ひまわりの種

毎日の診療や暮しの中で感じたことを、思いつくまま書いていきます。
不定期更新、ご容赦下さい。

同級生

2006年12月29日 | Weblog
毎年、年末になると母校の大学の卒業生名簿が届く。
今年の名簿には、彼女の名前が消えていた。

彼女の訃報が届いたのは、秋のお彼岸の連休直前だった。
信じられない思いで、告別式に向かった。
新幹線に乗って、名古屋が近づくにつれて、あとからあとから涙が出て、困った。
名古屋に行けば、連絡さえとれば、いつでも会えると思っていたのに、
告別式のために新幹線に乗ることになるなんて、想像もしていないことだった。

彼女とは、学籍番号が近かったので、殆どの実習が一緒だった。
わたしの「学習態度」はいつもいいかげんだったから、
真面目な彼女にはいつも迷惑をかけていたと思う。
わたしや、同じ班のやっぱりテキトウな仲間のやり残した課題の尻拭いを、
困ったような顔で黙々とこなしていた彼女の姿が、今も目に浮かぶ。
すぐに肩凝りがひどくなるんで、よくもんであげたけど、彼女の肩凝りは頑固だったなぁ。
性格は正反対だったけれど、少ない女子学生の中で、なぜか惹かれる人だった。
真面目で、聡明だけど、ユーモアを解する人だった。
不平や不満を口にしても、辛辣な悪口は、言わない人だった。
わたしは彼女の笑顔が大好きだった。
一緒にご飯を食べたり、旅行にも行った。
夏休みにはわたしの実家にも遊びに来てくれたっけ。

数年前、学会で名古屋に行った時に、たまたま彼女にも時間があって、
夕食を一緒にとり、一緒にホテルに泊まって、朝までおしゃべりした。
仕事のこと、人生のこと、・・・。
これから、まだまだ女盛り、ひと花もふた花も咲かせようね、って言ってたのに。
いつか、年を取って、時間に余裕ができたら、温泉でも行こうね、って言ってたのに。
この頃、日本酒が美味しいと思うようになったの。と言っていた彼女に、
じゃあそのうちこっちの地酒でも送るね、と言ったわたしは、
その約束を果たさないままだった。

卒業後彼女はずっと、別の大学に籍を置いて仕事をしていたのだけれど、
今年の春に、母校に残っている同級生達からの熱烈なラブコールで、助教授として戻ってきた。
その話を聞いて、わたしはとても嬉しかった。
医学部の女子学生が今よりまだずっと珍しかった頃、彼女は独りで頑張ってきたのだから。
その真面目さが、わざわいしたのかも、知れない。
彼女は、過労死だったらしい。
今年の5月下旬に、所要で名古屋に行った時に、電話で話したのが、彼女の声を聞いた最後だった。
思えば、あの時の声はすでに、とても疲れていた。
友達が助教授になったことが嬉しくて、わたしは舞い上がってしまって、
「おめでとう」しか言わなかった。
からだに気をつけてね。テキトウにね。ほどほどにね。
・・・・なんで、こう言わなかったのだろう。
言ったところで、彼女の性格だから頑張ってしまうだろうけど、
それでも、彼女の心労に想像が及ばなかった自分が、とても悔しい。

彼女を母校に呼び寄せた同級生達も、皆、悔しく、やり切れない気持ちだと思う。
娘に先立たれたご両親の無念さを思うと、何の言葉も出ない。
そして、何より悔しい思いをしているのは、彼女だろう。

告別式でお父様がおっしゃっていた。
「一日でも、二日でもいいから、娘の看病をしたかった・・・。」 と。

「私たちが前向きに生きることが、娘の供養になると思って暮らしていきます。」
お母さまはこうおっしゃっていらした。

我が家の恒例の「年末追い込み年賀状書き」が、今年はいつになく進まない。
10月には、中学の同級生の訃報もあった。
昨年は、小学校の同級生も・・・。
半世紀近くも生きていれば、いずれこのようなこともあるのはわかっているけど、
もしかしたら明日は我が身かも知れないと思いながら、なんともやり切れない。

彼女からの生真面目な年賀状は、もう届くことがないのだ。