Weekend Strummer

ウィークエンド・ストラマー。
世間知らずのオジサンが脈絡無く語る、ギター・アフリカ・自閉症。

メジャーセブンスはお好き?

2009-12-27 02:27:16 | ギター
憂歌団というグループのリーダーだったウチダ・カンタローというギタリストによる「男の生ギター」という教則ビデオを時々見ています。
教則ビデオとはいうもののオヤジ・ギャグ満載のドラマ仕立ての部分も多く、あまり真面目なものではありません。ま、そのぶん気楽な感じで見られるので私は好きですが。
冒頭、カンタローが同居する母親をいたわるように、
「おかあちゃん、メジャーセブンスでも弾こうか?」
と声をかけ、抱えたギターでAmaj7(エイ・メジャーセブンス)のコードを鳴らすシーンがあります。

メジャーセブンスは、ルートに対して長3度、短3度、長3度という音構成(だそうです)。
メロウでありながら不安定で、しかし決して暗くなく、かといって明るすぎず、なんというか、切ないような懐かしさを感じさせるコードなのです。
あくまで個人的な印象ですが、

老成した若者。
冷めたレモンティー。
夕日。
ぬるい雨。
枯葉。
ワインの酔い。
昼間の地下鉄。
古い手紙。

などが思い浮かびます。
個人的にはとても好きな和音ですが、ハッキリ言って決して男性的な響きではないと思う。逆に言えば、いかにも女性が好みそうな和音であるような気がする。

「オトコの生ギター」と銘打っておきながら、ママに聞かせるメジャーセブンス。
いいねぇ、ウチダ・カンタロー。
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ネコのコーヒー、カイコのティー

2009-12-20 14:58:18 | ラオス

「最高の人生の見つけ方」という映画。私は見ていないのですが、その中で語られる「世界最高のコーヒー」について、知人が教えてくれました。
完熟したコーヒーの実を野生のジャコウネコが食う。その種子は消化されず糞に混じって地面に排泄される。その種子を集めて洗って乾燥させ、焙煎して挽いて淹れたコーヒー。これこそが世界最高のコーヒー、なんだそうです。
希少価値があるのはもちろんですが、木に着いた状態で完熟しているのでフルーティな香りがあり、また、ジャコウネコの消化器官を通過するうちに強い渋みなどの元になる部分はすべて消化されるため、非常にまろやかな味になるんだとか。

話は変わりますが、ルアンナムターでは多くの農家が養蚕を営んでいます。
日本の養蚕産業のように大規模なものではなく、軒下にしつらえた虫小屋でカイコ蛾の幼虫を育て、繭を作らせ、絹糸をつむぎ、機を織る、という、非常に小規模な養蚕。
そのカイコが排泄する糞を集め、天日干しにしている農家がいます。肥料として畑にまくのかと思ったら、なんとお茶として飲むんだそうです。
聞くところによるとカイコが持つ消化機能は非常に効率が悪く、大量に食べる桑の葉のほとんどを消化しないまま排泄してしまうんですって。
天日にさらして水分を飛ばした蚕の糞をコップに入れて熱い湯を注ぐと、即席桑茶の出来上がり。農家のオバサンによると、健康維持のためには欠かせない飲み物なんだとか。

ジャコウネコの完熟コーヒーも、カイコの体内を通過した桑茶も、私は飲んだことがないのですが、ちょっと魅力的に聞こえます。
その味にも興味がありますが、身体の中を通ったものを再び体内に入れることにどこかミステリアスなものを感じているようなんです。
これは一種のスカトロ嗜好でしょうか?

考えすぎ?

