よし坊のあっちこっち

神出鬼没、中年オヤジ、いや、老年オヤジの何でも有りブログだ!

安倍に期待するもの

2012年09月26日 | いろいろ
アベが約一年で政権を放り投げた時、よし坊は怒ったものだ。しかし、その裏側というか本当の背景が後でわかると、そう言う事なら止むを得ないと納得した。

再びアベが表舞台へ登場する。大歓迎である。独自の国家感を持っているのがまず良い。更に言えば、二つある。コイズミと共に拉致問題に光を当てた当事者である事と、教育基本法に手をつけたことだろう。もうひとつ言えば、国防意識が高い。

もちろん、日本が抱えている問題は生易しいものではない。いずれ政権奪取するだろうが、したからといってその前途は簡単ではない。世の中複雑、世界も複雑。その中でやっていくのは大変だ。

山積している問題を解決出来るにこしたことはないが、今の日本及びニッポン人は、問題解決に取り組む道程の、遥か前のところで足踏みをしている。”足踏み”と言うのは優しい表現で、ぶっちゃけた話、皆怖気づいているのだ。政治家を含め日本人が怖気づいている。海外に出る連中(正確に言えば、海外に出される連中というのが当たっているが)も怖気づいている。

今の政治化の役割は、根本的なところでニッポンジンに自信を取り戻させる事なのだが、自分たちに自信がなく怖気づいているのだから、到底他人様に自信を持たせることは出来ない。

アベのもう一つの仕事は、シンジロウを育てる事だろう。この逸材をじっくり育ててほしいものだ。

それにしても、来たるべき総選挙で落とさなければならない政治家を今から吟味しておく必要がありそうだ。ハトぼんとかカンカンだとかを筆頭に。

映画三昧 - Driving Miss Daisy

2012年09月15日 | 映画
アメリカの宿命でもある人種問題、それを南部を象徴する町アトランタを舞台背景として、ほろ苦くも暖かい人間交流の中で描いた佳品である。

ジェシカ・タンディの代表作だが、モーガン・フリーマンにとっても代表作の一つであろう。息子に充てがわれたアフリカ系アメリカ人(従来表現でいう黒人)のお抱え運転手になかなか心を開かない老婆が、次第に心の扉を開いていく様を、日常の中で淡々と描いている。地味だがゆっくりと、暖かくなっていく映画だ。

この映画の中で印象深いシーンのひとつに、アラバマの町モービルへ遠出をする場面がある。運転手が言う。「ジョージアを出るのはこれが初めてだ」。白人のように簡単に車を持てる時代ではななく、移動手段がないのだ。途中彼らはハイウェーパトロールに止められ職質される。この場面は、アメリカの抱える代表的な人種問題を凝縮したような場面だ。警官は二人の白人である。この白人は、よし坊の目から見れば、単なる白人ではなく、その背後にKKKを背負っていそうな雰囲気のする白人なのだ。長い間迫害され続けるアフリカ系アメリカ人、ユダヤ系アメリカ人ということで決してハッピーな取り扱いを受けていない老婆の白人、そして純血主義を守りたい白人。そんな人種の目に見えない対立構造をこの場面に凝縮し、それぞれの思いを残して、何事もなかったかのように場面はお開きとなり、次のシーンへと移る。

老婆は自分の受けた差別の共通項を運転手が受けてきたであろう差別に見出し、だから心を開くことが出来た。

アメリカは、人種問題とともに歩く国、だ。

映画三昧ー風と共に去りぬ 今アトランタに暮す

2012年09月10日 | 映画
確か平凡社版だったと思う。分厚い「風とともに去りぬ」を読み終わり、南北戦争を背景としたこの壮大な物語で、アメリカにジョージアがあり、アトランタがあることを、中学生のよし坊は初めて知った。

