山代中ブログ~伊万里市立山代中学校~

学校の日常の様子や山代の行事・歴史や自然等について、いろいろな記事を掲載しています。

山代の自然と歴史18~山代の地名②楠久(くすく)~

2009年12月06日 22時51分23秒 | 自然と歴史

 「楠久」は、この地に大楠がしげっていたことから、その名がついたという説があります。また、韓国語の岬を意味する「クシ」が「クス」に転じたという説や、海岸近くにある台地の端を道が越える地形から、「越す」がなまって「クス」になったという説もあります。

 「楠久」がはじめて記録に出てくるのは、南北朝時代の『松浦山代家文書』です。その中の『永徳元年(1381年)源栄去状』に「楠久村」とあります。また『永徳四年(1384年)一揆契諾状』に「くすく 諸亀丸代叶」の署名が見られ。「楠久」を名のる領主が、砦を築いていたことがうかがえます。
 その砦の跡と伝えられるのが現在の本光寺のところで、そこに隣接して武士の詰め所とされる「陣内」や馬の訓練所とされる「内ノ馬場」の地名があります。

 楠久の東側の「楠久津」は、『貞享四年(1687年)改 明和九年(1772年)改補郷村帳』に「楠久町」と書かれ、港町として栄えたところです。「楠久津」は御船手の町、漁業の町として栄え、名物の「楠久鯛」が多くとれました。

「山代町」内の詳細は、『山代エンサイクロペディア』をご覧ください。

<このブログに用いた写真や地図、内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第7集 地名編ー」から引用しています。>

※ 関連記事:17 山代の地名①山代町16 石炭と地滑り15 伊万里湾総合開発計画 ② 久原北地区・久原南地区・浦ノ崎地区14 伊万里湾総合開発計画 ① 伊万里湾大橋 13 楠久穴海岸の塩生植物 12 霧寄(きりよせ)神社まつり 11 久原の大念仏 10 伊万里はしぐれ、佐賀はからから天気 /9 山代町の炭鉱 その2 / 8 佐代姫伝説 /7 川南造船所 /6 山代町の炭坑 5 伊万里県と西山代村 / 4 楠久津の漁民 / 3 城山 飯盛城址 / 2 小島古墳 / 1 城山・伊万里湾大橋

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山代の自然と歴史17~山代の地名①山代町~

2009年12月06日 07時39分26秒 | 自然と歴史

 「山代町」は、東側に伊万里湾、西側に国見山系からのびた西ノ嶽連山がひかえ、北部を長崎県松浦市に接しています。
 「山代」の呼称は、平安時代の末に松浦党二代目の源直(みなもとのなおす)が、「山ノ寺」をひらき、里に館を構えたときからと伝えられたいます。
 「山代」の地名が始めて記録に出てくるのは、建久三年(1192年)の『松浦山代家文書』です。その中で、源直の六男、源囲(みなもとのかこう)が鎌倉幕府から「山代浦地頭」の職に任命されたということが書かれています。

 「山代」といわれたのは、現在の東山代町と山代町の区域で、江戸時代には「山代郷」と呼ばれていました。
 山代郷は、明治12年(1879年)に西松浦郡に属することになり、明治22年(1889年)に「東山代村」と「西山代村」に分かれました。楠久津、楠久、福川内、城、峯(鳴石を含む)、久原、立岩(浦ノ崎、川南、向山を含む)、西分、西大久保、東分(野々頭を含む)の十か村が合併したのが「西山代村」です。村役場は現在の久原に置かれていました。

 西山代村は、昭和11年(1936年)に町制を敷き「山代町」となりました。昭和29年(1954年)には、町村合併で伊万里市「山代町」となりました。

 「山代町」内の詳細は、『山代エンサイクロペディア』をご覧ください。

<このブログに用いた写真や地図、内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第7集 地名編ー」から引用しています。>

※ 関連記事:16 ~石炭と地滑り~15~伊万里湾総合開発計画 ② 久原北地区・久原南地区・浦ノ崎地区~14~伊万里湾総合開発計画 ① 伊万里湾大橋~13~楠久穴海岸の塩生植物~12~霧寄(きりよせ)神社まつり~11~久原の大念仏~10 ~伊万里はしぐれ、佐賀はからから天気~ /9~山代町の炭鉱 その2~ / 8~佐代姫伝説~ /7~川南造船所~ /6~山代町の炭坑~5~伊万里県と西山代村~ / 4~楠久津の漁民~ / 3~城山 飯盛城址~ / 2~小島古墳~ / 1~城山・伊万里湾大橋~

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