水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

アンコン合宿

2010年11月13日 | 日々のあれこれ

 昨夜、バンドとアンコンチームのレッスンをしていただき、その後先生とお話ししていたらけっこう遅くなってしまい、そのまま夕飯を食べずに寝たら、朝ものすごく調子がいい。
 どんなに遅くなっても寝る前に飲み食いしてしまう習慣は、見直さないといけないのだろうなあと思いながら、でも合宿ででもなければお酒を抜く日がない日々をまた続けるのだろうとも思う。
 やべ夕べ呑みすぎた、と言っていられるのは健康だからだ。感謝せねば。
 「結果も大事だけど、やっぱり、がんばる経験が一番大事なんでしょうね」とレッスンの先生はおっしゃる。
 まったく同感だ。
 「結果も出ないのに時間ばかり長い」というご批判は時々いただくけれど、だからといってちょっとやって楽しかったね、で終わるんだったら、それこそ時間のむだだ。
 生死にかかわるような貧乏もなければ、戦争もない今の世の中、せめて勉強と部活ぐらい必死こいてやってもらわないと、明日の日本をささえてくれる、つまりわれわれの老後の面倒をみてくれる若者が育たないではないか。
 「来年のコンクール、何やりますかね」
 「なんかいい曲ないですか」
 「さっきの感じだと金管はけっこう鳴るようになってくかなあ。いま、○○の○○という曲をちょっと見てるんですが」
 「○○学園さんは、来年何やりそうですか」
 「○○とか考えてるみたいなんですよ」
 「ええっ? こんどは○○? でも○○だと○○が … 」
 「○○も○○なんですけどね」
 「うちも、もう少し○○が○○だと○○なんですけどねえ」(わからんわ!)という会話をしはじめる時期になってきた。

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思いつき

2010年11月12日 | 国語のお勉強

 現代文で夏目漱石「こころ」に入る。これを読みながら、マーク式の小説問題の解き方も一気に教えてしまおうと思って、ある部分の選択肢を作ってた。

 ~ 彼の口元をちょっと眺めたとき、私はまた何か出てくるなとすぐ感づいたのですが、それがはたしてなんの準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられたときの私を想像してみてください。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせるはたらきさえ、私にはなくなってしまったのです。~

問 傍線部「私は彼の魔法棒のために化石されたようなものです」とはどういうことを表しているのか。最も適当なものを選べ。

ア お嬢さんに対して恋心を抱いているという、全く予想もしていなかったKの告白を聞き、身動きでき ないほどの衝撃を受けたということ。
イ お嬢さんに対する私の気持ちを知っていながら、平然と自分の思いを告げてくるKの強さに身が固ま るような恐怖を感じたということ。
ウ お嬢さんに対する恋心を打ち明けるKの口調は、いつもとは全く異なった重々しいものであり、思わ ず身構えてしまったということ。
エ 強い意思に支えられたKの告白によって、自分の恋の行方は完全に閉ざされてしまったという思いを 抱かざるを得なかったということ。
オ Kがお嬢さんに対して恋心を抱いていることを予想はしていたが、あまりにも突然の告白に驚き、魔 法にかかったように身動きできなくなったということ。

 それぞれの選択肢のどこが悪いのかをそれぞれ指摘してみようと進めるつもりだったけど、正解選択肢は自分で書いてもらおう、いやいっそ誤答の選択肢も一つくらい作ってもらおうと、思いついた。
 ア(正解)とイは生徒さんには示さずに、自分で選択肢作ってみなさいと指示する。
 正解、誤答それぞれ二人ずつ黒板に書いてもらったところ、正解担当の二人の書いたものの、ほどよく誤答になっていて、なかなかこの方法は使えるかもしれないと感じる。
 また次の時間も一つくらいやってみようと思う。
 出題者の気持ちもわかってくるかもしれない。

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不健全な私

2010年11月11日 | 日々のあれこれ

 罰せられることを覚悟の上で、自ら正しいと信じた行いをすることを国語的には義挙と言う。
 翌朝早いのがわかっていながら深酒してしまうことを愚挙と言い、お酒を呑まない人を下戸と言う(クスっともできないですか … )。
 仙谷官房長官が「(ビデオを流失させた職員に)しかるべき処置をしてもらいたい、という健全な国民が圧倒的多数だと私は信じている」と語ってらっしゃる記者会見を昨夜観た。
 権力をお持ちになる方が、自分の考えに従わない下々の者を不健全と言い切ることを、国語的には「恫喝」と言う。わるかったね。不健全で。

