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Weekend Strummer

ウィークエンド・ストラマー。
世間知らずのオジサンが脈絡無く語る、ギター・アフリカ・自閉症。

あどけない君の笑顔に

2009-10-31 16:59:41 | 自閉症
親バカ全開で書いてしまいますが、自閉症児の我が娘は知的に幼いせいかとても可愛い。無邪気な笑顔は100万ドル。彼女に笑顔を向けられると、こちらも無条件で笑顔になってしまう、という凄いスマイルです。

以前、クルマを運転中にスピード違反で白バイに停車を命じられことがありました。
免許証の提示を求める警官の表情は非常に厳しいものでありましたが、助手席の娘のニコニコ顔を見た途端に破顔一笑。なぜかそのまま無罪放免してくれた、というほどの威力を持つ笑顔なのです。

更に機嫌が良いときは頭を振ります。嫌々をするように顔を横に振るのではなく、首を支点にして頭を右に倒し左に倒し、メトロノームが拍子を取るように笑顔でカッチコッチ。
こちらと視線を合わせて無邪気な笑顔で頭を振られると、とても楽しそうで、ついこちらも同じ動作をしてしまいます。ニコニコしながら二人でカッチコッチ。連動する親子メトロノーム。
自宅でやっている分にはかまわないのですが、時に外出先で二人の世界に入り込んでカッチコッチしてしまうことがあり、周りの好奇の視線に気づいた時のバツの悪さ。
赤面する親メトロノーム。
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ドラキュラ・プリン

2009-10-25 03:50:48 | ラオス

職場でちょっと改まった酒宴を催す際には、豚やヤギなどを市場で購入し、調理します。もちろん生きたまま買ってくるので、自分たちで殺して肉を分けるところから始めます。

暴れないように数人で押さえつけ、首と胴の境の辺りに動脈の位置を探ります。検討をつけた場所にナイフを刺し入れて動脈を切断すると、当然のことながら血液が盛大に出てきます。肉や内臓だけでなく、この血も料理の一品になるので、こぼさぬように鍋などに受けます。
血液にまだ温度が残っているうちに塩・粒コショウ・唐辛子などの調味料を混ぜ、そこに水を注ぎ、よく混ぜます。
血液ですから凝固しますが、水で薄めてあるのでカチカチに固まることなく、柔らかめのプディングになるんです。血のプリン。最後に、ネギや香草などの薬味と炒ったピーナツを振りかけるように加えて出来上がり。
これ、熱処理をしていないナマの血液です。正直、食べるのには抵抗があるのですが、ラオス人の同僚はみんなおいしそうに食べている。食いしん坊の私は興味津々。
ヒトクチだけ食べてみよう。
プリンは非常にスムースで、舌に良く馴染む。血液なんだから当然と言えば当然か。
舌の上で、文字通りとろけるような食感、というか、口に含んだ途端に形が無くなるような危うさ。刺激の強い薬味のおかげか生臭くもなく、味も食感も全然抵抗なく受け入れられる。

おいしいね、と笑顔を作るみんなの口が赤い。今夜はドラキュラ・パーティ。

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大勢での食事はなぜおいしいのか?

2009-10-24 13:02:52 | その他
漫才コンビには役割があって、ボケとツッコミと称されます。
ボケが一般常識とは外れる変なことを言い、ツッコミが観客の代弁者としてボケの言動を正す。
ツッコミがあるがゆえに我々観客も「笑いどころ」を確認できて、安心して笑うことが出来る。ギャグをギャグとして認識できるため、わかりやすい。
アメリカのコメディ・ドラマなどでも、笑いどころには別録りの拍手や笑い声をかぶせたりして、笑いを誘います。
他の人が笑っていると安心して笑うことが出来る。どうも、我々はそれがおかしいか否かを自分の感覚だけでなく、同じ対象を他人が笑うことでも確認しているようです。

