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Weekend Strummer

ウィークエンド・ストラマー。
世間知らずのオジサンが脈絡無く語る、ギター・アフリカ・自閉症。

ミンボーの女 (1992)

2013-03-26 03:23:00 | 映画の話

20年以上も前の映画です。1980年代から映画監督として有名になった故伊丹十三氏の作品。私は氏の一連の映画作品が大好きで、いまだに繰り返して観ています。

この映画は、ヤクザの民事介入暴力を専門とする弁護士と、その弁護士のサポートを受けて成長していくホテルマンたちを描く作品。

ホテル・ヨーロッパはサミット会場の候補にもなる有名ホテルですが、その利用客に暴力団関係者が多いことが悩みのタネです。ホテルからヤクザを一掃すべく、ヤクザ担当者としての新ポストを押し付けられた経理担当の鈴木とベルボーイ・若杉の二人は、まったく気乗りがしないままヤクザと関わってゆくことになります。無防備に孤立する二人は脅され、たかられ、いじめられ、どんどん弱っていきます。この弱体コンビに加勢するのが弁護士・井上まひる。ヤクザ問題に携わるプロです。彼女の指導の下、物語の前半部分とは逆に二人はずんずん力をつけてゆき、当初は畏怖する存在でしかなかったヤクザたちと互角に渡り合うまでになります。

ラストシーンでは団体で押しかけた暴力団員に対して、成長したホテル・スタッフが全員で対峙します。本来はにこやかに利用客に接するはずのホテルマンたちの表情が、このラストシーンではことごとく暗く迫力のある表情になっており、このままヤクザ役とホテルマン役を入れ替えても物語は成立するのではないか、と思えるほどです。それに気づいたとき、監督の意図が解ったような気がしました。

この映画は「制服」の映画なんです。制服というのはとても便利で、着用すれば誰でも一応その役に見えてしまう衣装であります。ホテルマン役はホテルのユニフォームを着て登場し、ヤクザ役は肌に刺青ペイントを施した上にいかにもヤクザらしい服装をすることでヤクザを装う。

伊丹監督はこの映画で制服という衣装をとても効果的に使っており、登場人物が制服を着ているときはホテルマン、そうでないときは観客に近い立場、という、いわば映画内のルールを作り上げています。で、このルールを理解してしまうと、伊丹監督の演出意図がものすごくわかりやすくなるんです。

新ポストに就いた直後、本来はフロント係と同じブレザーを着用するはずであろう鈴木・若杉のヤクザ担当コンビは、なぜか自前らしきスーツを着ています。新ポストに就いたばかりでホテルの制服が間に合わない、という設定なのでしょうが、この設定が映画を観ている者に対して非常に効果的に働きます。つまり「ホテルの制服を着ていない」=「ホテルのスタッフではなく、より観客に近い存在」として印象付けられるのです。彼ら二人が応対しなくてはならないヤクザの持つ脅威が、ホテルに対してではなく、我々観客に直接降りかかってくるような効果を感じます。

この二人がホテルのブレザーを着用するのは、援軍である弁護士・井上まひるが登場した直後です。まひるの指導で成長してゆくのは鈴木や若杉という個人ではなくホテル全体なのです。

まひるが裁判所に仮処分を出してもらうべく奔走するシーンでは、若杉がホテルの制服の上にコートを着込んで同行します。制服を隠すことで若杉は再び観客寄りの、極端に言えば「映画に参加する観客代表」という立場になり、まひるによる道中のレクチャーが観客の耳に直接届きます。

その後の鉄砲玉による襲撃シーンでも若杉はまだコートを着ております。まひるが刺されたあと、ヤクザと格闘する若杉をホテル側ではなく観客に近い位置に置くことで、あたかも観ている我々がヤクザをぶっとばしているかのように感じさせ、観客のカタルシスを満足させる。観客を満足させたあと、とどめのボディブローを食らったヤクザがスローモーションで崩れ落ちてゆきます。若杉のコートが乱れてホテルの制服(胸のエンブレム)が見え、この暴力は私怨によるものではなく正義なのだ、と説明する。このシーン、いかに自然にはだけるコートを演出するかで、きっと何度も撮り直したに違いありません。

作品の随所にこだわりを感じさせる伊丹映画。今観ても極めて質の高いエンターテイメントだと思います。

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ピリピリ

2013-03-18 03:53:00 | その他

スワヒリ語で唐辛子のことを「ピリピリ(pilipili)」と言います。最後から二番目にアクセントがあるので、正確にはピリピーリとなりますが、日本人にとってこれほどわかりやすい単語はないでしょう。
南米原産である唐辛子はもともと観葉植物として世界に広まったんだそうです。緑の葉に赤い小さな実を着けるピリピリは、なるほど可愛い印象もありますが、その凶暴とも言える辛さを知った後では、うかつに「かわいい」とは言えないような気がします。