「好きか嫌いかは自分が決める。いいか悪いかは社会が決める。正しいか正しくないかは歴史が決める。」
 野口芳宏先生に教わった言葉だ。
 健全か不健全かは、顔つきが決めるような気がするのだが、どうだろう。となると、長官の顔はずいぶん不健全に見えるのだが。

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いじめ

2010年11月10日 | 日々のあれこれ

 群馬県の小学生がいじめを苦にして自ら命の断つという痛ましい事件があった。
 伝わってくる情報から類推するに、学級崩壊状態だったようで、だからこそいじめも歯止めがなくなってしまうのだけど、大人の側にはやれることはあったと思わざるを得ない。
 ただし残念ながら、いったん無法地帯になってしまえば、担任にできることはない。
 いや、正しい方法を外部に学び、学校や家庭と協力しながら立て直そうという強い意志をもてれば、可能性はある。
 でも、ふつうはそういう境地に達することができないから崩壊してしまうとも言える。
 崩壊そのものはどの学校にも起こりうることだ。
 学級崩壊をさせないための方法を大学では学ばないままに、みな教員になるのだから、担任の先生だけをせめることはできない。
 担任が問題を抱え込むことが最も危険で、今回はその例だったのではないか。
 今回のように学校があてにならなさそうなことがかいま見えた段階で、親御さんにもやるべきことがあったのではないかとも悔やまれる。
 転校するとか、休ませるとか。
 いじめられた側が学校に行けないのはおかしい、いじめる側を出席停止にすべきだという感覚をもたれる方も多いだろうが、それは現実的に難しい。
 いじめをさらにひどくさせる危険もある。
 亡くなった女の子の親御さんは、なんとかがんばってほしいと思いで学校に行かせてたのかもしれない。
 いじめに負けない心をもつことは、理想としては大事だ。でも、学校なんて命の危険をおかしてまで行くところじゃない。
 ひとたび心のたががはずれた集団は、大人が何を言ったところで改心したりはしない。
 よほどの強い力が働かないかぎり、いじめをやめない。
 それは決してその小学校のそのクラスの子たちがひどい人間だったということではなく、誰もがそうなりうるということだ。
 だから、学校はきちんとした管理しなければならないのだ。
 いじめの芽を初期につぶせるような指導と管理の空間がないといけない。
 自由にすごせる場所、のびのび遊べる場所なんかであってはいけない。
 事件のあと、文科省が実態調査にのりだし、学校はぜったい再発させないと陳謝する。
 もう、どうでもいいよね、そんな対応。

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蛍光ペン

2010年11月09日 | 日々のあれこれ

 スコアの勉強に蛍光マーカーが必需品だ。
 メロディーはピンクに塗り、対旋律は黄色で塗る、というようにビジュアルでわかりやすくしないと、どっちを向いて指揮していいかわからなくなる。
 「千と千尋」のスコアに塗ってたら、マーカーがのきなみかすれてきたので、セキチューに買いにいって驚いた。
 蛍光マーカーも、いまノック式になってるんですね。
 これは使いやすい。ふたもなくならない。
 今頃気づくなんて、という状態なのだろう。
 勉強が足りなかったな。

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日曜版

2010年11月07日 | 日々のあれこれ

 日曜版で、毎日の「銀婚式」と同じくらい楽しみにしてるのは、朝日の「仕事力」というエッセイだ。
 そうそうたる方々が4週ずつ担当するが、いまは西原理恵子氏が「男も女も一生稼ごう」というタイトルで書かれている(バックナンバーも含めて朝日新聞のサイトで読めます)。
 前々回の一節。

 ~  お金がないことのつらさや惨めさは、いくら口で説明しても実感できないことではありますが、若くして仕事に情熱が持てないと言ったり、リストラの危機にある人々が愚痴ったり、社会に文句を言うばかりの様子を見ていると、「自分で稼いで生きていく」ことをなめているとしか思えません。
 「自分のやりたい仕事にめぐり合わない」とか、「自分の本当の力を分かってもらえない」なんて本気で思っているのなら、私は笑いますよ。その前に、たとえ1円でも自分の仕事に対して払ってもらえることは何かと考えるべきですよね。それは天から降ってくるわけではなく、「私の力でいただける仕事ならやらせてください」というものでしょ。 ~

