怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

学級崩壊は秩序の問題か

2011-02-13 17:28:32 | 教育
学級崩壊(今回は小学校に限定する)の原因を探すと犯人探しになる傾向がある。
例えば、担任の指導力不足、発達に一定程度の障碍の可能性が見られる子が含まれる集団であること、かきまわす保護者などなどに責任を当てて、そこから発想していないだろうか。

指導力不足には形式ばかりの研修をあてがい、発達障碍児童に対しては各種の個別指導をあてがい、それも体制的に無理であれば空いている人がだれでも教室に入って行く、かきまわす保護者に対しては、教委&学校が毅然と突っぱねにまわる。

どれも困っている当人に対して考えれば「ひどい仕打ち」とも受け取れはしないだろうか。

もちろん、そういった部分の責任ではなく経過のつながりや人間関係の立ち位置を読み取ることは、対応を考える上では必要だ。
そうでなければ現状を理解することが困難になってしまう。
しかし、そこから読み取り、理解を共有していく部分は、当事者の困難な立場に立った対応を念頭においてなされなければならない。

ここで問題としてあげたい話題が「(学級)秩序の回復」だ。

学級内には秩序がなければならないが、無用な秩序は単なる「生きづらさ」を助長するだけのものになり、先述した「人間関係の立ち位置」を当事者の立場にたって読み取ることを困難にしてしまう。
「秩序のための秩序」では、教育活動とはいえないのではないだろうか。
また、そのことによって、さらに学級内の秩序回復は遠くなるか、あるいは不信や競争意識の激化などを呼び覚ましはしないだろうか。

例えば、ある2年生の教室。
Aくんが授業中に奇声をあげ、椅子からずり落ちる。荷物が散らばる。そこに授業を中断して注意に入る担任。
しかし、たびたび起こることなので、もともと多動の傾向があるBくん、Cさんは集中できずにいて、そのタイミングで叩き合いの喧嘩を起こす。
担任が「だれか止めて。」と静止に入るがAくんは目線を話したすきにむしゃがる。
もともと話を聞いていなかったDさんがきょとんと担任を見つめている。
気の回るEくん、Fさんが止めに入るが、その状況に半ば総立ちになる子ども達。
その瞬間、我慢の時間切れでGくんがお漏らしをする。
そこに騒ぎに集まってくる小集団。
担任はあちこちに怒鳴るしかない。

これを「秩序がない状況」だというのは容易い。

が、想像してみてほしい。
これを「今後はあなた一人でまとめろ。」といわれてできる、あるいは回復までの経過を順序立てて考えつく大人はそうそういないのではないだろうか?
(それができるから教員はプロとも逆説的にはいえるのだが、そういうプロがつぶれて行く状況というのも本当は考えてほしい問題。でも、今は、その重層的になりかける話題はオミットしておく。)

大人もう一人が入ればイケるのでは?と考えた人はかなり甘い。

そのための一例を、1年生(5月)のものであげておく。

給食の準備時間。
前提として、40分では準備、食事、片付けは間に合わないので、4時間目の後半を潰すか、昼休みを潰すなどの対応がある。
そんな忙しくも急かされる準備中に事件が起こった。
食育の推進で、重たい磁器食器がやってきた日だった。
しかも運悪く、お盆に3つならぶだけでなく、ご飯にかける具がある、手順としては複雑な日だった。
配膳がたいへんなので担任は盛りつけ役を周りに指示を出しながらやっていた。
廊下で騒ぎの声。
磁器食器を回したのがさすがに心配で、(手伝いもしないで、だが)周回していた廊下の管理職が、
「先生。女の子が吐いているよ。」
とドア越しに声をかけてきた。
思い当たった子がいた。朝からちょっと元気がなかったAさんだ。
今、学校では感染性の胃腸炎が流行っている。
「Aさんね。わかった。そっちへいく。」
その瞬間だった。
ガッチャーン。
浮き足立った子ども達の教室の中央で牛乳瓶が割れた。
担任もさすがに焦った。
「みんなストップ。昼休みに食べるようにするから、みんな座ってがまんして待っていて。ガラスは危ないから、あんまり動かないで。」
そういって次々立ち上がってくる子ども達を押さえた。
担任が「もどってくるまで、我慢できるかい?」と念を押して廊下に出る。
吐いている子を見ているだけだった管理職も、さすがに教室内に入ってきて後始末を始めた。
私は廊下に出て、周りに避難するよう指示を出し、うずくまっているAさんを起こして保健室に連れて行き、その戻りに保健室から吐瀉物の処理セットをもってきて片付け始めた。
横を管理職が片付けたよと、逃げる様に立ち去っていく。
気づくと、PTAの仕事で通りかかった保護者のBさんが教室をのぞいている。
(さっきから見ていたのか。手伝ってくれればいいのに・・・でも、1年目で手を下せないのか・・・。そう担任は思った。)
一通り終わって、教室にもどり、配膳をしようとすると、子ども達が静かに座っている。
あれ?と思ったのは、配膳当番がいない。
よく見ると、全員、机にお盆がのっている。
「先生。やっておいたよ。でも、食器があまっているんだよね。」
「そうか、やってくれたのか。」と思った瞬間、そのよそわれた皿に目が釘付けになった。
ご飯の上にその具、その上に揚げ物と付け合わせの野菜。
どうやら全部重ねてしまったようだ。
こっちを見ている一部始終を見ていた心配そうな保護者が口を開いた。
あの管理職が子どもに配膳をやっておけと指示(だけ)を出したのだそうだ。

