学年だより「54年8ヶ月6日5時間32分20秒3(3)」
「駅伝」なるレースが、この大会をきっかけに日本中に広まる。マラソンよりも駅伝の方が多くのランナーを生み出すという金栗の目論見はあたった。
その後企てた「アメリカ大陸横断駅伝」は、さすがに実現しなかったものの、その予選会として開催した「箱根駅伝」は今も形を変えて受け継がれている。
こうして、さまざまな形で日本の長距離走の歴史を作り「マラソンの父」と称えられた彼の、唯一心残りはストックホルムオリンピックだった。
1967年(昭和42年)、思いがけない知らせがストックホルムから届く。オリンピック開催55周年行事に金栗を招待したいというのだ。
金栗は、完走できなかったオリンピックの後も、自分を介抱してくれた「ペトレ家」の人々に感謝の手紙を書き、交流を続けていた。また陸上競技への尽力も国際的に知られていたのだ。
「あなたはマラソン競技で行方不明になったままなので、ゴールしに来てください。」とも手紙には書かれていた。金栗は喜んでこの要請を受け現地に向かう。
~ オリンピック委員会では、スタジアムに正式のゴール・テープを用意していたようだ。そのときの写真がある。彼はレースからほぼ55年経って、やっとそのテープを切ったのだ。
そして会場にアナウンスが流された。
「日本の金栗四三選手、ただいまゴールインしました。タイム54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3」そして、さらにもう一言。
「これをもちまして、第5回ストックホルム・オリンピック大会の全日程を終了いたします」
拍手に包まれ「ゴール」したあとの金栗四三選手のコメントも残されている。彼はこういっているのであった。
「――長い道のりでした。その間に、孫が五人できました」
会場からは大きな笑声とさらに大きな拍手が沸いた。 (佐山和夫『箱根駅伝に賭けた夢 消えたオリンピック走者金栗四三がおこした奇跡』講談社) ~
金栗四三氏は、自らは走れなくなった後も、大会のスタート地点でピストルをうち続けた。
金栗選手の名を冠したレースは今も多数残り、箱根駅伝の最優秀選手には金栗賞が贈られている。
すべては、ストックホルムでの失敗から始まったのだ。
92歳でこの世を去った金栗氏は、人生のマラソンは見事に完走した。
人生全体をマラソンに喩えるなら、大学受験の一年間は、そのうちのほんの一部だ。
一日一日が小さなマラソンで、その積み重ねが人生のマラソンになる。
心が折れそうになったときは、金栗氏をモデルにした「グリコ」のゴールインマークを見て、また走り出そうではないか。