 貧しい子供時代を過ごした西原氏は、わずかなお金のことで人間が優しさや思いやりや希望を失っていく様を身にしみて知っているという。
 だから今は貧乏にもどりたくない一心でとにかく働いているのだと。

 そして、今日の一節。

 ~ 仕事ってリアルな目的を持ったものです。自分を食べさせ、家族を養い、貧しさからくる苦しみや怒りに縛られないで自由に生きていくためのもの。でも、その中にきちんと「できるようになっていく」楽しさや喜びが詰まっている。働くこと、働き続けることが、まるで自家発電みたいに明るく人生を照らすし、頑張るためのエンジンになる。だから、自分で稼げる仕事をまず始めることが大事なんです。
 「自分探し」という、人を惑わせる言葉がありますね。そして「やりがい」を見つけようと諭す。それって冗談じゃないと私は思います。みんなのために、地域のために、社会のためにというあやふやなモチベーションが、人間を本気で仕事に向かわせられると思いますか。大人やマスコミは、若い人をきれいな言葉でだましちゃいけないですよ。  ~

 これは、いつか学年だよりネタにしたいと思った。
 日本の若者が「やりたいこと探し」「自分探し」思想をもつのは、たとえば中国の若者が教育によって反日感情をもたされていくのと、構造は同じだと思う。

 今日の一節で、

 ~ 家庭を持ち、子どもを育てて働こうとする人を周囲は平等に助けるべきだと思います。働く女性は何もかも背負わされ、ものすごく忙しい。それなのにスーパーのお総菜を買うと、「食育上よろしくない」などと責めるでしょ。ふざけてはいけませんよ、そんなことで追い込まないであげてください。子供が熱を出したら、父親が会社を休める世の中に早くなることを願っています。  ~

 というところも、そうなんだよねと思う。キャラ的に「ふざけてはいけませんよ」なんて言う西原氏には違和感があるので、「ふざけんじゃねーよ!」とふつうに書いてくれればいい。
 それにスーパーのお総菜は、レベルの高いお店のそれは、かなりハイレベルだ。
 ヤオコーで半額になったばかりの時間帯に行ったなら、自分でつくる必要がどこにある? と思われるくらいだし。

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慈恵

2010年11月06日 | 日々のあれこれ

 漢文の授業で読んでいる「韓非子」の一節。

 ~ 魏の恵王が卜皮(ぼくひ)に訪ねた。
「そなたは、わしの評判をどのように聞いているか」と。
卜皮はお答えする。「王はたいへん慈恵であると人々は言っています」。
王は思わず破顔した。「そうか。では私の功績はどうなろうかな」
卜皮は答える。「王の功によって、国は亡びます」。
「待て。慈恵は善なる行いではないか。そのために亡ぶとは、いったいどういうことだ。」
卜皮は言う。「王さま、慈者は、人をかわいそうに思い、恵者は人に与えることを好みます。かわいそうに思う心が強いと、過ちを見かけても罰しません。与えることを好む者は、功のない者を賞してしまいます。過ちが有るのに罰せず、功が無い者に与える、この有り様を、亡ぶと言って悪いでしょうか」と。~
 
 これほど今の我が国を言い当てた文章を読むとは思わなかった。
 内閣の問題なのか、民主党の問題なのか、またはそれをいいようにあやつるお役人さんの問題なのか、凍結されたとばかり思っていた公共事業はどんどん行われてるし、八ツ場ダムもはっきりしないし、朝鮮学校の高校授業無償化も決まったというし、まさに慈愛の心と恵む心にあふれた、すばらしい日本国に生きているなあと感じる日々だ。
 一つ言いたいのは、朝鮮学校の無償化を認めるなら、最低限、日本の教科書を使って世界史Aは学んでほしい。
 世界史の未履修問題のとき、私立高校と公立高校をいっしょくたに議論してほしくないと思っていた。私立のカリキュラムには、文科省が決めた必修科目もふくめて裁量が認められていいと思ったし、実際の東京都の私立中高協会がそのように堂々と主張されていた。
 しかし、現実には私立高校も県立と同じように補習を行う形で対応したのは、お上のもつ私学助成金という大きな足かせがあったからだ。
 私立には裁量があってしかるべきだと思いながら、一方で納得もできるのは、莫大な公のお金をいただいているということ、つまりお国に役立つ若者の育成という目的にしたがった学校教育機関の一つであるからだ。
 しかし、今回の無償化を決める基準では、その教育内容は問わないという。
 そんなのってある? 未履修を批判した方々は、今回の決定をどう考えるのだろう。
 教育内容を問われないなら、セクハラサイコロとかやったって、別に問題ない … わけはないですね。
 

