よし坊のあっちこっち

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昭和の足跡(20)我が家の貧乏飯

2020年12月28日 | 昭和の足跡
小学校の頃の食事を思い出す。飽食の時代を生きてくると余計懐かしい。我が家は裕福ではなかった、いや貧乏家庭であった。そんな家庭の貧乏飯は、おかずがない時に威力を発揮する。

醤油ぶっかけ飯 :ご飯の上にうっすらかけて、全体にかき回し、胃の中にかきこむ。手元がくるって、よく醤油をかけすぎるのが玉に瑕だ。

ソースぶっかけめし:醤油と同じ要領。当時はウースターしかなかった。今のとんかつソースがあったなら、きっとウースターととんかつソースを混ぜたぶっかけ飯をかきこんでいただろう。

甘味噌 :味噌に醤油をたらし、砂糖を加えてこね回す。とろりとなったこの甘味噌をご飯にかけて食べる。

ごま塩:黒ゴマに塩を加えてフライパンで炒る。今でいうフリカケである。元祖フリカケといってもいいくらいの一品だろう。

貧乏といってもご飯を食べられたのだから、貧乏の中でもましだったのだろうと今思う。

1979年 アメリカは中国を見誤った

2020年12月16日 | アメリカ通信
1978年、中国の鄧小平は共産主義国家でありながら資本主義経済の導入という意表をついた政策を公表、世間をあっと言わせた。東西冷戦の象徴である共産主義と資本主義という二つの対立軸を中国は飲み込んでしまったのである。

この新政策に対し、アメリカが大きな期待を抱いたのは当然だった。市場経済で国は豊かになり民度は上がる。その結果自由主義、民主主義の良さが浸透し、やがて共産主義にとってかわる。そうなれば、計り知れない巨大市場が開放され、アメリカ経済にとっても多大な利益を享受できる。アメリカはそう考えた。

1979年、大統領ニクソンは電撃訪中により米中国交正常化をやってのけた。以来、軽工業品を中心に企業進出が始まり、Nikeを筆頭に、中国主要都市に拠点工場を設立、その後、満を持して自動車産業が海を渡っていった。

そして40年経った今、何が起こっているか。遅ればせながらトランプの強烈な中国叩きである。中国は共産主義と資本主義を狡猾に利用し、アメリカと西側諸国が期待した民主主義国家とは異なる、世界覇権を目指す化け物国家へと変貌した。1979年の国交回復に抱いたアメリカの期待は、”幻想”に終わった。

中国の世界覇権の目論みは着実に進行中だ。総合的軍事力ではまだアメリカが優位だが、最近の衝撃レポートがある。軍艦数は既に中国がアメリカを上回っているという。陸の一帯一路政策に並行して海洋覇権を目指していることは明白である。この軍艦数に追いつくのにアメリカは5~10年はかかるという。

この海洋軍事力の逆転の兆候をアメリカはもっと早く察知すべきだったがオバマ政権は見逃した。オバマは中国にはユルユルの友好政策をとり、中国海軍との合同演習までやってしまった。この間中国は着々と軍艦建造に励んでいたわけである。だが、この演習の時に行われた両軍司令官の会談の際に、中国側から、「将来太平洋はアメリカと中国で二分しようではないか」との提案がなされた。漸くオバマは事の重大さを認識、中国政策転換を図ったが、時既に遅かった。

白人対白人の米ソ冷戦に比べ、米中冷戦は白人対東洋人の構図故に、厄介さの度合はかなり大きいと思わざるを得ない。

昭和の足跡(19)テレビドラマ

2020年12月08日 | 昭和の足跡
小学校の頃、日本のテレビは創成期にあった。今でも覚えているドラマは「日真名氏飛び出す」と「事件記者」。だが、最も影響を受けたのはアメリカから入ってきたドラマだろう。

アニメではポパイやトムとジェリー。ドラマでは名犬ラッシーやパパ大好きなどのホームドラマに始まり、西部劇のローンレンジャーや、若き日のクリント・イーストウッドが出てたローハイド(もちろん当時のイーストウッドが後に有名になるなど知る由もないが)。以後も続々とドラマが入ってきた。正にアメリカのオンパレードの中で育ったようなものだ。こんな環境が後々海外へ行きたいと思うようになった一つの背景であろう。

ホームドラマの食卓シーン。家族で大皿からご馳走を皿にとりわけて食べる。感謝祭ではターキーの丸焼きが供され、それを切りもって食べる。西部劇では、野宿をしながら、無造作にコーヒーらしきものを飲み、煮豆らしきものを食べ、血がしたたる獲物を素焼きにして頬張る。日本では見られない豪華さやワイルドさに憧れたものだった。

それが約25年前日本からアメリカに住みついて暮らしてみると面白い。当時凄いご馳走とおもっていた感謝祭のターキーも決して美味しいものではない。大皿に盛りつけたものも、マッシュド・ポテト(要するにジャガイモのすり潰し)である、野菜類のぶつ切りである。唯々ボリュームで勝負するという今のアメリカの食生活と変わっていないのである。

そんな風に思うのも、当時の日本は貧しく、そのボリューム感の圧倒されていたのだろうと思うほかはない。それにしても戦後アメリカに統治されたことはラッキーだった。


Thanksgiving 感謝祭 の真実

2020年12月02日 | アメリカ通信
感謝祭が終わり、人々はクリスマスに向かう今日この頃であるが、その感謝祭について。

史実というのは必ずしも真実ではない。後々誤って伝えられることもあるが、為政者が都合よく捏造したり美化することもある。

ボストン近郊の町プリマスと言えば1720年メイフラワー号に乗った清教徒が最初に踏んだアメリカの地であり、それを記念した石が観光スポットになっている。1980年代の後半、日本からのアメリカ出張でニューイングランド地方を訪れた時にプリマスに立ち寄ったことがあるが、多くの外国人観光客がそうであるように、当時の筆者の頭の中は、学校の世界史で教わる「清教徒、メイフラワー号、プリマス」だけであった。

次のプリマスとの出会いは1996年。前年、家族共々アトランタに赴任、日本の高1だった娘がこちらのハイスクールに入ったのがきっかけだ。英語が最も不得意な娘にとって、授業や宿題は難行である。そこで筆者が夜な夜な宿題を助ける羽目になった。その時読んだ歴史の教科書では「入植者とネイティブアメリカンは宴を張り、これがThanksgivingの始まりとなった」とある。あたかも未知の世界に足を踏み入れた入植者達が土着の民に歓迎されたかのような記述となっていた。多くの人達はこのレベルで納得し毎年ターキーを食するのである。

そして昨年、ほぼ25年振りにプリマスに関わる”Thanksgivingの真実”という記事に遭遇した。

記事によれば、プリマスに上陸した清教徒達が戦いの準備をしているのを察知したネイティブアメリカンは「何故戦おうとするのか。よく話し合おうではないか」と持ち込んだ食料を食しながらの会談となった。これがThanksgivingの発端だが、決して歓迎の為に食料を提供したのではないのだ。その後はどうなったか。外からの侵略者達は次々と土地を奪取、土着の民を駆逐していった。

プリマスの石の近く、Cole's Hill公園の一角にネイティブアメリカンの史実を反映した記念プレートが設置されている。「アメリカ国家が定めた感謝祭の日はネイティブアメリカンにとっては、先祖が土地を奪われ、虐殺され、文化を破壊されてことを忘れず追悼する日である」と記されている。アメリカ人の今があるのは、これらの犠牲の上に成り立っている、と説いている。