それから暫く経って、日本で映画が封切られた。日本での初公開が1952年との事であるから、恐らく二回目の公開時期だったのかも知れない。この映画に、実に5回も観にいったのだ。劇場公開で二回以上観にいったことは、後にも先にもこれ以外に無い。あの「タイタニック」で4回も5回も観にいったというのをアメリカで聞いたが、当時のよし坊は正にそれである。何よりも初めてビビアン・リーを観てすっかり魅了されてしまったのだ。この映画で彼女とクラーク・ゲーブル、レスリー・ハワード、オリビエ・デ・ハビランドが四点セットとなった。映画の場面ではとりわけ大火のアトランタを馬車で脱出するシーンは圧巻そのもので、小説で初めて接したジョージア州アトランタが具体的イメージとして頭に埋め込まれたのは間違いない。

今、アトランタに暮らしている。つらつら思うに、決して偶然ではないのだと思う。あの映画が無意識の羅針盤をよし坊の意識の中に植え付けたのではないか。

次にアトランタに接するのは1987年になる。当時仕事で最低年一回はスポーツの祭典、スーパーショウを見る為にアメリカに来ていたが、アトランタ開催となって二回目のこの年、その土を踏むことになる。前年JALはデルタと共同運航でアトランタ直行便を就航させた。登場記念にJALとデルタ共同のネームタッグを貰ったのを覚えている。残念ながら、その後ショウの開催は他州に移ってしまい、1995年にアトランタに駐在するまでは縁が途切れてしまった。

1994年、入社以来長年仕事をしてきた部署から突然他部署、正確には関連会社への異動となった。会社には毎年自己申告制度があり、現業以外で働きたい分野を書く欄があった。馬鹿の一つ覚えのように化成品関係を希望として書いてはいたが、大会社故のセレモニーと思っていたものだ。事実入社以来20数年何も起こらなかったのだから。ところがそれが忘れたころに起きてしまった。

後で分かったことだが、アメリカで新会社をスタートさせる為に白羽の矢が立ってしまった。しかもジョージアはアトランタとくれば、何かの因縁があるとしか思えない。5回も観たビビアン・リーのあの映画が知らず知らずのうちによし坊をアトランタに導いたのかも知れない。

無いようで有りそうな、映画と人生の関わり、かな。

中くらいなり、日本のサッカー

2012年09月07日 | サッカー
9月に入り、俄然国際親善試合やW杯への地域別予選が行われる中で、昨日の日本対UAE戦を観たのだが、正直のところ、食い足りない。1-0で勝ちはしたが、格下で、しかも若手中心のチームに1点では、やや不甲斐ない。大量勝ちしろとは言わないが、このクラス相手では前後半1点づつは欲しいところだ。

確かに、今の日本チームはそう簡単には負けない雰囲気はあるのだが、そこから先へ行く力強さのようなものが予感できない。今の水準が目一杯のように映って、「中くらいなり日本のサッカー」と言った所に何やら心地よく収まってみえるのだ。

ここアメリカでみていると、地元アメリカとお隣メキシコは積年のライバルとして競り合っている。FIFAのランキングではメキシコが21位、アメリカが33位。これに21位の日本を加えて、どう比較するかだが、実力は殆ど大差ないだろう。

手元に日米のデータしか無いので、日米の将来性に限って考えてみると、アメリカの方が、より将来性の芽が有ると言わざるを得ない。チャレンジの精神に差があるように思えるからだ。日本が今のサッカー現状をどう捉えているか分からぬが、アメリカは「サッカーの発展途上国」と明確に意識してチャレンジしようとしている。チャレンジ精神の一端を何処で見るかと言うと、対外武者修行としての国際親善試合(所謂国際Aマッチ)だ。ここでは当然、W杯への地域予選や地域のビッグトーナメントは除かれる。

2000年以降のアメリカの対戦相手を見ると、ランキング上位の強豪国であるアルゼンチン、ブラジル、英国、ドイツ、オランダ、スペイン、イタリアと3回以上対戦しているのに対し、日本はアルゼンチン、ブラジル、ドイツ、英国と対戦はしているが大体2回である。アメリカはそのほかにもフランスなどヨーロッパの国々のみならず韓国中国オーストラリアといったアジア圏やアフリカ圏とも積極的に対戦しているが、日本はバラエティに相当欠けている。

