怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

自分の読書について

2005-01-04 00:39:47 | 教育書
子ども自分は科学者にあこがれ、SF小説や推理小説を大量に読んでいた。
思春期、青年期には更に科学雑誌や専門系の入門書、そして、不安定な気持ちを心理学の本で理解しようとしていた。
大学時代は理系専門書が中心だが、英文にも積極的に当たったが、何かを得られた感触は少ない。
この仕事について(4年の講師時代を含め)、自分のペースがつかめるまでは本らしい本は読んでいなかった。
教育系と呼べる書物は10年くらい読んでいなかったといってよい。
これではいけないと一念発起したが、教育の専門書は実はたすきに長いものばかり。
結局、古い書物は使えないことに気付くのに時間はかからなかった。
(少々、現場に引用できる書物はあったが、古いものばかりでは当たるまでに時間がかかる)
いきおい新刊本、そして新書シリーズにいきついた。
私のここ2年の書物購入の基本は「1998年以前はダメ。」である。
なぜなら、指導要領改訂にからんでいないからである。
また、教育界において、小学校でも6年たてば子どもは入れ替わり、
教師も多くは入れ替わり、各所で一昔前になってしまうからである。
(別に学校独自の伝統を無視しているわけではない)

今、書評めいたものを立て続けに書いているが、
気をつけたいのは、自分がマスメディアや書物に影響を受け、
自分の科学的な観点を見失ってしまうことだろう。
例えば、眠りを奪われた子どもたちの感想では、個人的な子どもへの所感をのべているが、
決して一般化した話ではないと思う。
現在、目の前にいる子どもや親、地域を攻めようとしているわけではない。
私は私なりにどの位置に立脚しているかを記述することで試行錯誤しているのだ。
「読書とは、旧知と語らう事である」とは何かの書物の言葉だが、
こうして自分の気持ちを吐露する場を、挑戦の場と捉えてもいるし、
自分を見つめる場とも捉えている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。