以前にも紹介しましたが、私は古くからこの地に伝わっている民俗芸能「兄和田念仏剣舞」の舞手としてがんばっています。
昨年の地域のお祭りに出し物として頼まれて踊ったのですが、今年も是非ということで今毎晩練習しているところです。
刀を持って舞ったり太鼓をたたくのは大人たちですが、かわいい女の子の鐘たたきが入ります。
<兄和田念仏剣舞の由来について資料から掲載>
兄和田念仏剣舞のはじまりは大同3年(西暦808年)である。
即ち、「権大僧都法印善行院忠慶」と号する僧が、出羽の羽黒山にこもって仏道修行中、たまたま訪れた三人の旅僧から、念仏剣舞こそ、悪魔を退散させ、如意繁栄をはかる菩提であると悟され、剣舞を教授された。
その忠慶が、自ら巻物をしたためて、羽黒山で修得した念仏剣舞を兄和田に伝授したものである。
剣舞についての伝説は他にもあるが、その大方は、仏教の歴史にまつわる抽象的伝説にすぎず、如何なる経緯で剣舞が伝わったかを明記しているものはないが、この兄和田念仏剣舞は、よくその頃の事情を記して伝えており、おそらく、わが国最古の剣舞である。
< 巻物に伝わるあらまし>
大同3年といえば、今より約1200年も前のことである。この時代は、天台宗、真言宗などの仏教宗派が伝わって間もない頃であるが、日本には古来から神道という宗派があるので、お互いに争わず信仰の調和をはかるため神は仏の仮の姿である(本地垂 の思想)と教えた時代であるといわれるが、この兄和田念仏剣舞に伝わる巻物にも、随所に時代を象徴する文面が見受けられる。
先づ踊りの一番に神前而再拝踊り三番に、御神楽入踊りがある。
また僧忠慶が菩提の道として剣舞を教授された場所、つまり仏道修行にはげんだのは、鬼渡大明神の御党であり、旅の僧もまた「大明神本地(仏の姿)如何」と問えば、忠慶は「金剛界の大日である(大明神は大日如来である)」と答えており、忠慶は真言宗の僧ではなかったろうか。
何れにしても当時の思想傾向を裏付ける会話の一端として興味深い。
一部には、忠慶は山岳信仰を通じて仏道修行に入った修験者(山伏)であるという説もある。 確かに羽黒山は、歴史に残る東北唯一の修験者道場である。それはとも角として、忠慶は、悟りの境地を極めた当代の名僧であったことが想像される。
当時は仏教伝道の手段として剣舞を踊り、踊りながら教化の旅を続ける伝道者が多く、忠慶もまたその一人だったかもしれない。
兄和田は、古代より湧水を利用して稲作の技術が発達していたといわれるので、忠慶は暫く此処に足を止めて念仏剣舞の極意を伝授したものと思われる。
日本では、空也上人がはじめて剣舞を踊ったという説もあるが、忠慶は、その時代より130年も早く兄和田に剣舞を伝授しており兄和田念仏剣舞は、まことに貴重な民俗芸能である。
⇒由来と歴史は今となっては「巻物」から伺うしかないのですが、ともかく私はこの民俗芸能にはまっています、老骨に鞭を打ちながら。