20年以上も前の映画です。1980年代から映画監督として有名になった故伊丹十三氏の作品。私は氏の一連の映画作品が大好きで、いまだに繰り返して観ています。
この映画は、ヤクザの民事介入暴力を専門とする弁護士と、その弁護士のサポートを受けて成長していくホテルマンたちを描く作品。
ホテル・ヨーロッパはサミット会場の候補にもなる有名ホテルですが、その利用客に暴力団関係者が多いことが悩みのタネです。ホテルからヤクザを一掃すべく、ヤクザ担当者としての新ポストを押し付けられた経理担当の鈴木とベルボーイ・若杉の二人は、まったく気乗りがしないままヤクザと関わってゆくことになります。無防備に孤立する二人は脅され、たかられ、いじめられ、どんどん弱っていきます。この弱体コンビに加勢するのが弁護士・井上まひる。ヤクザ問題に携わるプロです。彼女の指導の下、物語の前半部分とは逆に二人はずんずん力をつけてゆき、当初は畏怖する存在でしかなかったヤクザたちと互角に渡り合うまでになります。
ラストシーンでは団体で押しかけた暴力団員に対して、成長したホテル・スタッフが全員で対峙します。本来はにこやかに利用客に接するはずのホテルマンたちの表情が、このラストシーンではことごとく暗く迫力のある表情になっており、このままヤクザ役とホテルマン役を入れ替えても物語は成立するのではないか、と思えるほどです。それに気づいたとき、監督の意図が解ったような気がしました。
この映画は「制服」の映画なんです。制服というのはとても便利で、着用すれば誰でも一応その役に見えてしまう衣装であります。ホテルマン役はホテルのユニフォームを着て登場し、ヤクザ役は肌に刺青ペイントを施した上にいかにもヤクザらしい服装をすることでヤクザを装う。
伊丹監督はこの映画で制服という衣装をとても効果的に使っており、登場人物が制服を着ているときはホテルマン、そうでないときは観客に近い立場、という、いわば映画内のルールを作り上げています。で、このルールを理解してしまうと、伊丹監督の演出意図がものすごくわかりやすくなるんです。
新ポストに就いた直後、本来はフロント係と同じブレザーを着用するはずであろう鈴木・若杉のヤクザ担当コンビは、なぜか自前らしきスーツを着ています。新ポストに就いたばかりでホテルの制服が間に合わない、という設定なのでしょうが、この設定が映画を観ている者に対して非常に効果的に働きます。つまり「ホテルの制服を着ていない」=「ホテルのスタッフではなく、より観客に近い存在」として印象付けられるのです。彼ら二人が応対しなくてはならないヤクザの持つ脅威が、ホテルに対してではなく、我々観客に直接降りかかってくるような効果を感じます。
この二人がホテルのブレザーを着用するのは、援軍である弁護士・井上まひるが登場した直後です。まひるの指導で成長してゆくのは鈴木や若杉という個人ではなくホテル全体なのです。
まひるが裁判所に仮処分を出してもらうべく奔走するシーンでは、若杉がホテルの制服の上にコートを着込んで同行します。制服を隠すことで若杉は再び観客寄りの、極端に言えば「映画に参加する観客代表」という立場になり、まひるによる道中のレクチャーが観客の耳に直接届きます。
その後の鉄砲玉による襲撃シーンでも若杉はまだコートを着ております。まひるが刺されたあと、ヤクザと格闘する若杉をホテル側ではなく観客に近い位置に置くことで、あたかも観ている我々がヤクザをぶっとばしているかのように感じさせ、観客のカタルシスを満足させる。観客を満足させたあと、とどめのボディブローを食らったヤクザがスローモーションで崩れ落ちてゆきます。若杉のコートが乱れてホテルの制服(胸のエンブレム)が見え、この暴力は私怨によるものではなく正義なのだ、と説明する。このシーン、いかに自然にはだけるコートを演出するかで、きっと何度も撮り直したに違いありません。
作品の随所にこだわりを感じさせる伊丹映画。今観ても極めて質の高いエンターテイメントだと思います。