怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

この県議って

2011-07-10 22:56:54 | ニュースから
九電のやらせ情報、佐賀県が放置 番組前に県議が指摘(朝日新聞) - goo ニュース

東京新聞のこっち(以下URL)を見たら、
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2011070902000182.html
ちゃんと

> 佐賀県の武藤明美県議(共産)らによると、番組前日の六月二十五日に知人を通じ、九電からの依頼が記された文書を入手した。関連会社社員が武藤議員の知人に「こんなことがあっていいのか」と知らせたという。

> 武藤県議は、番組放送直前の二十六日朝、佐賀県幹部に「九電側が、番組中に賛成のメールを送るよう指示した文書がある」と伝えたが、県は九電に事実関係を確認しないままだった。県幹部は「まさかと思った。(原発の安全性について)国がどう説明するかに集中していた」と釈明している。

と書かれている。

天下の朝日が省略しちゃダメだよな。
この手の話って、この政党に対してはとても多い。
単純に差別じゃん?って思ってしまうけどな。

なんにつけ、「やらせ」とかこの手の「ほとんど差別行為」っていうのは、民主主義の限界を指している。
まだ朝日は記事にしただけよしとするのか、やっぱり本筋を通した報道を求めるのかは、民主主義への個人のセンスといいきってしまっていいのか・・・。
これはまだ私の迷いがある部分。

塩分をとろう

2011-07-10 21:41:58 | 戯言
塩分入りをうたった飴だとかサプリ系のなんちゃらだとかを店頭でよく見かける気がする。

今年は熱中症関係への注意呼びかけは多い。
梅雨もあけたそうで、週間天気予報は晴ればかりだ。
明日は水筒をもって出かけよう。

私事だが、昨年の夏も暑かったのだけれども、秋にすっかりバテて寝込んでしまった。

体調管理というのはナカナカムズカシイ。
転ばぬ先の杖という言葉もあるが、今年はいろいろ気をつけたいもんだ。

自民党の茶番か?

2011-07-10 21:33:50 | ニュースから
解散警戒し先手?自民、エネルギー見直しに本腰(読売新聞) - goo ニュース

脱原発以外に原発問題の原初である自民党に明日はない。
そらだけだろう。

谷垣が菅はすぐに退陣しろといっているが、その前に「脱原発」を掲げろといいたい。
自分の足下が固まっていないで、谷垣ごときがよく言うよと思う。

予想だが、しばらくは茶番をしているけれども、
「悩んだけれど、やっぱり原発は維持します」
っていう自民ができあがるんだろう?と、想定しています。

想定外を望みたいが。

さて、同じ穴の公明党はどうでるんだろうか。

(以下、引用)
解散警戒し先手?自民、エネルギー見直しに本腰
読売新聞2011年7月9日(土)08:58

 菅首相が「脱原発」を掲げた衆院解散・総選挙に踏み切る可能性を警戒し、原子力発電の普及を推し進めてきた自民党が、結党以来のエネルギー政策について理論武装を始めた。

 8月中に提言をまとめる予定だが、党内の路線対立に発展する可能性もはらんでいる。

 8日、自民党本部で開かれた「総合エネルギー政策特命委員会」(山本一太委員長)の2回目の会合では、「脱原発」の急進派の河野太郎衆院議員が「今までの誤りを認め、原発をフェードアウト(消去)させていくと訴えるのが大事だ」と主張した。

 経済成長のために原発推進を掲げてきた自民党は、石油ショックを機に、原発への傾斜を一段と強め、1974年の田中角栄内閣当時、原発の立地地域を財政面で支援する「電源三法」を成立させ、今日の日本のエネルギー体制の基礎を敷いた。

 河野氏らの主張は、東京電力福島第一原子力発電所事故を受け、党の従来のエネルギー政策の非を認め、大胆に転換するべきだというものだ。会合では、将来的に「脱原発」を進めるべきだとの意見も相次いだ。