ここで担任がしたことは何だったろう。
それからその後、どういうような問題が起こっただろう。
想像してみてほしい。

担任がしたのは、まず謝るということだった。
対応をする大人側の責任を謝り、次のことに向かうための下地をつくった。
子どもが私の方に耳をかたむける契機を設けるということだ。
そして昼休みにかかるだろうけれど、配膳のやり直しをすることにした。
当番にいって、一班分ずつ、お盆を配膳の済んだもってこさせて、私がその上の大皿から小皿二つに揚げ物と野菜をわけとって盛りつけ直し、再びお盆に載せた。
みんな静かに待っていた。
それから保健室へいった子の話を報告し、割れた牛乳瓶の処理について再度確認指導し、日直に「いただきます」の挨拶をお願いした。

発生した問題は、実は、このメニューには汁物が一つついていたということだ。
どうやら揚げ物と野菜は同じ小皿に入れ、もう一つに汁をよそうという形だったようだ。
まるまる一品をつけ忘れた形になり、あとから保護者会で「なぜ気がつかなかった」と言われてしまった。
だが、パニック状態でそれどころではなかったので、謝るしかなかった。
しかし、見ていた保護者はそんな状況について、なんら助け舟を出してくれなかったのは解せなかった。
あとで、聞いてみると、「先生だからあんな風にできたんだなと見ているばかりでした。」とだけだった。
保護者会での話題としては、汁物をよそうことに自分も気づかなかったから、なんともいえなかったとのことだった。

ここにおける秩序というのは、頭ごなしに「やれ」とか、「なんでそんなことをしたのだ!」という上から目線ではなく、また、闇雲に「自分達でしたこと」を褒めるだけの指導ではない。
生活をしていくための共同者としての立場をお互いに尊重した関係作りをしていくという営みだと、私は思う。

ときに学校の言う「秩序」は「標語づくり」だったり、「ルールの徹底の確認」だったりして、個人や当該の集団の責任ばかり問う。
それでは真の意味での「秩序」など生まれようがない。そう私は信じている。

最後に学校における「秩序維持」に関わる例を以下に。

週始めの児童朝会時、整列した私のクラスに、えりを立ててアゴをひき、フードをかぶり、目を伏せがちにした子どもが並んでいた。
生活指導主幹の先生が日直で全体を整列させて司会役をしている担任に近づき、
「あの子、見ている?あれじゃマズいでしょう。」
という。
担任は、
「え?ああ、知っていますよ。で、今、直せというのですか?」
と返すと、
「そうじゃない?(あなた、やりなさいよ。という目配せ。)」
と疑問で圧力をかけてくる。
「あの子の親を知っていますよね。父親が家庭内でも手をあげているとか、母親は被害妄想がひどくて、すぐに子どもやその他に当たっている。きっと昨日、何かあったんですよ。だから、私は、それでもよく学校に来て、みんなといっしょに並んでいるんだなと思います。あとで言えばいいでしょう?」
と、担任は意に介さない態度で臨んだ。
「それじゃ、周りに示しがつかないでしょう。」
「では、彼を列から外しますか?せっかく並んだのに。日直ですし、私はできませんね。外の立場で(主幹に)どうぞ。」
主幹は苦虫を潰したような顔で立ち去った。
結局動かないところを見ると、担任にさせたいらしかった。
担任が子どもの障壁にならないと秩序という暴力で子どもは押しつぶされてしまうだろう。
これが見通しのもてないような経験の浅い初任者であれば、主幹のいうがままに動き、子どもから不信をかい、教室が荒れていくだろう。

