毎年、年末になると母校の大学の卒業生名簿が届く。
今年の名簿には、彼女の名前が消えていた。
彼女の訃報が届いたのは、秋のお彼岸の連休直前だった。
信じられない思いで、告別式に向かった。
新幹線に乗って、名古屋が近づくにつれて、あとからあとから涙が出て、困った。
名古屋に行けば、連絡さえとれば、いつでも会えると思っていたのに、
告別式のために新幹線に乗ることになるなんて、想像もしていないことだった。
彼女とは、学籍番号が近かったので、殆どの実習が一緒だった。
わたしの「学習態度」はいつもいいかげんだったから、
真面目な彼女にはいつも迷惑をかけていたと思う。
わたしや、同じ班のやっぱりテキトウな仲間のやり残した課題の尻拭いを、
困ったような顔で黙々とこなしていた彼女の姿が、今も目に浮かぶ。
すぐに肩凝りがひどくなるんで、よくもんであげたけど、彼女の肩凝りは頑固だったなぁ。
性格は正反対だったけれど、少ない女子学生の中で、なぜか惹かれる人だった。
真面目で、聡明だけど、ユーモアを解する人だった。
不平や不満を口にしても、辛辣な悪口は、言わない人だった。
わたしは彼女の笑顔が大好きだった。
一緒にご飯を食べたり、旅行にも行った。
夏休みにはわたしの実家にも遊びに来てくれたっけ。
数年前、学会で名古屋に行った時に、たまたま彼女にも時間があって、
夕食を一緒にとり、一緒にホテルに泊まって、朝までおしゃべりした。
仕事のこと、人生のこと、・・・。
これから、まだまだ女盛り、ひと花もふた花も咲かせようね、って言ってたのに。
いつか、年を取って、時間に余裕ができたら、温泉でも行こうね、って言ってたのに。
この頃、日本酒が美味しいと思うようになったの。と言っていた彼女に、
じゃあそのうちこっちの地酒でも送るね、と言ったわたしは、
その約束を果たさないままだった。
卒業後彼女はずっと、別の大学に籍を置いて仕事をしていたのだけれど、
今年の春に、母校に残っている同級生達からの熱烈なラブコールで、助教授として戻ってきた。
その話を聞いて、わたしはとても嬉しかった。
医学部の女子学生が今よりまだずっと珍しかった頃、彼女は独りで頑張ってきたのだから。
その真面目さが、わざわいしたのかも、知れない。
彼女は、過労死だったらしい。
今年の5月下旬に、所要で名古屋に行った時に、電話で話したのが、彼女の声を聞いた最後だった。
思えば、あの時の声はすでに、とても疲れていた。
友達が助教授になったことが嬉しくて、わたしは舞い上がってしまって、
「おめでとう」しか言わなかった。
からだに気をつけてね。テキトウにね。ほどほどにね。
・・・・なんで、こう言わなかったのだろう。
言ったところで、彼女の性格だから頑張ってしまうだろうけど、
それでも、彼女の心労に想像が及ばなかった自分が、とても悔しい。
彼女を母校に呼び寄せた同級生達も、皆、悔しく、やり切れない気持ちだと思う。
娘に先立たれたご両親の無念さを思うと、何の言葉も出ない。
そして、何より悔しい思いをしているのは、彼女だろう。
告別式でお父様がおっしゃっていた。
「一日でも、二日でもいいから、娘の看病をしたかった・・・。」 と。
「私たちが前向きに生きることが、娘の供養になると思って暮らしていきます。」
お母さまはこうおっしゃっていらした。
我が家の恒例の「年末追い込み年賀状書き」が、今年はいつになく進まない。
10月には、中学の同級生の訃報もあった。
昨年は、小学校の同級生も・・・。
半世紀近くも生きていれば、いずれこのようなこともあるのはわかっているけど、
もしかしたら明日は我が身かも知れないと思いながら、なんともやり切れない。
彼女からの生真面目な年賀状は、もう届くことがないのだ。
