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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

勝負やけ

2011年04月13日 | 日々のあれこれ

 昨夜のあんかけ焼きそばの具を少し残しておいて春巻きの皮につつむ。
 3年保護者の方々との懇親会で食した、ハムとチーズとお餅の入った春巻きがおしかったので、ハムとチーズを包んでそれも揚げてみた。
 焼きたらことジャガイモをあえたもの、卵焼き、ほうれん草のおひたし。
 この3品が並ぶと彩りがいい。これが今日のお弁当。
 しかし、久しぶりの授業で、4コマあり、どれも予習が万全とは言い難かったので、空き時間、休み時間も予習し続け、落ち着いて食べられなかったのは少し残念だ。
 授業のあと、ぐったりきたので、「進路」のプリントに求められた原稿は、昔書いたのを手直しして載せてもらうことにした。
 まだ今週は先が長いし。


「進路」3年1号の原稿

 センター試験を迎えるころ、一般入試のころ、そして卒業式の時期にもなると、ずいぶん顔がしまってきたなあと感じる生徒を見かけるようになるものだ。
 一方で、幼い顔立ちのまま卒業していったなあ、と思う生徒さんも正直言えばいる。
 もちろんそれらは主観的な判断にすぎないが、内面の変化や経験の質によって顔つきが微妙に変化するのは間違いないと思う。
 大人も同じだ。
 高い学識をもっていそうな方だとか、苦労を乗り越えられた方だとか、なんとなく見た目で伝わってくる方はいるし、もちろん逆の例もある。
 わかりやすいのは、部活の最後の試合で、たとえ負けたにしてもやりきったという顔をしていた先輩の姿を思い描くといい。
 物理的にイケメンではなくても、なんかかっこいい先輩っていなかったか。
 顔は変わる。
 内面の変化、そしてそれを生み出す経験の積み重ねによって、顔はつくられていく。
 ではいい顔になるにはどうしたらいいか。
 何事にもあきらめない姿勢を持つことではないだろうか。
「いざとなったら逃げる人」というのは、やはり顔に出てしまうと思われる。
 そういえば、社会的地位が高いにもかかわらず、いざとなったら逃げる人、自分のせいではないとだけ言いたがる人を、最近はよく見かけるような気がする。
 渡部昇一氏はこう述べている。

  ~ 私たちはなんらかの壁にぶつかると、それが自分の手に負えそうもないとき、たちまち無条件降伏し、やりたいことを「諦める理由」を探し始めるものである。「諦める理由」を探す情熱をやりたいことに注げばどんなに人生は好転していくかと私は考えるのであるが、とかく人は「できない理由」をつけて挑戦することをやめるのである。べつにこの程度でいいやと変に納得してしまう。あとは何とも煮え切らない人生が待っているだけであるというのに。
 どんな仕事、職業であれ、一流の域に達した「品格ある人」に共通しているのは、少々困難であっても、簡単には投げ出さないことである。
 「できない理由」など探し始めたらきりがない。そこをグッと押さえて、やるための意義を見つけていくことが人生の醍醐味なのである。
 品格は形に現れる。「四十過ぎたら自分の顔に責任を持て」とは、リンカーンの言葉だが、まさにこのこと。諦めず、いかなる心構えで毎日を過ごすか。そして自分のやりたいことを突き詰め、それを「一芸に秀でる」レベルまで押し上げると、具体的に「品格ある」顔立ちになっていく。
 今はちょっと難しく、すぐに実現できずとも、「いつか必ず自分にはやれる」という気持ちを持って、「やるための理由」を掲げて努力を絶やさず、それがいつしか品格となって顔に現れたような人には、必ず天の一角から、“助けのロープ”が下りてくるものである。(渡部昇一『自分の品格』三笠書房) ~ 

 精一杯やったのだからこんなものでいいかなと納得する前に、ほんとうにそれが自分の精一杯なのかを立ち止まってみるといい。
 人は、身体的限界の少し手前で精神的限界を感じるように設定されている。
 このへんかなというレベルの先に、もうひとふんばりは出来るようになっているのだ。
 この時期は、部活と勉強の両立に悩み始めたり、目標を下げようかなと考え始めたりする人が増える。
 しかし、本当に一杯一杯でどうしようもないくらいにやっている人と言える人は、はっきり言って、今の3年にはそんなにはいないと思う。
 みなさんはまだまだやれる。やらねばならぬ。
 数ヶ月後、勝負焼けしたいい顔で卒業していこうではないか。

 

 

 

コメント
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