 自民党内では、石破政調会長もエネルギー政策の見直しに前向きで、「今までの問題の責任から逃れるつもりはない」としている。

無駄テストという認識

2011-07-10 18:11:04 | 教育
全国学力テスト、きめ細かく調査へ 小6・中3全員参加、25年度復活(産経新聞) - goo ニュース

悉皆の根拠がない。
金の無駄。
東北へつぎ込むべき。
ついでにスポーツテストもやめる。

>「子供たちの学習に理科が少し不足している」

アホとしかいいようがない。
少しとはどの程度か?
馬鹿にするな。


(以下、引用)
全国学力テスト、きめ細かく調査へ 小6・中3全員参加、25年度復活
産経新聞2011年7月9日(土)08:00

 小学6年と中学3年を対象に毎年4月に実施している「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)について、文部科学省は8日、平成25年度に全員参加方式の復活を含む「きめ細かな調査」を実施すると発表した。また、24年度については22年度と同じ3割を抽出したうえで、実施科目を現行の「国語」「算数・数学」の2科目に加え、「理科」を導入することも決めた。

                   ◇

 全国学力テストは19年度に全員参加方式で開始。しかし、民主党政権が日本教職員組合(日教組)側の「過度の競争を招く」という論理を取り入れ、22年度から抽出方式に変更された経緯がある。具体的には、21年10月に当時の川端達夫文科相らが4割の抽出に変える方針を示し、さらに行政刷新会議の事業仕分けで3割の抽出にまで縮小が決まった。

 これに対し、教育界からは「子供たち一人一人の学力把握には全員参加にすべきだ」といった批判の声が根強くあった。文科省が22年度の抽出方式のテスト実施後、47都道府県の各教育委員会に行ったアンケートでは7割以上の34教委が「全員参加」を希望した。

 こうした中、文科省内に設置された専門家会議は今年3月の報告書で「数年に1度は市町村、学校などの状況も把握することが可能なきめ細かい調査の実施の検討が必要」と結論付け、軌道修正を迫っていた。

 高木義明文科相は8日の会見で「国として教育格差などを把握、分析するため、数年に1度、きめ細かく調査する必要がある」と説明。24年度に理科を追加することについては「子供たちの学習に理科が少し不足している」とした。

知っているだろうけれど、桁が違うだろうに

2011-07-10 18:01:40 | ニュースから
首相「処理に数十年」 福島第1 原子炉燃料、10年後除去(産経新聞) - goo ニュース

原発がもともと未完成な技術で成り立っていた事は明らかなのだけれども、そういった方向に安易に舵をきったという事実は、自民党政権時代の国民と与党には重く感じなければいけないことだろう。

日本の原発は寿命設定もおかしい。
でも、それは原発労働者という命を削る人々の存在が前提であって、非人道的な話だ。

10年だとか20年だとかいっているけれども、そういった非人道的な過程を前提の話だろうし、そんなことを言っているということは、そういった時期に原発に関わるみそぎは済んでいるという見方なのだろう。

やっぱりドイツじゃないけれど、脱原発を前提に話をしていかないと、こういう場合の石棺対策的な方針は出てこないということになるだろう。

SPEEDIの公表がなかったから逃げるときに放射能汚染に巻き込まれた人もいる。
でも、さらにそういったことが積もり積もるだろう。

雨も降る、風も吹く、汚泥にまみれて土壌やそれをあびて滞留する生活圏も増えるし、放射線量も増え続けるだろう。
あくまでも半減期なんて、そうそう短いものばかりじゃない。
半減期自体、単純に半分になるだけで、その後は長いということだ。

