ。子供心ながら、おやじもなかなかすごいと思ったが、母親が泣く泣く猛反対し、おやじの計画は没となった。
この時の話、即ち海外へ行く、ということが自分の頭の中に刷り込まれたように思う。自分では意識していなかったのだろうが、小学校から英語に興味を持ち、大学は英語を専攻し、会社の縁でアメリカに来て、そのご住み着いて現在に至るのは、あの時の事が影響してると今でも思っている。おやじは断念したが、その意思を引き継いだとも思っている。おやじに感謝である。