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水持先生の顧問日誌

我が部の顧問、水持先生による日誌です。

レディージョーカー

2010年04月16日 | おすすめの本・CD
 『レディージョーカー』が文庫になったので読み直してみて、こういう作品が日本の文学に不足しているなとしみじみ思った。
 文学と言われて一般に思い起こされる作品、教科書に載っているような作品ということになろうが、その手のものは実に狭い。
 何が狭いって、描かれている世界が実に狭い。
 たとえば、高1で読む「羅生門」は、羅生門の楼の階下と階上だけがその舞台だ。
 高2で読む長編の「こころ」も、主人公の下宿を中心とした飯田橋、御茶ノ水、本郷界隈だけ。
 なんだ空間的な狭さだけを言っているのか、物理的に狭くても、中身が深いならいいではないかと思われるかもしれない。
 でも、空間的に狭いと、やはり主人公の社会認識も狭く、精神的に幼いままになってしまうのだ。
 だって「こころ」の主人公なんて、どうですか。
 自分が好きだったお嬢さんを、友人が「おれも好きだ」って言い始めたから、どうしようかって思い悩んで、抜け駆けしてそのお嬢さんを手に入れようかどうしようかと悩む。
 中学生かっつうの。もちろん、客観的に見れば何でもないことをぐだぐだ思い悩む描写こそが文学の真骨頂でもあるとも言える。
 日本の文学の中心はそこにあった。でも、それがすべてではいけないと思うのだ。

 さらに文学教育という話になると、教える側、つまりわれわれ教員の世界がまた狭いので、文学の味わい方の狭さに拍車がかかる。
 だから、たとえば「盗人になるか飢え死にするか」なんていう二者択一自体の不可解さに誰も疑問をいだかずに、「下人の心情をどう思うか」なんて聞いてしまうのだ。
 他の選択肢を模索すべきであろう。ハローワーク行くとか、逆にそのへんの草を喰ってみるとか。
 老婆の着物をはぎ取るなんてのは悪事でもなんでもない。
 大企業を陥れて20億せしめてみればいいではないか。

 『レディージョーカー』は、「レディージョーカー」を名乗る犯人グループが、日之出麦酒という大企業を相手におこした企業テロを素材にして、犯人たち、日之出麦酒の幹部たちとその家族、企業の背後にある裏社会の人々や、報道機関の人々、そしてそれを追う警察の姿を描く。
 たとえば、犯人の一人に物井清三というおじいちゃんがいる。
 その人がなぜ犯罪に関わることになったかは、戦後すぐの労働争議と、その際の差別の問題から描かれることになる。
 登場人物のすべてをそのように説明するわけではないが、一人として人生を感じさせない存在はない。つまり、Aさんがこういう行動をとったのには、こんな人生をおくってきてその結果だというものを感じさせる。
 犯人グループを構成するのは、老人、障害のある娘をもつ元自衛隊員、在日の人、そしてある警官。 こういう人の人生を描くということ自体、今の日本の社会に潜む様々な問題から一歩も逃げないという作者の姿勢をひしひしと感じるではないか。
 ずいぶん前に高村薫氏が、「私はミステリーを書いているつもりはない」と言って物議をかもしたことがあったが、読み直してみて、なるほどそのとおりだと納得する。
 たとえば東野圭吾作品ではこういうトリックがあって、一方高村薫は、なんて同次元で扱われたなら、さすがにかわいそうだ。

 ちなみに日本の現代文学における三大長編は、井上ひさし『吉里吉里人』、高村薫『レディージョーカー』、村上春樹『1Q84』の三作品である(て、決めたから)。
 もう『暗夜行路』とか『こころ』とか読む必要ないでしょ(仕事なので読むけど)。
 たとえば、大学でこういうの(三大長編)をテキストにした授業があったら受けてみたいものだ。
 さて、そのうちの一つの続きがでましたね。

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