「楠久」は、この地に大楠がしげっていたことから、その名がついたという説があります。また、韓国語の岬を意味する「クシ」が「クス」に転じたという説や、海岸近くにある台地の端を道が越える地形から、「越す」がなまって「クス」になったという説もあります。
「楠久」がはじめて記録に出てくるのは、南北朝時代の『松浦山代家文書』です。その中の『永徳元年(1381年)源栄去状』に「楠久村」とあります。また『永徳四年(1384年)一揆契諾状』に「くすく 諸亀丸代叶」の署名が見られ。「楠久」を名のる領主が、砦を築いていたことがうかがえます。
その砦の跡と伝えられるのが現在の本光寺のところで、そこに隣接して武士の詰め所とされる「陣内」や馬の訓練所とされる「内ノ馬場」の地名があります。
楠久の東側の「楠久津」は、『貞享四年(1687年)改 明和九年(1772年)改補郷村帳』に「楠久町」と書かれ、港町として栄えたところです。「楠久津」は御船手の町、漁業の町として栄え、名物の「楠久鯛」が多くとれました。
「山代町」内の詳細は、『山代エンサイクロペディア』をご覧ください。
<このブログに用いた写真や地図、内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第7集 地名編ー」から引用しています。>
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