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ふたご座流星群

2009-12-18 00:05:53 | 自閉症
ルアンナムターの夜は暗く、星空がとてもきれいです。特に乾季は空気が澄んでいて天体観測には絶好のコンディション。
初めてルアンナムターを訪れた3年前の冬。見上げた夜空にいくつか流星を確認し、なんだかとても嬉しい気分になりました。
これなら流星群はかなりの見ものになるはず。いつか絶対見に来よう。
と、その時心に決めました。

今年のふたご座流星群の極大期である12月14日、ナムター川のほとりのロッジを予約して、家族三人で流星見物に出かけました。
山小屋風のロッジは竹を編んだ薄い壁。もちろんテントよりは頑丈ですが、外の冷気がかなりダイレクトに室内に伝わってきます。電気はありますが、テレビは無い。ベッド・マットもブランケットもちょっと湿っぽい。
新しい環境に慣れるまでに時間がかかる自閉症であることに加えて、ずっと都会育ちで便利な環境にいた娘は不満たらたら。非難するような眼で私を見つめ、更に非難するような声で何か言っておりました。
通訳しますと、
「この馬鹿オヤジー! 楽しい旅行かと思ったらこんなイナカに連れて来てー! 不便ばっかりじゃないのよっ!」
と、訴える心の声であります。
私からすれば、ベッドも水洗トイレもあるし、お湯のシャワーまで使えるのですから、登山の時に利用する本当の山小屋とは比較にならない快適さなのですが、ま、そんなことはわかってもらえるはずもない。ほっとこ。

夕食後、寒さに対抗すべく数少ない長袖の衣類を着込み、川辺のベンチに親子三人で座りました。ベンチは具合良く東の方角に向いており、真正面からオリオン座が昇ってきます。
「さむいー。部屋に戻りたいー」と(たぶん)言っている娘を好物のお菓子で釣り、三人並んでベンチに着席。
眼が暗さに慣れるに従って見えてくる満天の星空。なんだか凄みさえ感じさせる見事な星空でありました。
「すっげー!」
上を向いて口を開け、そろってアホ面をさらすわしら。

いくつか小さい星が流れましたが、それは流星群とは別物。
ふたご座流星群の母天体である小惑星・ファエトンの残したダストは色も軌跡も明らかに違うものを見せてくれました。
普通の流星は細く短い軌跡を残し、「あ!」と言う間に流れ切ってしまいますが、流星群の流星は「ああああああーっ!」と言うほど長く、またその軌跡は力強く金色に輝き、シューッと流れる音さえ聞こえそうなほどでした。その迫力を例えて言うならば、猫とライオンほどの違いがあったのです。
三人で夜空を見上げ、大きな流星のあとには「今のスゴかったね!」と笑顔を見合わせ、すぐに視線を夜空に戻す。相変わらず寒かったけれども楽しいひと時でありました。

星空を満喫した後に部屋に戻り、就寝。
湿ったベッドに就いてすすり泣く自閉症児。
さっきまであんなに楽しかったのにね。冷たいベッドは嫌だよね。
口先だけで同情して高いびきで眠るのは馬鹿オヤジ。
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引っ張るラーメン

2009-12-13 13:17:53 | ラオス

ラーメンを漢字表記すると垃面となるそうです。
「垃」には「引く」という意味があり、つまり垃面は本来引っ張って作られる麺なのだとか。
小麦粉を練って寝かせた生地を両手で引っ張って伸ばし、折りたたんで2本にして伸ばし、更にたたんで伸ばして2本を4本に、4本を8本に、8本を16本にと、倍々に増やしてゆく。まるで運動器具のエキスパンダーを操るように作るラーメンを、何かのテレビ番組で見たことがあります。
で、これがとても本格的に見えたのです。
伸ばすための麺棒も切るための包丁も不要なシンプルな製麺法であることから、これが人類の手による最初の麺である、などと力強く言われたら、ちょっと信じてしまいそう。
テレビで目撃して以来、一度食べてみたかったのですが、機会が無いまま残念に感じておりました。

ラッキーなことにビエンチャンに見つけました、手延べラーメンの店。その名も「手工垃面」。手打ちラーメンの意味でしょうね、きっと。
むっつり顔の店主が、特に力を入れることなく麺の生地をサッサカサッサカ伸ばします。生地はほとんど抵抗無く、そして切れることもなく、スムースにその長さを延長してゆきます。
伸ばした麺を傍らの鍋で煮えている湯にざっと投入し、1分ほど茹で、スープの入った器にチャーシューと一緒に盛り付けて出来上がり。
伸ばして作った麺ですから完璧なストレート。真っ直ぐです。切断していないために表面がとても滑らかで、ツルツルと口の中に入ってきます。製麺時に抵抗無く簡単に延びる柔らかさでしたから、しっかりした歯応えはあきらめておりましたが、これがどうしてどうして。意外にコシが強いんです。
柔らかい塩味スープに、カリカリに揚げられたニンニクの香ばしさがアクセントになり、とてもおいしいラーメンでした。



