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Weekend Strummer

ウィークエンド・ストラマー。
世間知らずのオジサンが脈絡無く語る、ギター・アフリカ・自閉症。

ネバー・クライ・ウルフ (1983)

2024-12-29 15:31:22 | 映画の話

時々、ヒトは自然の中で周囲の環境に同化するような気分を味わうことがあるようです。

1970年代から活躍していたオフ・コースというバンドは主に恋愛に関する歌を多く残しておりますが、私が最も感情移入できるのは「潮の香り」という、恋愛をテーマにしていない曲です。
独りで海上にクルーザーを操る夕暮れ時。彼方に見はるかす水平線。一方にはかすかに瞬く港の灯り。自分の周囲には海水の他は何もなく、しかし気分は充実しており、「今の私にこれ以上、何もいらない」と言い切れる状況。
ヨットによる単独太平洋横断を成し遂げた堀江健一氏の手記「太平洋ひとりぼっち」にも似たような描写がありました。心地良いと思えるほどの風に押されて進むヨット。熱い紅茶で満たされたカップを手にデッキに寝そべり、波の上下運動を感じながら満天の星を眺める。非常に満ち足りた気持である、と記されており、そんな満足感を自分もいつか味わってみたいものだ、と、強く憧れておりました。

海男ではない私が自然の中にいることを実感したのは、山での経験でした。
若いころに親しんだ山登りの機会では、普段の街での生活に比べて格段に不自由なはずの山暮らしが何故か楽しくて仕方なく、このままずっとここにいたい、と、しばしば思ったものでした。

1970年代の映画「アメリカン・グラフィティ」や「スパイクス・ギャング」で印象深い演技を見せたのがチャールズ・マーティン・スミス。「いかにも頼りない青年」を演じさせたら天下一品でありました。その彼が大きな成長ぶりを見せたのが「ネバー・クライ・ウルフ」(1983)。それまでの出演作品ではモヤシのような印象しかなかったのに、この映画では一転して、単身で北極圏の大自然に向かい合う男・タイラーを好演しています。画面に映る人間の数がすごく少ない映画で、上映時間のほとんどをタイラーと北極圏の風景を目撃することに費やされる映画です。

「北極圏は雪と氷と樹木だけの世界。自分以外は誰もいない場所。生存するフレッシュ・ミートは自分だけで、その他に動く者は捕食者である狼だけだ」
オオカミとカリブー(ヘラジカ)の関係を調査する依頼を受けた生物学者タイラーは、調査地に赴く際に脅されるような説明を受けます。チャーターした小型機(操縦士がブライアン・デネヒー!)で移動した僻地で、色々と苦労しながらもイヌイット族の男・ウテックに助けられ、観察対象である狼とも良好な関係を築き、極限の地での野外生活にだんだん慣れていきます。
うまくテントを設営した時の満足感、焚火を熾し、昇り来る満月を愛でながら熱いコーヒーを飲む。大いに共感できる場面でありました(その直後に聞こえたオオカミの遠吠えに一気に不安になるところも共感できましたが)。

撮影監督を務めたのは日系人のヒロ・ナリタです。遠近感豊富なスチール写真のように美しいシーンが各所にあり、登場人物は少ないのに充足感のある画面で物語がつづられていきます。

映画の終盤近く、山中に降り続く雪の中で、呼応するオオカミの遠吠えを探してバスーンを吹くタイラー。そのシーンに私は、孤独を心から楽しむ男の、非常に満ち足りた雰囲気を感じました。

Solitude in youth is beautiful.
Solitude in old age is joyous.
                                                                   -Weekend Strummer

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自転車泥棒

2024-08-31 11:46:32 | 映画の話

ヴィットリオ・デ・シーカ監督によるこの作品を私が観たのはまだ小学生の時でした。
当時の我が家では子供の就寝時間が決まっており、幼い私と弟は夕食後数時間以内に就寝する習慣でしたので、21時に始まるテレビの洋画番組は「大人用の番組」で、ほとんど見る機会がありませんでした。ですが例外もあって、両親が「名画」と評価する作品については「この映画は観といたほうがいいから今夜は夜更かししてテレビを見なさい」と薦めてくれたものです。
「家庭内文部省推薦作品」なんて書くと、堅苦しくて教育的で、途端につまらなそうな映画に思えてしまいますが、当時の私にとってたいていの映画は楽しいエンターテイメントでありましたし、それに子供にとって夜更かしの機会はいつだってワクワクです。パジャマに着替えて歯も磨き、いつでも寝落ちできる態勢を整えたうえでの名画観賞会は、積極的に参加すべき楽しいイベントでありました。
そんな形で「小鹿物語」や「老人と海」、「山」などの名作映画に触れることができたのは、少年期の私にとってとても幸運だったと思います。

