我々は日常的に図を多用しております。たとえば相手にとって未知の場所への行き方を説明する時には簡単な地図を描きますし、ある装置の構造について説明する時には略図を描きます。図が無ければ、言葉を連ねて説明しなくてはならず時間がかかりますし、またその説明内容を相手が正確に把握してくれたかどうか、言葉だけで確認するのは容易なことではありません。
以前、広辞苑について「文章だけですべてを説明しているからスゴイ」と書きましたが、これはほんとにスゴイことだと思います。
西アフリカで仕事をしていたことがあるのですが、あちらは語り部文化の土地。誰も図なんて使わないんです。更に言ってしまえば文字も使わない。これは伝統的なことらしく、遺跡などにも何も文字らしきものは残ってないらしい。何も書き残すことなく、しかし太古の昔から今まで文化が継続しているということは、これはこれでとても偉大なことのような気がします。
我々日本人は視覚的に表現する。これは伝統であり、また教育の過程においても強化された習慣だと思います。小学生の頃、算数の記述問題も図に描いて考えたりしましたよね。
そういう習慣がない西アフリカのヒトタチは言葉による説明を試みる。
例えばある農学実験について説明する時、実験田の見取り図を描いて各処理などの情報を書き込んでいけばそれこそ一目瞭然なのに、全部話し言葉で説明するんです。つまり、区画面積や施す肥料の種類や量、施肥時期など、延々とシャベクリで説明していく。とてもじゃないけど覚えていられない。でも一緒に聞いていた他のスタッフ(アフリカ人)は、みんな理解しているみたいなんです。ちゃんと覚えている。覚えていないのは私だけでした。聞いていたくせに、何で理解できないの? なんて不思議がられたりもしました。ただ、彼らの言う「理解」は「記憶」と同じ意味なんですが。
伝統的な文字が無い西アフリカの無文字社会では、暗記こそが知識の蓄積となります。暗記できる人がインテリ。
そのせいでしょうか、紙を大事にしません。我々日本人なら絶対にとっておいて無駄にしないであろう書き損じの紙など、あっさり捨ててしまいます。躊躇することなく。
アンタらさぁ、特に裕福でもないんだからとっときなさいよ、その書き損じ。まだ使えるでしょう? と諭すように言っても無駄。理解してくれません。ずーっと昔っから紙の重要度低かったんですから。
紙を無駄にできない日本人の私は、今日もせっせとアフリカ人の書き損じを拾って綴じてメモ帳つくり。