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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

今日

2012年07月31日 | 日々のあれこれ

 夜オリンピックを見てて朝起きてこない家族を尻目にシャワーをあびて家を出る。
 少し曇り空だ。木野目交差点の吉野屋で牛鍋丼と味噌汁(330円)を食べ、これで昼は食べなくてすむかなと思い会計しようとしてたらふらっと同僚が入ってきたが、気付かないようなのでこちらも声をかけなかった。
 学校につき、大講堂をあけて冷房をつけていると1年生がちらほらとやってくる。
 勝手に音出してていいよと告げ、今日分の講習プリントを代役をお願いした先生に渡し頭をさげ、朝の集合でみんなの顔をみてから、一足先に会場にむかうと、文化センターに着いた頃にはかんかん照りになっていた。
 駐車場の先生は大変だ。大変だけど、このところ毎年担当しているステージ係もけっこう気を遣うので、たまには外もやってみたいなと贅沢なことをふと考える。
 野球応援で体調不良の子がでて参加できなくなった学校さんがあったため、10分おくれでD部門が始まった。こういう本末転倒を強いられる高校の部活の現状を嘆いてみようかと思ったけどアツいのでやめた。
 越谷西さん70人の、ほんとにDメンバーですか? と尋ねたくなる演奏からはじまり、5番目に伊奈学園さんの「復興」を聞く。うばた先生の解釈がかいま見られ、伊奈学さんのサウンドが聴けて勉強になった。その後うばた先生と少しお話できたが、「7分におさめるのがきつかった、ほんとはもう少しゆっくりやりたい所もあった」とおっしゃっていた。さもありなんと思う。
 8分演奏できるうちは幸せだ。実際譜読みをすればするほど、ほんとはどこもカットできないことがわかってくる。もう一校、「復興」に取り組まれる学校の先生とも話せたが「保科先生にメールでこことここでいいですか? ってきいたら、そこはだめとの連絡をいただいた」という話も伺った。ご本人に聞いたならそういう返答も当然ともいえるだろう。一方で、コンクール用にカットバージョンの楽譜を積極的に用意されている作曲家の方もいらっしゃる。
 どちらが正しいというものでもないような気がする。
 たとえば自分が曲を書いたとし … 、いや想定もできないな。
 じゃ、お芝居の台本を書いたとし、90分の作品になったとする。
 これは長い、60分に縮めてくれたら上演してあげるよと言われたら、もうどんどんカットしてしまうな。
 書きあげて世に出そうとする以上、それをどううけとめられても仕方ない。
 書いた本人がもっとも思い入れのあるシーンであっても、読んだ人がそう感じなくて、この場面なしでいいよねと扱われるならそれはそれでしょうがないと思うのだ。
 それは書き手の力量の問題であり、作者の意図が何よりも優先されることのみが正しいわけではない。
 「自分の文章が入試問題になったので、解いてみたらまちがった」的なお話を述べる作家さんがたまにいる。そして、この問題はよくない、作者の意図が読めてないとその後につづく。
 そういう場合もあるだろう。
 ただ、問題を作る立場からは、「そういう意図が表現された文章にはなっていないとも考えられませんか」とも言いたい。
 えっと、何の話だっけ。そうだ、カット。
 自分がかりに作曲家だったら、カットしまくりでも、演奏してもらえるなら何でも受け入れる。
 だって演奏されなかったらナッシングだから。
 松山高校さんを聞いて「お互いがんばりましょう」との思いを抱きながら、そろそろトラックが着く頃と思い、駐車場へ向かうと灼熱になっていた。
 打楽器をおろしたあと、管楽器の方にもどり、集合場所にならぶ。
 チューニング、リハーサル、そして舞台袖。
 休憩時間直後の演奏順だったので、袖にいったときにはステージ配置は終わっていた。
 休憩終了のベルがなる。
 昌平高校のかわさき先生が「じゃ、どうぞ」という。
 「がんばれ。さくさく歩け!」といって1年生を送り出す。
 いい入場だ。いすに座ったたたずまいもばっちりだ。
 この姿勢でやっていけば、どんどんうまくなるのは間違いない。楽しみだ。

コメント (1)
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