快楽亭ブラック師匠の最近のブログに、上方の桂文我師匠へのライバル心が綿々とつづられていて、プロの噺家さん同士とはそんなに対抗意識を持つものなのかなと思う。
CDでしか知らないけど、文我師匠は達者な噺家さんだ。
あえて言えば上手なだけとも言えるので、人生そのものが業のかたまりであるようなブラック師匠の方が、個人的にはよほど魅力的だ。
立川流で言えば、今一番チケットがとれないのが談春師匠だが、ものすごく上手な方であることは認めるが、で何? と思ってしまうのだ。
上手な落語だったら、もっと名人のCDでも聞けばいいし的な感覚で。
わざわざライブで聞くとしたら、たんに上手なだけではなく志らく師匠のような狂気がかいま見える高座に触れたい。
家元の言う「業の肯定」が落語の神髄なら、理屈ではわりきれない人間の欲を笑いとともに示してくれるブラック師匠の高座は、いったんはまればやみつきになる人が多いのはなるほどと思う。
ただし、ブラック師匠の噺は紹介できない。その題名さえここに記すのがはばかられるものもある。
でも、今を生きる噺家さんなら、ただ古典を上手にやるのではなく、ここまでやったらどうだとも思う。
一般人にできない世界をみせてくれるのが、芸人さんの仕事だ。
ただし世間的には文我師匠の方がはるかに受け入れられている。
予備校で有名な先生の講義を聴かせてもらったとき、期待したほどではなかったという経験が皆無ではないが、やはり各校のトップにいらっしゃる先生のお力は圧倒的だった。
関谷先生しかり、土屋先生しかり。先日お話を聞いた霜先生もそうだが、一つ一つのお話の背後にある学識がなみたいていではない。
それがわかってしまうからか、このレベルの先生方に対する対抗意識はわいてこない。
世の中には優れた先生がいらっしゃるものだと思う。
自分の職場では歯が立たない人は皆無と思っているが、教育実習生が誰も見学に来ないところを見ると、そうでもないのが現実なのかもしれない。
授業中かなり気合いを入れて話していて、気がつくと、なんかおれって一人? と感じる瞬間が多々ある。
孤独。孤独とはたった一人でいることではなく、目の前にたくさん人がいるのに、心が通じ合わないことだ。
実習生が見に来ないので、こっちから見にいって指導教官でもないのに、指導しまくろうかな。
と本部OBのさかもと君の授業をのぞきにいってみたりした。
彼はぜんぜん大丈夫だった。