さて、大勢で摂る食事はおいしい、とよく言われます。
考えてみれば不思議です。同じものを食べているのに、孤独に食べている時と大勢で食べている時では味が違うなんて。もちろん、これは食べ物の味が異なるのではなく、友人たちに囲まれている時は雰囲気が良くて、それが味覚の感じ方にも反映するのだろうと想像できます。
それともうひとつ。
大勢での食事はそれがおいしいことを確認しやすいのではないか。
同じ食卓に着き、同じものを一緒に食べている誰かが「これ、おいしいねー」、といえば、お、これをおいしいと感じるのは自分だけじゃないんだ、と安心しておいしいと感じることが出来る。言わば、ツッコミによる「おいしさ」の裏付け。

「おいしい」と口に出して言うことで、個人のおいしさがみんなのおいしさとなり、それを確認し合うことで仲間としての連帯感も更に増す。食卓の雰囲気が盛り上がり、食べ物の味の良さのせいだけでなく、「場」の楽しさが高まってゆく。

現代における「同じ釜の飯を食う」関係というのは、こういうことかもしれません。
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感謝の重みと言葉の軽さ

2009-10-18 11:41:15 | ラオス

日本語の「ありがとう」という言葉には、かなり重い語感があるように思えます。
「が」という濁音が真ん中にあるせいかもしれません。感謝の意を強調するために「どうも」を頭に付け、更に丁寧さを加えるために「ございます」を語尾に持ってくると、
「どうもありがとうございます」
ど・が・ご・ざ、と濁音が4つに増え、語感の重い印象も増し、口にすれば自然と頭が垂れるような気分。うまくできています。

ラオス語で感謝を表す言葉は「コプチャイ」といいます。
語感がすごく軽くありませんか? 試しに発音してみてください、「コプチャイ」と。
ね? 軽いでしょ?
もっと感謝を強調すれば少しは重みが感じられるかも知れない。英語の「very much」に相当する言葉を語尾に付けます。

「コプチャイ・ライラーイ」

・・・なんか軽さが倍増したような気がする。
こんな言葉で本当に感謝を表明できるのだろうか? 馬鹿にしてると勘違いされそう。
こうなったら、態度で示そう。頭を下げればこちらの真摯な気持ちが伝わるかも。コプチャイと言いつつお辞儀。
・・・なんだか「ごめんちゃい」と言っているようで、これも逆効果。

こちらとしては心底ありがたく思っているのに、コプチャイという軽い言葉で感謝を表さなければならないフラストレーション。私の感謝はこんなに軽いものではないのだ!と憤りさえも感じます。
最近は感謝を伝える時にはコプチャイだけでなく、「サンキュー」とか「ありがとう」とか、状況と気分に応じて付け加えることにしています。大抵ものすごく長くなっちゃうんだけど。

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ジョン・デンバー

2009-10-12 18:18:40 | ギター
私がギターを始めたそもそものきっかけとなったのは、ジョン・デンバーというアメリカの歌手でした。
中学生の時にジーンズのTVコマーシャルで使われていた「太陽を背に受けて」という彼の曲を初めて聞き、聞いた瞬間から気に入ってしまったのです。
ゆったりとしたテンポで確実に歩を進めていくように力強く響くギターのアルペジオをバックに、少々甲高く聞こえるけれど低音が丸く柔らかい歌声がからんでゆく。
その曲をコピーすること(原曲どおりに弾き、歌うこと)が当時の私の一大目標となりました。

その曲だけ弾き語りが出来るようになれたら、もうそれで満足。ギターに関してはそれ以上は何も望まない。という、極めて刹那的な気持ちで始めたのですが、刹那的とは言い方を変えれば短期間ながらも情熱的であるということです。本来ならば高校受験に注がれるべき中3のエネルギーを、私はギターのコード習得のために浪費していたのでありました。
その甲斐あって「太陽を背に受けて」を自分なりにマスターすることができました。目標を達成したあともジョン・デンバーのLPを毎日聞き続け、その結果、さすがに数年後には飽きてしまいました。
でもギターはずっと弾き続けています。たいした腕ではありませんが、私がギターをとりあえず弾けるようになったのはジョン・デンバーのおかげです。

1997年10月12日。ジョン・デンバーは操縦中の飛行機が墜落して亡くなりました。
今日は彼の命日です。お世話になった方なので、今年も感謝をこめて冥福を祈ります。
合掌。
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