今年の名簿には、彼女の名前が消えていた。
彼女の訃報が届いたのは、秋のお彼岸の連休直前だった。
信じられない思いで、告別式に向かった。
新幹線に乗って、名古屋が近づくにつれて、あとからあとから涙が出て、困った。
名古屋に行けば、連絡さえとれば、いつでも会えると思っていたのに、
告別式のために新幹線に乗ることになるなんて、想像もしていないことだった。
彼女とは、学籍番号が近かったので、殆どの実習が一緒だった。
わたしの「学習態度」はいつもいいかげんだったから、
真面目な彼女にはいつも迷惑をかけていたと思う。
わたしや、同じ班のやっぱりテキトウな仲間のやり残した課題の尻拭いを、
困ったような顔で黙々とこなしていた彼女の姿が、今も目に浮かぶ。
すぐに肩凝りがひどくなるんで、よくもんであげたけど、彼女の肩凝りは頑固だったなぁ。
性格は正反対だったけれど、少ない女子学生の中で、なぜか惹かれる人だった。
真面目で、聡明だけど、ユーモアを解する人だった。
不平や不満を口にしても、辛辣な悪口は、言わない人だった。
わたしは彼女の笑顔が大好きだった。
一緒にご飯を食べたり、旅行にも行った。
夏休みにはわたしの実家にも遊びに来てくれたっけ。
数年前、学会で名古屋に行った時に、たまたま彼女にも時間があって、
夕食を一緒にとり、一緒にホテルに泊まって、朝までおしゃべりした。
仕事のこと、人生のこと、・・・。
これから、まだまだ女盛り、ひと花もふた花も咲かせようね、って言ってたのに。
いつか、年を取って、時間に余裕ができたら、温泉でも行こうね、って言ってたのに。
この頃、日本酒が美味しいと思うようになったの。と言っていた彼女に、
じゃあそのうちこっちの地酒でも送るね、と言ったわたしは、
その約束を果たさないままだった。
卒業後彼女はずっと、別の大学に籍を置いて仕事をしていたのだけれど、
今年の春に、母校に残っている同級生達からの熱烈なラブコールで、助教授として戻ってきた。
その話を聞いて、わたしはとても嬉しかった。
医学部の女子学生が今よりまだずっと珍しかった頃、彼女は独りで頑張ってきたのだから。
その真面目さが、わざわいしたのかも、知れない。
彼女は、過労死だったらしい。
今年の5月下旬に、所要で名古屋に行った時に、電話で話したのが、彼女の声を聞いた最後だった。
思えば、あの時の声はすでに、とても疲れていた。
友達が助教授になったことが嬉しくて、わたしは舞い上がってしまって、
「おめでとう」しか言わなかった。
からだに気をつけてね。テキトウにね。ほどほどにね。
・・・・なんで、こう言わなかったのだろう。
言ったところで、彼女の性格だから頑張ってしまうだろうけど、
それでも、彼女の心労に想像が及ばなかった自分が、とても悔しい。
彼女を母校に呼び寄せた同級生達も、皆、悔しく、やり切れない気持ちだと思う。
娘に先立たれたご両親の無念さを思うと、何の言葉も出ない。
そして、何より悔しい思いをしているのは、彼女だろう。
告別式でお父様がおっしゃっていた。
「一日でも、二日でもいいから、娘の看病をしたかった・・・。」 と。
「私たちが前向きに生きることが、娘の供養になると思って暮らしていきます。」
お母さまはこうおっしゃっていらした。
我が家の恒例の「年末追い込み年賀状書き」が、今年はいつになく進まない。
10月には、中学の同級生の訃報もあった。
昨年は、小学校の同級生も・・・。
半世紀近くも生きていれば、いずれこのようなこともあるのはわかっているけど、
もしかしたら明日は我が身かも知れないと思いながら、なんともやり切れない。
彼女からの生真面目な年賀状は、もう届くことがないのだ。