  

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笑コラ2

2010年11月05日 | 日々のあれこれ
 「おいしいもの食べてても最後にへんなものが口にはいってきたら、ぺっってなるでしょ」
 だからフレーズの最後はきれいにきりなさい、という屋比久先生のご指導はわかりやすかった。
 近いうち使ってみよう。
 ていうか、まず何が何だかわからないものを食べさせちゃだめというところからかな。
 昨日帰りに観た「雷桜」は、最初から何味なんだろ? という感じの作品だった。
 見た目は日本そば風なのに、だしはとれてない黒っぽい汁にときどきケチャップらしきものが混じっているみたいな。
 蒼井優さんというコシのある蕎麦や、どんな料理の薬味にもなれる柄本明さんとか出てらっしゃるのだが、ちょっ残念だ。岡田くんももっといい仕事できる人なんだけどなあ。
 
 
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笑コラ

2010年11月04日 | 日々のあれこれ
 録画を観ると、やはり顧問目線になってしまい、感動して泣いてるだけではいられない。
 市立船橋の先生。楽器経験のない49歳国語の先生というまるかぶりの存在はとくに。
 ヨサコイソーランの練習を明日からやろうとは思わないけど、なにか自分にできることをもっと遠慮せずやっていきたいという思いにあふれる。
 考えてみると、うちみたくほとんどが初心者ということは、何をやってもそれは変だからやめてくださいとは言われないということだ。しかもチャレンジャーなのだから、もっとあれこれやってみるべきだ。
 なんか言われてすぐ小さくへこんでるようでは、だめだ。
 「このやりかたで習志野や柏に勝ちたい」と言えるレベルにまでなれる自信はないが、いまのままのなかよしクラブではやはり物足りない。
 そんなことを思いつつ、月刊「致知」という雑誌で野村監督のお話をよみ、また少しへこんだ。わかってはいるのだが。でもやるしかないか。労働できる残り年数を考えたら、迷っているひまはない。
 
 ~ あと、これは強い、弱いに限らず、どのチームにも言えることですが、組織はリーダーの力量以上にはならない。これは当たっていると思います。 野村克也 ~

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にじの家ふれあい祭り

2010年11月03日 | 日々のあれこれ
 今年もお招きいただいた、にじの家ふれあい祭り。
 快晴の中で楽しく演奏させていただき、みなさまに喜んでいただけてるという実感があった。
 途中に「アブラハムの歌」を踊ってみるのは初めての企画だが、にじの家の方々がだんだん楽しそうになっていってように見えた。
 こういう機会はたぶん、コンクールや発表会以上に大切なのではないだろうか。
 こんなふうにダイレクトに聞いていただく方のためにやるという機会をもてることが、文化部の醍醐味でもある。
 1コーラス歌わせていただいた、アンコールの「勇気100%」は、歌詞がおぼえきれてよかった。
 昨日の夜時点では、車の中で何回歌っても途中でつっかえてしまってたのだ。
 なかなか車を降りられないなと思ってたら南古谷のふみきりを越えてしまったので、しかたなく「SP野望編」を鑑賞。
 なんだよ、90分使った予告編じゃないか、しょうがない次のも見るか、でもたぶん一本にまとめてくれてお値段相当だよなと思いながらの帰り道、さらに数回歌ってだいたい歌詞は入った。
 歌の1コーラス分なんて、昔はすぐに覚えられたのに。
 そのくせ中学生のときに覚えたような歌はいまだにするするでてくるのが不思議だ。
 今回の演奏はM8の曲(Jポップ)ばかりだったので、次は「千と千尋の神隠し」の世界をしっかりつくっていかねば。
 そのために、途中でとまっているDVDを観てしまいたいのだが、帰って「笑ってコラえて」も観なければ。
 いつも放送の翌日、何人かの先生から「吹奏楽の世界ってすごいね、昨日観た?」と尋ねられる。
 「いやあ、昨日は …(そんな時間に吹奏楽顧問が帰れないのはテレビ観ててもわかるでしょ)ちょっと観れなくて … 」と答えることになるので、今シリーズの最後らしい今日のはみておこうかなと。
  
 
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