ですが、残念ながら「自転車泥棒」は暗い映画です。
第二次大戦後のイタリア。失業した主人公が幸運にもポスター張りの職を得ますが、それは「自転車所有者に限る」という条件付きでした。シーツを質に入れ、すでに質に入っていた自転車を出して仕事を始めますが、すぐに盗まれてしまいます。幼い息子を連れて盗まれた自転車を捜し歩く主人公。見つからない自転車。探し疲れた主人公は、他人の自転車を盗もうとし、しかしその場で取り押さえられてしまいます。多くの人たちからのリンチに遭うところ、息子が涙ながらに慈悲を乞い、放免されます。息子の手を引き、泣きながら帰路に就く主人公の姿にエンドマークが重なってこの映画は終わります。

え? これで終わりなの?
驚きとともに尋ねる私に、父は
「うん、これで終わり」
えーっ! そんなぁ!

自分にとってハッピーエンドではない映画を見た初めての経験でした。
絶対に自転車は見つかるはずだ、と信じて最後まで眠らずにおりましたのに。
こんないたたまれない心境のまま寝床に入らなくてはいけないなんて。
楽しくないまま終わってしまう映画というものが存在するということがどこか理不尽に思え、「あの後、親子はどうなってしまったんだろう」と心配し、ネガティブな後味がその後も長く尾を引きました。
親の庇護のもと、何一つ不自由なく育てられた私にとって、どうも世の中というものは厳しいらしい、ということを教えてくれた映画でもあります。

劇中、オープンエアのレストランで親子が食事をするシーンがあります。男の子が注文したピザのチーズがびよーんと伸びるのを見て、あんなに柔らかく伸びる食品は正月の雑煮に入っている餅くらいしか思い当たるものがなかった私は、一緒に映画を見ていた母親に、
あれはいったい何なのだ?
と尋ねました。
「チーズよ」
まさか! あれがチーズであるはずがない。チーズというものは銀紙でヒトクチサイズの三角形に包装された固形物(給食のチーズじゃねーか)。
非情なエンディングの前に、すでにチーズに裏切られていたのでした。

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人類の子供たち

2024-07-28 16:36:02 | 映画の話

隣の老朽化した家屋を取り壊す工事が行われ、その作業中にどういうわけか我が家のテレビのアンテナケーブルが切断されてしまい、以来半月ばかりテレビ放送が見られない生活が続いております。
それまでは在宅中はテレビのスウィッチをONにしたまま、特に見たい番組が無いにもかかわらず惰性的に見てしまうことが多く、我ながら駄目な習慣だな、と感じておりました。今回は強制的にビーテレ無し状態に突入したのですが特に不便は感じず、却って気分は清々しく、しばらくはこのままでいっか、と近所の電気屋さんへの修理依頼も延ばし延ばしになっています。
ですが、やはり映像は時々見たくなるもので、暑いけれど静かな晩はお気に入りの映画のDVDを再生して楽しんでいます。