秩序を形成するには、やはり当事者同士が関係性を確認し、育む中で生じてくる様々な課題を解決する中で創造していくべきなのではないだろうかと、そう思う。
もちろん、規範としての、あるいは参考としての「ルール」はあっていいし、それは実は社会生活の中に存在し、容易に学び取って行けるほど身近である。
子どもを「子ども扱い」するのではなく、また、保護者を「保護者という側におく」のではなく、「共通理解」と「共同」を、様々なカンファレンスの立場で共有しながら秩序が獲得されるという基本がなければならないと思う。

さて、「学級崩壊」に話を向けよう。

「学級崩壊」と一口にいっても様々な状況があると思う。
ただ、「秩序」の回復がそこから抜け出す道であるとするならば、以上にあげた「秩序」を重視して考えてほしいと思っている。
もちろん、発達障碍を抱えた子への対応を全てそういったことに振り返るつもりはない。
そうではなくて、「秩序回復」とうたったときに、そこには学校独自の上から目線の「秩序」というものが入り込む余地があり、そこがいっそう「学級崩壊」を助長し、問題解決を遅らせるばかりか、担任や児童に責任を押し付け、行き場のない者をときには再生産さえしてしまう可能性があるからだ。
教師にも保護者にも、もっと高次の「秩序」について、子ども理解や教育の理解から始めてはいけないものかと、そう提案したい。
もっとカンファレンスを、もっと情報のよりよい共有を、と願って止まない。

最後に、このエントリにあげられた事例は、ことわりがないもの以外は、私の知識や経験から導かれた創作ドラマだと考えてほしい。
何か個別の事例をさしているわけではない。

産経新聞特有の誘導記事だが、批判ばかりでは

2011-02-13 14:24:53 | ニュースから
個人重視、崩壊する家族 スウェーデン(産経新聞) - goo ニュース

タイトルが「崩壊する家族」と銘打っているのだから、産経の主張はそこへの批判だとみていいだろう。

しかし、スウェーデンに関しての著書をもつ中間のコメントをひいた上で、スウェーデンとは無関係の八木や岡本の主張を根拠に「崩壊」と言い切ってしまっていいのだろうか。
例えば、スウェーデンがそのことで何か困窮している実態があればいいが、実際には出生率があがったかのような表現もあり、さらに、そういった状況について受容する子どもの声も含まれている。
我田引水をはこのことで、産經新聞というのは、いつもあからさまな偏見に満ち満ちている。
逆に、「私は産經新聞をよく読んでいますよ」なんて人に出会うと、個人的には不信感しか覚えない。
褒めそやそうものなら、よほど頭が悪いのではないかと思ってしまう。

先日、産經新聞の社会部にいる人のブログに目を通す機会があった。
ここまで真っ正直に偏見を肯定的に自己評価しているのだと、実際におどろいた。
イデオロギーの違いといってしまってはなんだが、閉じている人なんだと思った。

さて、産經新聞というのはそういう新聞だとしておいて、だ。
新聞批判ばかりしても仕方がない。
私がこの記事で興味をもったのは、6割近くといわれる「婚外子率」だ。

日本に置き換えてみれば、そういったことが行われれば経済的にも労働的にも崩壊する一人親が生まれるだろう。
そういった事実を想像すると、スウェーデンの子育てに対する手厚さという別な側面が強烈に浮かび上がってくる。
また、そういった子どもの多さというのは、そういった境遇の子どもの通常化であって、子どもの心理、文化などが日本のような場合と大きく異なってくるということだ。

