伊万里市の近代(明治以降)は、めまぐるしく地名が変わっています。
「伊万里県」とは、明治初期にわずか9カ月足らず存在した県名です。
明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県によって、佐賀藩などの諸藩は県に変わります。明治4年9月4日、佐賀県は人心一新を図る目的で県庁を伊万里に移しました。そして、いくつかの村などを統合して伊万里県が誕生しました。
同11月には、唐津などの4つの県や村を統合し、現在の佐賀県に対馬を加えた広い範囲が伊万里県となりました。
明治5年9月29日、県庁は再び佐賀へ移り、伊万里県は佐賀県と改称されました。その後、他県と合併したりしながら、明治16年(1883年)5月に佐賀県は、長崎県から分かれ、現在に至っています。
そんな中、明治22年(1889年)市町村制がしかれ西松浦郡は、2町14村に編成されました。そのうち現在の伊万里市に入っていたのは、伊万里町、牧島村、大坪村、大河内村、黒川村、大岳村(後に波多津村)、南波多村、大川村、松浦村、二里村、東山代村、西山代村でした。山代は、この頃、西と東に分かれていたんですね。
そして、昭和11年(1936年)、西山代村は、山代町に変わりました。
<この記事の内容については、伊万里市教育委員会が発行している「伊万里ふるさと読本ー第6集 歴史編ー」から引用しています。>
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