ところで、辛い味には習慣性が強いようです。辛味というのは味覚の中でも強烈で、強い辛味は味を感知する舌の味蕾(みらい)を麻痺させてしまうため、毎回同じ辛さではそのうちに辛味を感じなくなってしまい、食事のたびに前回を上回る辛さを求めるようになってしまう。
スリランカに3年間滞在した後に日本に帰国した時、それまで恋焦がれるように思い続けていた日本食をむさぼるように食べたのですが、あまりおいしくありませんでした。
スリランカでの食事はほぼ毎食、朝昼晩とカレーでした。いろんな食材を使ったいろんなカレーがあるのですが、味付けはすべて、当たり前だのカレー味。当然「辛味」がベースとなっております。辛くないカレーはカレーじゃありません。より辛い刺激的なカレーを3年間にわたって求め続け、辛のスパイラルとでも呼べそうな悪循環に陥ってしまった私の舌は、細やかな味を感じ分けることができないバカ舌になってしまったのだと思います。
スリランカから帰国後、日本でも常に粉末唐辛子の小瓶を持ち歩き、食べるものにはなんでもそれをかけてマッカッカにして食べるようになっていました。ピリピリ消費量がどんどん増してゆくのでお金がかかりますし、何より品がありません。これではイカン、と自覚して辛さを求めず食事をするようにしましたが、これはつらかった。何を食べても味がないように感じられ、食欲が湧かないんです。パンチにかけるボンヤリした味付けばかり。
味蕾の再生(回復)を自覚できたのはおよそ半年後です。普通の和食の味付けをようやくおいしいと思えるようになりました。
せっかく和食になじんだのに、その2年後、私は西アフリカのガーナに赴任して再びピリピリの洗礼を受け、ガーナからラオスに移動してからは毎食時に1~2本の生唐辛子を消費するようになり、現在滞在中のケニヤでは行きつけの食堂に自分専用のチリペッパーをボトルキープするまでになっております(毎回ランチを注文するたびに「ピリピリちょうだい」と頼んでいたら、食堂の女将が嫌がって「そんなにピリピリが欲しいなら自分で持ってきて」と言いやがったのです)。

そんな食生活になってもう12年。もう味なんて何にもわかんない。何でも辛けりゃそれでいい。

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ケニヤ総選挙 2013

2013-03-11 03:55:19 | ケニヤ

投票後五晩が過ぎて、ようやくケニヤ総選挙の開票結果が発表されました。

今回は、大統領・上院議員・下院議員・県知事・県議会議員・県女性代表が選ばれるという、まことに盛りだくさんの選挙でありましたが、特に注目すべきは大統領選でありました。

8人の大統領候補者のうち、特に有力だったのがウフル・ケニヤッタとライラ・オディンガ。この二人、それぞれケニヤ独立当時の大統領と副大統領の息子たちなのです。いわば建国の父が実生活の父親でもあったこの二人。今回の選挙は事実上二人の一騎打ちであり、また独立以来ライバルだった部族同士の争いでもありました。

ケニヤは1963年に独立しました。独立にはキクユ族とルオー族という当時の二大部族が活躍し、初代大統領にはキクユ族のジョモ・ケニヤッタ、副大統領にはルオー族のオギンガ・オディンガがそれぞれ就任しました。

部族間の関係を平和に保つため、キクユ・ルオー双方の部族出身者が交互に大統領を務めよう、という密約が交わされたと聞いたことがあります。ですが、土地所有権にかかわる法律に関して対立したことをきっかけに、キクユ側はルオーに対してかなり厳しい政治活動を行うことになります。副大統領のオディンガは逮捕・幽閉され、政治的に抹殺されてしまいました。

キクユに対するルオーの感情は、もちろん良いものであるはずがなく、その後、この二大部族は事あるごとに対立するようになります。しかし政権を握るキクユ族の方がやはり力が強く、他の部族の人々も味方につけ、結局長年にわたってルオー族は孤立した状態となったのです。

2007-2008年に行われた前回の大統領選挙では、キクユ族のキバキ候補とルオー族のライラ・オディンガ候補が白熱した選挙戦を繰り広げました。各地の集計所から寄せられる開票結果を見て、当選を確信したオディンガ陣営が勝利宣言をします。ですが一夜明けたその翌日、キバキ候補の得票数が上回り、そのまま当選してしまいます。その結果に納得できないオディンガ候補の支持者たち(その多くがルオー族)による、キクユ族に対する暴力行為が始まります。これが国内各地に広がり、死者数1000人以上に及ぶ大暴動に発展してしまいます。

友好国であったガーナの当時の大統領クフォー氏とアナン国連総長が仲介のために訪れ、この独立後ケニヤ最大の事件はようやく収拾したのですが、キクユ・ルオーの関係は当然のことながら友好化することなく、以前に増して大きなわだかまりとなったのでありました。

