父が実家近くのホスピスに入所しました。
今までお世話になっていた老人ホームでは面会は月に2回だけで、外出なんてもってのほか。ですがホスピスにはそういった制限が無く、ほぼいつでも会いに行けます。そして完全看護なので基本的に家族のサポートは必要ないのですが、私の場合、海外生活が長くて今までまともに親孝行をしてこなかった負い目があり、少しでも累積赤字を減らしておきたい気持ちから、実家に寝泊まりして主に食事のサポートのために毎日通っています。
実家周辺は再開発により幼少期と比べて大きく様変わりしており、少年時代に走り回っていた同じ道を徒歩徒歩とホスピスに向かう、老年に入った我が身であります。数十年間の留守中に樹高が高くなった街路樹を見上げながら歩き、着いたホスピスではやけに小さくなってしまった老父の口元に粥の匙を運ぶ。時間は流れるものだ、と、ごく当たり前のことに感慨を深めたりしています。
ところで「恥ずかしいか青春は」は一年ほど前に「緑黄色社会」が発表した楽曲です。強い説得力が感じられる歌声で、聴き手を圧倒する濃密な歌詞が短距離走のように熱く歌われます。
先日たまたま耳にして以来、私の心の深い場所に突き刺さり、抜けなくなってしまいました。ホスピスに通う道を歩きながら繰り返し聴いています。
歌いだしの背後で鳴るバスドラが、スタートラインに着くスプリンターの高まる心臓の鼓動のようで、また、外部からの意見を「うるさい! 僕らにとってはこれこそが正解なんだ!」と切り捨てるところでは、バックに入る手拍子がスタジアムに響く声援のようにも聞こえます。
「青春を未熟だと馬鹿にするな! 全力で取り組んでる者を笑うな!」と叫ぶように歌われるサビでは、いつの時代も真面目で健気だけど生意気で不敵な若者の精悍さが見え、大きく感動してしまう。人生前半の異様に盛り上がる短期間を言い表す「青春」という言葉には、万人が通過するからこそ付きまとう独特の陳腐さがありますが、その陳腐さをも跳ね返す勢いが感じられるんです。
「有限だからこそ最高なんだ」と感じ、「あの時だからこそできた、というその状況を焦がれるように思い返す」のは、青春期に身を置く若者の心境ではなく、むしろ老人の域に達した者のそれに近い。長屋晴子という若い作者は彼女と同世代の若者に向けて歌を作り歌っているのでしょうけれど、そのフレーズは私のような高齢者の錆びついた心をもかき乱してくれる。
恥ずかしいか青春は。
熱心なファンではありませんが、この一曲だけを取り上げても緑黄色社会というバンドは尊敬に値する、とオジイチャンは思います。
ホスピスのベッドで過ごす父に、若い頃にやり残した夢ってある? と尋ねたところ、
「マッターホーンに登ってみたかった」
登山を趣味にしていた若き父の青春。ああ、人生が二度あれば。
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