よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

1619年 アメリカの光と影

2020年07月28日 | アメリカ通信
日本で習うアメリカ合衆国の始まりは、1620年ボストン近郊のプリマスに着いた、有名なメイフラワー号の話が印象的だが、最も早い入植は1607年のバージニアJamestownである。 そして今から400年前の1619年7月、この入植地で記念すべき第一回議会が招集された。これがアメリカの最初の議会であり、”光”輝く新国家のスタートである。

この同じ年、アメリカ建国史上決して忘れてはいけない事が起こる。今でもアメリカ社会に”影”を落とす奴隷制の始まりである。今までの定説は西インド諸島から連れてこられ
た人々がJamestownのイギリス入植者に売られたとされているが、それ以上の事は皆目分からなかった。USATodayによると、研究者による奴隷船の追跡と、あるアフリカ系家族の先祖を辿る努力が建国に纏わる姿を明らかにした。

奴隷がアメリカにもたらされたのは偶然の産物だった。もしその偶然が無ければアメリカの奴隷制度は始まらなかったかも知れないのだ。当時ヨーロッパ列強は海外進出植民地化に血道を上げる中、ポルトガルはアンゴラを拠点に東アフリカの覇権を目論み代理戦争を仕掛けていた。そこから発生する戦争捕虜がアンゴラに集められて売られ、その数15000人に達したという。1619年5月、350人のアンゴラ人を買い取ったスペインのサンファン・バウティスタ号がスペイン領メキシコに向かったが、メキシコ湾に入って不幸が起きた。たまたま遭遇した二隻のイギリス人海賊船に襲われたのである。彼らは60人を選別し、奴隷として売るべく、最も近い港Jamestownへ向かった。このアンゴラ人こそが、アメリカとして公式に登録・記録された最初のアフリカ人の”奴隷”の人々である。

Jamestownに近い町ハンプトン。ここに住むタッカー一族には伝承されてきた話がある。「先祖はアメリカに上陸した最初のアフリカ人が産んだ、ウィリアムという洗礼名を持つ者である」。一族による追跡調査が始まったが、古い資料には白人の歴史しか残されていない。Jamestown 入植時にCaptain Tuckerなるプランテーション所有者が奴隷を買い、Williamの洗礼名を付けた記録が出てきた。その後、一族の曽祖父トーマス・タッカーが1896年100ドルで購入した一族の墓地の登記書が見つかり、掘り起こした所、100体以上の墓が出てきた。そこから先祖を求めて1924年に洗礼を受けたウィリアムなる者へ辿り着く。タッカー一族は最初のアフリカ系アメリカ人の子孫であることを素直に喜び、”奴隷”と言う差別の中で、先祖がアメリカ建国に大きな役割を果たした事を誇りに思っている。

1619年、輝かしき国の船出の陰で、今も社会を悩ます差別の根源、奴隷制が船出をした。

映画三昧 ー モントゴメリー・クリフト

2020年07月17日 | 映画
およそ五十年振りかでFrom Here To Eternity(邦名:ここより永遠に)を観た。真珠湾攻撃直前のハワイの基地を背景にバート・ランカスターとデボラ・カー、モントゴメリー・クリフトとドナ・リードの二組のロマンスの終焉を描き、フランク・シナトラが脇を添えている。日本で観たのが高校生か大学の頃で恐らく新宿名画座であろう。

モントゴメリー・クリフトの作品はそれほど多く観ていない。次に観たのがジェニファー・ジョーンズと共演したTerminal Station(邦名:終着駅)だ。ローマ駅を舞台とした年上の人妻とイタリア青年の別れのストーリーだ。最後に観たのが「ニュールンベルグ裁判」だった。

彼は交通事故で顔面を損傷し、手術によって映画に復帰したのだが、「ニュールンベルグ裁判」は、術後作品のひとつで、よくここまで回復したな、という思いと昔のイメージといささか違うことに複雑な気持ちになったものだ。

この映画の5年後、45歳で世を去ったのは残念だ。


昭和の足跡(14)都電、トロリー、省線電車

2020年07月14日 | 昭和の足跡
当時東京は杉並の東田町と言う所に住んでいた。今は成田東と変わっている。近くを通る五日市街道から路地に入り青梅街道へ出ると阿佐ヶ谷界隈になる。家の近所以外の生活圏がこの界隈となっていた。
昔の青梅街道には都電とトロリーバスが走っていた。これに乗って新宿まで行っていた。何の目的で行っていたかと聞かれても思い出せない。ただ親父と一緒に新宿西口にあった露天商の雑多を覚えている。そこで親父はよく落花生を袋一杯に買っていた。トロリーバスはやがて普通のバスに変わり、都電も消えていった。2~3年前日本へ帰った時に東京へいったが、無性に都電に乗りたくて、唯一現存しているに三ノ輪から早稲田まで乗った。

青梅街道をスズラン通りに進むとやがて阿佐ヶ谷の駅が出てくる。昔はチョコレート色の「省線」と呼んで、これも新宿まで行ったものだ。そのうち車両もオレンジ色の新しいのに変わり、更に国鉄からJRなり、今では車両も路線で様々な色分けがされるようになった。

今一度、あのチョコレート色の「省線」に乗ってみたいものだが。今では古い昔の映画でしかお目にかかれない。





昭和の足跡(13)整備士としての親父

2020年07月03日 | 昭和の足跡
前稿で書いたように、親父は整備士だった。熊本工業高校を出たと言っていたから、そこで機械工学を学んだようだ。巨人の川上が同窓だったのが自慢だった。

高校を出てから親父は上京している。車の整備士として主としてタクシー会社を何度か変わっている。昭和14~5年の頃だから、世の中決していい時代ではなかったろう。仕事にありつけるのも地方出身者にとっては楽ではなかったはずだ。

当時のスポーツは野球が中心で、たまに親父は六大学の試合、とりわけ早慶戦に連れて行ってくれた。早稲田贔屓だったので、よし坊も自然と早稲田ファンになり、野球のユニフォームを買ってもらった時、ソックスは当然エンジ色の早稲田カラーだった。

早稲田贔屓には理由がある。上京してから二級整備士の資格を取る為に、早稲田の夜学(と言っても、所謂夜学ではなく、資格を取る為の必須コースを受講したのだろうと推測する)に通い、資格を取得している。決して裕福ではなかったが、この資格のお陰で職場がよく倒産したが次の職場に比較的早く就けたようだ。

整備士としての腕は評価が高かったようで、当時プロ野球出身のラジオの解説者(名前は忘れたが)の乗っている外車(マスタングだったと思う)の整備を個人的に全て任されていた。

小学校4.5年の頃だったか、親父が、今で言う、海外協力隊に応募してシンガポールを目指したことがあったが、母の猛反対にあって実現しなかった。自分の腕を海外で試し、かつ貢献したかったのだと思う。心残りのひとつだったに違いない。

親父の機械いじりのDNAは9歳年下の弟に受け継がれたが、残念ながら48歳であの世に行ってしまった。よし坊にはDNAは引き継がれなかったが、もし、生まれ変わることが出来たなら、今度は機械いじりをやってみたい気がする。