選挙に夢中になるのはどこの国でも同じだと思いますが、大統領の権力が強すぎるアフリカ諸国では、候補者やその周辺だけでなく、出身部族の人々全体が過剰に熱中してしまう傾向にあります。

ケニヤでは前回の混乱を教訓に、今まで強すぎた大統領の権力を縮小・分散させ、また前回の混乱の直接原因であった選挙結果の不透明性を改善するなど、今回は「公平で平和な選挙」を心がけるべく、国全体で努力したのだと思います。

開票結果ではウフル・ケニヤッタ候補が当選しました。実はこの候補者の支持者たちが複数個所で有権者登録をして重複して投票したため、有権者数よりも投票数が多くなっている選挙区がいくつかあるそうです。対立候補のオディンガ陣営が投票開始前からその事実を指摘していたにもかかわらず、選挙管理委員会による詳しい調査が行われることなく、投票が開始されてしまいました。開票後、オディンガ陣営があまり執拗な追及をしなくなったのは、違反登録者数よりも得票数の方がはるかに多くなってしまったからなのでしょう。

また、新大統領となるウフル・ケニヤッタ氏は、前回選挙の暴力行為にかかわっていた容疑で国際刑事裁判所から訴追されております。7月に行われる予定の本審で、もし有罪となった場合、果たして素直に刑に服するのか、それとも大統領の権威を利用して有罪判決から逃れようとするのか、今後も注目すべきです。

重複して有権者登録したり、裁判所から容疑をかけられている候補者に投票したり、まだまだあまりクリーンな印象は持てないケニヤの選挙ですが、これがこの国の人々が選らんだ結果であるならば、特に反対するつもりはないオジサンであります。

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強盗の話 その3

2013-03-03 20:58:09 | ケニヤ

ケニヤの強盗の話、続編です。

隣家に住んでいたオバチャンは、実は私が借りている家の大家さん宅で働くお手伝いさんで、日頃から「掃除や洗濯ならやってあげるから」と声をかけてくれる親切なヒトでした。ありがたい申し出は、せっかくだけど自分のことは自分でするから、とご辞退申し上げていたのですが、それでも毎朝ウチに来てくれて、私のキッチンで紅茶の準備をしてくれて、私に勧める前に自分で飲んで、飲み終わると「あとは勝手にやんなね」とご帰宅なさる肝っ玉母さんでありました。

その彼女の怒鳴り声が破れかけたドアの隙間から聞こえていました。

「ちょっとアンタ! このドアどうしたんだ? 無事なのか? 無事ならここを開けなさい!」

寝ぼけ眼の私がドアを開けて、実はカクカクシカジカである、と昨夜の顛末を説明すると、すぐに外に飛び出してメガホンのようにした両手を口元にあてがい、

「オーイみんなー! ムズングが襲われたわよー!」

ムズングとはスワヒリ語で「白いヒト」。日本人社会では日焼けが目立つ黒いヒトである私も、ここではムズングであります。

集まってきたご近所衆がドアから顔をのぞかせて室内を観察するなか、この事件はアタシが最初に見つけたんだからね、と主張するかのように部屋の中央に仁王立ちになったオバチャンが、先ほどの私の説明にところどころ勝手に自分の脚色を交えつつ、説明しています。聞いていると、やっぱり昨夜の騒ぎを知っていたみたい。私の大声や他の騒音が聞こえていたようです。ま、こっちは他人だし、オバチャンは女性だし、わざわざ身の危険を冒してまで助けようとは思わないよね。しょうがない。

騒ぎを聞きつけた大家さんも来てくれて、一緒に警察に報告に行ってくれました。二度とこういうことが起こらないように毎晩パトロールしてね、とお願いし、更に夜警も紹介してもらいました。壊れたドアは大家さんが手配してくれた大工が直してくれました。ポパイのようになった私の腕も数日で元通りになりました。

やれやれ、これで一安心、と言いたいところですが、警察によるパトロールは結局一度も実現せず、また雇った夜警はとんでもない酒飲みで、毎日どこかで一杯ひっかけてから我が家に出勤し、ほろ酔い気分のまま焚火にあたって体が温まると私が就寝するより早く眠ってしまうという、夜警としては全く信用できない人でありました。即刻クビにして別のヒトを雇いました。新しい警備員は弓矢の名手で(しかも矢には毒液が塗ってある)、いかにも頼りになりそうなヒトでした。

ですが、やはりその後も平和な夜ばかりではなく、数回にわたって強盗団の訪問を受けました。いずれも未遂に終わったのですが、ちょっと物騒すぎる。もし大人数でやってこられたらお手上げです。より安全な場所に移動した方が良さそうだ、と判断した私はキスムという町に引っ越し、その後の2年半を平和に過ごしたのでありました。

コメント (2)
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