日本標準で批判する八木の頭の悪さは悲惨としかいいようがないが、そういう差異を冷静に社会が、扶助する大人が考えていかなければならない。
翻って、日本はそういった子どもに対する課題を自分の社会情勢や労働生活とリンクさせて考えることができているだろうか?
冷めきった社会参加、「ガラガラポン」化する政治参加、どれを見ても実は八木らがいう「家庭崩壊」は、個人の責任ではなく、社会全体の問題を改善する中で位置づけなければならないというのが筋だろう。
そういった意味で、世界人権宣言の「家族」は規定されていると考えたい。
復古主義の「家族」や、ましてや太古の「家父長制」の復活は日本にはいらない。

結局、記事から例の団体の批判になってしまった。

(以下、引用)
個人重視、崩壊する家族 スウェーデン
産経新聞2011年2月13日(日)08:00

個人重視、崩壊する家族 スウェーデン
(産経新聞)

【それでも撲滅できないのか】スウェーデンでは(下)

 ■体罰に代わる子育て、男性が積極参加

 右腕にわが子、左手にカフェラテ。平日の昼下がり、スウェーデンの首都ストックホルムの喫茶店で、育児休暇中の父親たちが子育て談議に花を咲かせていた。スウェーデン人は牛乳たっぷりのカフェラテが大好き。子供と喫茶店に集う父親たちは「カフェラテパパ」と呼ばれ、この国ではありふれた光景だ。

 次男のアロルちゃん(1)を抱いた会社員、グスタフ・デイノフさん(32)は「今は妻が働いているからこの子を私が育てている。育休の間は子供と遊べて、子育ても勉強できて楽しいですよ」と話す。

 同国では体罰を法律で禁じた結果、体罰に代わる子育てが模索されてきた。男性が積極的に育児に関わるようになったのもその表れだという。共働きが基本の同国では育児休暇制度が普及し育休中の給与も1年以上80%が保障される。福祉サービス充実の観点から保育所も多く、残業の習慣がないため父親の帰宅時間も早い。精神的、経済的にも余裕をもって、家族の中で男女が効率よく役割分担をしているようにもみえる。

 だが同国の子育ては、必ずしも両親と子供が1対1で行われているわけではない。スウェーデンの家族のあり方に詳しい民間シンクタンク研究員、中間真一さん(51)は、「よくも悪くも極めて合理主義の国民。無用な我慢はしないので簡単に別れたりくっついたりする。法律婚は手続きが面倒でその結果、事実婚であるサムボ(同棲(どうせい))やシングルマザーが当たり前になっている」と話す。そのため家族の縛りや制約、偏見は全くといっていいほどないのが現状だ。

 親が離婚(パートナー解消)をして新しいパートナーと住めば、またそこで新しい子供が生まれる。次第に異父(母)兄弟が増えていくという複雑な家庭環境はこの国ではめずらしくない。中間さんは言う。「子供に話を聞くと『急に新しい父親だと紹介されて訳が分からなかったしつらかった。もちろん本当の両親と暮らすのが一番ハッピー。でもお母さんにも選択の権利があるから』と言うんです」

 「自己選択・自己責任・自己決定」が重視される同国では、離婚と再婚、カップルの解消と成立が繰り返され、婚外子率は6割近くに上る。日本が約2%であることを考えると圧倒的に多い。一部にはスウェーデンの婚外子の増加を少子化に歯止めをかけたとしてプラスにとらえる見方があるが、高崎経済大学の八木秀次教授(48)はこうした複雑な家庭環境が子供の内面にもたらす負の側面に警鐘を鳴らし「心身が不安定になり、行き場がなくなって薬物や酒、非行に走る率が高い」と指摘する。

 家族の絆を守る会の岡本明子事務局長も「婚外子が6割近いというのはすでに家族が崩壊している証拠。婚外子の増加で出生率だけ上がっても仕方がないのではないか」と疑問を呈する。岡本さんは「『個人としての人間』を追求し、自由を求めれば家族は煩わしくもある。でも欧州のように宗教的なつながりを持たない日本にとって、家族は社会を存立させる、もっとも大切なもの」と訴える。

 スウェーデンは移民が多いことでも知られる。子供のために活動するNGO「セーブ・ザ・チルドレン・スウェーデン」のオーサ・ランドベリ代表(47)は「私たちが体罰禁止を主張しても、移民とは文化的な違いがあり、浸透していないことは分かっている」とし、続けた。「子育ては文化的な要素が大きい。私たちの国をひとつの参考として、それぞれの国や家庭に合った方法を見つけだせばいい。それはきっと次の世代のお手本になるはずです」(田中佐和)