欠点がひとつ。麺が長すぎる…。
製麺中の店主のエキスパンダー運動を観察してみたら、麺は16本と意外に少ない本数。
しかし長さが二尋(約3m)もあります。
私としては一度箸に取った麺は、とりあえず全て口中に収めたい。入りきらない分を歯で噛み切って器に戻すのは、「美しくない」ように思えるんです。
ですから、私にとっての便利な麺の長さ、というものがあるのですが、3メートルは長すぎる。
頬張っても口に全部は入らない。
入ったとしても口の中に余裕がなくて噛めない。
無理して入れた俺が馬鹿。

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裸の王様と魔法のランプ

2009-12-09 08:49:58 | その他
小学校1年生の時の図工の授業で、教師のお話を聞いて頭に浮かんだ情景を絵に描く、という課題がありました。
その日、担任教師が聞かせてくれたのは「アラジンと魔法のランプ」。漁師・アラジンの網には古いランプがかかっており、擦ってみたら中から魔神が現れて・・・、という有名な一節です。

当時6歳の私がクレヨンで描いたのは、その魔神登場シーンでした。
画用紙の左端に黄色に光るランプを描き、そこから煙が湧き上がるように現れる魔神の姿が画用紙中央に描かれています。
我ながらちょっと感心しちゃうのですが、この魔神を私は赤鬼に模して描きました。おとぎ話に出てくるお馴染みの赤鬼です。真っ赤な顔。天然パーマの髪。円錐状の2本の角。牙が目立つ口元。
和風にアレンジして、魔人を鬼に見立てたらウケるかも、などと小賢しく考えたわけではなく、「魔人」と聞いて連想したのが赤鬼だったので、そのまま自然に描いたのでした。
画用紙の右側には魔神の出現に驚いてしりもちをつき、のけぞるアラジンが描かれています。その姿はまるで浦島太郎のようにポニーテール状に髪を結い、腰みのを着けているのです。
というわけで、アラビアン・ナイトの情景としてはかなり日本的なものになりました。
その和風アレンジが新鮮だったのか、私の絵は校内で高い評価を得、更に市民ギャラリーなるところで展示され、おまけに何かの賞まで頂きました。
前述のように特にウケを狙って日本的に描いたわけではなく、いわば棚ボタなのですが、そういう努力のない行為をすごく誉められて、胸を張っていいのか、それとも大いに照れるべきなのか、戸惑う幼い私でありました。

ところで。
作家・開高健の出世作は「裸の王様」という作品です。彼はこの作品で芥川賞を受賞しました。
絵画教室で絵を教えている主人公が、ある日、教室の生徒たちにお話を聞かせて、思い浮かんだ情景を絵に描かせます。主人公が選んだお話は裸の王様でした。「馬鹿には見ることができない布地」で作られた、という触れ込みの服を着てパレードをする王様が、純粋な子供の指摘で自分が裸であることを認識する、という、これも有名なお話。
開高の小説中、一人の生徒(どうも何か障害があるらしい少年)が描いたのは、頭にちょんまげを結い、太刀持ちを従えて、ふんどし姿でふんぞり返る殿様の姿でした。

この小説を、私は確か10代の後半に読んだのですが、小説の内容が前述の私の体験に酷似していたので非常に驚いたものです。
絵の基になるお話は違うけれど、「聞いたお話が外国の童話であることを知らずに、少年が和風にアレンジして描く」というコンセプトは私の経験そのまんま。
きっと、市民ギャラリーを訪れた開高健が偶然にも私の和風アラビアン・ナイトの絵を見て触発され、「裸の王様」を執筆したのです。ゼッタイそうに決まってます。
と、勝手に確信した私は得意満面。仕舞いには「オレが6歳の時にあの絵を描かなかったらオーパ!はなかったんだぜ」などと、もう吹くわ吹くわ。
あとで調べてみたら、開高の受賞は私が生まれるはるか以前であることがわかり、燃え上がるような赤っ恥だったんだぜ。

本日12月9日は開高健の命日であります。
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