この現象の差は、それぞれの国のサッカーを取り仕切る団体と監督の意向が反映されているのではないだろうか。もしそうであるならば、日本にチャレンジ精神は見えない。また別の理由として、日本のサッカー協会が非力で、強豪達を呼べないのかもしれない、とも考えられる。もしそうとするならば、協会自体の問題として考えないといけない。

日本はJリーグが中ぐらいの所ですっかり成熟してしまったように見える。だから、「中くらいなり日本のサッカー」となる。アメリカは2007年デイビッド・ベッカムを呼び入れて以来、アンリ、マルケス、最近ではロビー・キーンがプレーして底上げを図っている。オーストラリアでは先日、デル・ピエロのシドニー入団が決まり、アメリカでのベッカム効果を明らかに狙っている。

日本が本気で実力15位以内を考えるならば、思い切った仕掛けが必要だが、、、、、。

会社不祥事と3D

2012年09月03日 | ビジネス横丁こぼれ話
企業や組織の不祥事に必ずつきまとう3Dというのがあるという。Deny(否定) Delay(先送り) Defend(防御)である。

人間、不正やよからぬ事に手を染め、それが発覚した時に、その殆どが3Dから逃れられないらしい。当面の“災難?”から逃れる為に、まず“そのような事実は無い”或いは“私は関係ない”とDenyしてダンマリを決め込み、あわよくば逃げ切ろうとする。この最も典型的な例が、大きな事件に発展した、イジメによる大津市の中学生自殺事件である。学校側や市教育委員会は、「調査したが、その様な事実は無かった」と、まずDenyして見せた。ところが隠蔽が明るみに出ると慌てふためき、教育委員長が襲われる事態にまで発展してしまった。Denyから始まった重いツケである。大津市に限らず、日本の教育委員会を頂点とする学校組織は昔からこの体質が一向に変わらないから、またどこかで起こる。

次にDelayだが、Denyの後に時間稼ぎをする為の証拠隠滅や巧妙な調査妨害を行い、その間に様々な辻褄合わせをやる。これは隠蔽工作であり、Delayは多くの場合、この隠蔽工作に直結している。この典型が、不正経理における資料改ざんであろう。辻褄が合うように数字を操作するわけだが、操作の過程で必ず“架空”が介在してしまう。この“介在”を見つけられたらひとたまりも無い。糸を解す様に一つ一つの取引の貸借を辿って行けば、どこかで必ず不整合に突き当たる。そこで万事休すだ。

最後がDefend、即ち自己防衛である。言葉を変えれば“責任逃れ”“責任転嫁”である。イジメを見たり、認識していながら“私は見ていなかった”“私は知らなかった”と臆面もなく言う先生。企業不祥事の場合に必ず出てくる科白で、“それは部下が勝手にやった事で、私は関知していない”。こうして何とか自分に手が及ばないようDefendしようと躍起になる。しかし、大方の場合は、そんな努力も水の泡で、調査が進み不正や関与が暴かれる。

さて、一般の企業戦士が組織の不祥事に関ったときどうするかは大変悩ましい問題だ。もし、積極的に関与するのであれば、関与する前から“塀の中”を腹括るしかあるまいが、“塀の中”が分かっていて最初から関与するお人好しもおるまい。問題は、気がついたら自分が渦中に居ると分かった時だ。正面から不正の告発をやるか、それともWhistle Browerとして内部告発するか。よく告発してくれたとして感謝される事もあろうが、人間関係がギクシャクして結局会社を去ることになる場合も多いと聞く。最近の大きな事件の例では、某光学メーカーの英国人社長のウッドフォード氏のケースが記憶に新しい。この会社にとっては大恩人であるはずだが、日本人幹部は社長を解任してしまった。“正義の味方”がこんな憂き目に遭うのが企業社会だ。このリスクに個人として耐えていけるか否かである。3Dに真正面から向き合うには相当な勇気と腹括りが要る。