逃げる、そしてそこでなんとか生き延びる。
子どもだけでも救う。
そういった対策が必要な気がするのだけれど。

汚れる旗、歌

2011-07-10 17:20:41 | 教育
手始めに「日の、君」の問題を題材に。

まず、「日の、君」法に関して。

これが成立した経緯(特に広島の校長自殺から自民党の文閥の連中の弱腰の対応、審議日程、その量的問題の扱いのいい加減さ)について、百歩譲って了承したとしてだな・・・。
当時の小渕発言による「強制否定」は有効だよなぁと思っている。
それから真にウヨならば、天皇の米長に対する発言について、「強制批判」と受け取らないまでも、「強制するまでもない」ということなんだと捉えているんだよなぁと思っている。

さて、問題は東京都の03年、10.23通達。
この影響は明文化され、通達を受けた校種のみではないことは事実だ。
割と他の校種の担当教委や校長では、通達が自分たちに落ちなかったことを理由に、その点のツッコミを退ける傾向にあるが、一斉に強化された点を調べるだけでも明白なのだ。
ましてやいくつかの調査で事実も明らかにされているから、状況証拠ってわけではない。

これは、特に小中などの学校における「式」が教育活動であるかいなかを問うものであっただけでなく、強権的な管理を通じて、上意下達の教育システムを強化するねらいがあったし、それがかなう瞬間ともなったわけだ。

翻って、例えば小学校で、「日の、君」を教えないというのはどうなのか?という命題に対してなのだけれども、逆に問えば、今までにどうしてそのような声を学校現場や教委に対してあげてこなかったのか?という話と、現行の式に対する批判がなぜなかったのか?という話と、国際社会のある場面において「日の、君」を知らないという事実があったとして、それがどういう意味をもったのか?ということである。
最後に、旗歌の好きな人に対して「愛国心」というもののあり方について問い直したい。
偏狭で時に危険なナショナリズムを口上に述べるのではなく、パトリオティズムを取り上げる人にいいたいのだけれど、公立の小中は市立や区立や村立である。
なぜ、市の歌を教え唄わないのか?
「愛国心」とは、旗を認識し、歌を唄えば教育できるのか?

社歌を唄えと言われれば唄うのが社員だ。教員も同じだ。
という、これまた頭の悪い話にも出くわす。

よく、「日の、君」をないがしろにするような教員は国から出て行けとか、公立を辞めて私立にいけとか、幼稚な人格否定をふっかけてくる人もいるが、それ以前に教育というのはどのようなものかを考えたことがあるのか?

旗、歌を教えないということを主張しているのではない。
式を一律化、指導要領に明記されている当事者性を踏みにじってまで強制をする意味がそこにあるのか?
そういう強制をしなければならないと声高に主張すればするほど旗や歌は汚れていくだろう。

また、すぐに日教組が!という事実を確かめようとしない人に出会う。

裁判闘争でやりあっているのは日教組ではないし、彼らの中にこそ大政翼賛的な連中がいる。
既得権益が守れないのに労組は名乗れないだろう。
また、教員は賃金闘争ストもできないから労組自体が存在していないと受け取られても仕方がない。
そんな状況だ。

国を存続させているのは民族主義か?
そうでもないだろう。
そういう発想自体、あまりにも単純単細胞なんだなと、本当に思う。

子どもにしてやれることが、そんなことなんだと思うだけでアホくさい気がする。

不起立だっていいじゃないか。
さわぐわけないじゃないか。
伴奏はテープだっていいじゃないか。
他のものもテープなんだし。
壇上じゃなくたっていいじゃないか。
卒業生の顔をちゃんと見れるのだし。

全員前をむいいていないといけないなんておかしいじゃないか。
在校生が自分の作品で式場を飾ってはいけないなんておかしいじゃないか。
地域の人が壇上の壁を飾ってきた伝統をつぶすなんておかしいじゃないか。
主人公が卒業生で、脇役が教員、保護者、在校生代表じゃないなんておかしいじゃないか。

「式」が全て同じだなんて。
あの、
旗、歌のせいで。

誰にとってもつまらなくなったじゃないか。