「トゥモロー・ワールド」(原題:Children of men)は2006年に作られたSF 映画で、2027年の世界を描いています。(以下、ネタバレを含みます)
2008年以降、複合的な理由により世界中で一切子供が生まれなくなってしまいました。人口が減少しているんだから、余り気味の地面をうまく使って、みんな仲良く過ごせば良いのに、世界中いたるところで紛争や環境汚染によるトラブルが頻発している未来です。
子供が生まれないことで世界全体が未来を諦めてしまっており、緊張感のない恐怖、もしくは安堵感をコアとする不安、のような雰囲気が映画全体を包みこんでいるような印象があります。
ロンドンで、一人の若い移民女性がなぜか例外的奇跡的に妊娠します。しかし彼女は自分の妊娠に気づかないまま時間を過ごし(すでに彼女の周辺で妊娠について見聞することは皆無になっていたので知識が無かったんです)、ようやく気づいたものの誰にも相談できずに時間が経ってしまい、とうとう臨月を迎えてしまいます。その妊娠を、なぜか反政府ゲリラ組織が知ることとなり、政治的に利用されそうになる。政府の軍隊とゲリラ組織の戦闘の間で翻弄される若き妊婦。
数分間に及ぶ長回しが多用されるために暗く残酷な戦場シーンにも臨場感があふれ、その反面、しぶとく生きようとする登場人物たちが魅力的に感じられます。
クライマックスでは激しい市街戦の中、生まれたばかりの赤ん坊を抱いた彼女が安全な場所を求めて移動します。流れ弾を受けて負傷した市民もひどく苦しいはずなのに赤ん坊の存在に気づいて穏やかな笑顔を見せ、銃を構える兵士たちは誰もが驚愕し、口々に「シースファイア!」を叫び、母娘を安全に通行させます。地球上に存在するたった一人の赤ん坊は、世界中の人類にとって唯一の希望です。戦闘を中断した両軍の兵士たちはまるで神を目撃したかのようにひざまづき、優しい表情を浮かべる。母娘が通過した直後には再び銃火が激しく交差することになるのですが。

ああ、映画の世界ではこんなにも赤ん坊は大事にされるのに。
我々の現実世界ではガザやウクライナで今も多くの子供たちがひどい目に合っています。

オリンピックなんてやってる場合じゃない(もともと興味ないんだけどさ)。

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すずめの戸締り

2022-11-30 14:38:46 | 映画の話

話題になっている映画「すずめの戸締り」を観に行きました(以下はネタバレありの感想です)。

いつもの金曜日のレイトショー。大きなスクリーンに映し出される色彩豊かなアニメーション映画は自閉症の娘も厭きずに集中できる好プログラムです。
地震の素となるので、出てきてもらっては困る大きく禍々しい「ミミズ」が空に立ち上るシーンでは、その迫力に圧倒されて不安になり、隣に座る私の手を握って胸元に引き寄せる、なんてかわいい反応がありました。そして怖いシーンが終わった途端、いかにも邪魔者のように私の手を放り出すところが正直で、また憎たらしいところでもあります。父親は真に必要な時にしか頼りにされません。

劇中、特定の悪役は登場せず、不可抗力的に発生する不都合を治めるために必要な生贄(いけにえ)として誰を充てるか、が物語の軸となります。その犠牲が無ければ人間社会に多大な被害が及ぼされるにもかかわらず、ごく限られたヒトにしか知られていない生贄。他者からの評価を期待せずにその身を捧げなくてはなりません。
子にとって必要な時にしか頼られない親の存在のようです、って、劇中の生贄の立場とは比較にもならないささやかな犠牲でありますが。

ミミズ出現の場が目まぐるしく移動し、それに連れてアクション・シーンが連続するので見応えがあります。

広く言われているようですが、そこここにスタジオ・ジブリ作品の影響がうかがえました。空にそびえる赤黒いミミズは「もののけ姫」に登場した頭部を失くしたシシ神のようでありましたし、要石を打ち込む際にすずめの身体が凍えていく様は、やはりアザだらけになるアシタカとサンを連想させました。なにより、扉の鍵穴に鍵を差し込んだすずめが発する「お返しします!」のヒトコトがアシタカの「お返し申す!」と同じでしたし。
厄介ごとがすべて終わって主人公たちが草むらで平和に目覚めるところまで「もののけ姫」と同じで、安心してエピローグに入りこむことができました。

ただ、ようやく苦役から解放されたと思ったら再度生贄として身を捧げることになるダイジンに救いが無いように思え、心底気の毒に感じました。
また、モザンビークラオスでしめ縄の原型のような風習に触れた私としては、ミミズを治めるためには鍵を差したり要石を打ちこんだりするのではなく、やはり捕縛してほしかった。残念。

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スピルバーグのマチズモ その2

2021-09-03 16:43:25 | 映画の話

映画「サンブンノイチ」(2014)ではクボヅカ・ヨウスケ演じるハマショウが「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(1985)への想いを吠えるように語ります。
「映画好きを自称する奴らに限って、俺が一番好きな映画はバック・トゥ・ザ・フューチャーだ、と言うとバカにしたような目で見やがる。面白いけどベタ過ぎない? なんてほざくやつが大嫌いだ! バック・トゥ・ザ・フューチャーが好きで何が悪いんだ!」
全然悪くない。私も大好きです。

およそ10年前になりますが、「スピルバーグのマチズモ」というタイトルで駄文を書きました。詳細はリンク先をお読みいただければと思いますが、あえて要約しますと、
 ・スティーブン・スピルバーグの作品の多くは「マチズモ(男らしさ)の追求」をテーマにしており、その証拠に男性を象徴するものがストーリー上重要なアイテムとして画面に登場することが多い。
 ・「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ではタイムマシーンであるデロリアン(スポーツカー)が、ある一定以上の速度を出して走行することでタイムトラベルする、という設定になっていたが、この設定は性交時の男性の射精の過程に似ている。
 ・しかし、この作品の監督はロバート・ゼメキスであり、スピルバーグは製作総指揮という立場で参加しているため、彼のマチズモ追及の意向がどれだけ反映されているかはわからない。

どれだけ反映されているかは不明、と書きつつも、タイムマシーン設定はスピルバーグ発案によるもの、という仮説にずっとしがみついている私です。
だって、他のスピルバーグ作品にもマチズモ追及アイテムはいっぱい登場するんですもん。

バック・トゥ・ザ・フューチャー公開の13年後に正真正銘スピルバーグが監督を務めた「プライベート・ライアン」には、更に強いマチズモ追及色が感じられます。第2次世界大戦を、特に戦闘シーンをリアルに描いたことで有名な作品ですから、画面に登場する人物のほとんどが男性(しかも兵士)ですし、マチズモ追及の極みとも言える作品です。
同作品の冒頭で描かれるのがノルマンディ上陸作戦。作戦中に銃撃されて命を落とし、海岸に折り重なるように打ち上げられた数えきれないほどの米兵の死体が映し出されますが、このシーンは性交時に卵子にたどり着けなかった多くの精子をシンボライズしているように思えます。性交時に射精される四千万の精子のうち、卵子にめぐりあえるのはたった一つで、最も強い精子です。鉄壁の守りに突破口を切り開いて作戦を成功に導いた主人公のチームは「受精に成功した者たち=マチズモの権化」ということになるのだと思います。
また、腕利き狙撃兵同士の一騎打ちのシーンでは、弾丸が敵のスナイパーが構える銃のスコープを通って眼(と頭)を射抜くという、まるで膣を貫通して目的を成就するようなシーンが描かれたりもしています。

というわけで、スピルバーグの作品を観る機会があるごとに、マチズモ的なシーンを探してしまう私です。
その証拠の一つとして、大ヒットしたバック・トゥ・ザ・フューチャーのタイムマシーン設定もぜひともスピルバーグによるものであって欲しかった。そうすれば「スピルバーグ作品=マチズモ追及」という式の強力な裏付けになるんだけどなー、と長年にわたって考えていたんです。

先日、「話題になった映画の裏話」(仮名)、というサイトで偶然見たのですが、タイムマシーンの設定はやはりスピルバーグのアイディアだったそうです。

やった! とうとう見つけた!

もともとゼメキス監督の脚本では冷蔵庫をタイムマシーンに改造することになっていたらしい。多分、冷蔵庫に入って温度設定ならぬ時間設定のダイアルを操作して、再び扉を開けると目的の時代になっている、というシナリオだったのではないでしょうか?
その脚本を読んだスピルバーグが「映画を真似して子供が冷蔵庫に入ったりしたら大変だ」と危惧し、スポーツカーに換えるアイディアを出したんだとか。
劇中、「なんでデロリアンをタイムマシーンにしちゃったの?」というマーティの問いに、「どうせ作るならカッコいい方がいいから」とブラウン博士は極めて簡単に答えます。まるで「単なる思い付きなんだよ」とでも言うように。きっと、これは本当にスピルバーグの単なる思い付きだったのだと思います。そして、そういう何気ない思い付きにこそ、作者の性格が出てしまうものです。

この項、単に「ほらね、私が言ったとおりだったでしょ?」と言いたいがためにアップしました。

コメント (4)
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