海外の小説は、翻訳するヒトによっては違った作品に感じられてしまうことがよくあります。なので、お気に入りの作家の作品はできれば同じ翻訳家を通じて読みたいものです。個人的な好みを言えば、ハインラインは矢野徹氏の訳で読みたいし、スティーブン・キングだったら深町眞理子氏の訳がしっくりきます。
ところで、最近の書店で見るヘミングウェイやスタインベックの小説は、私のお気に入りの「大久保康雄訳」ではなく、誰か別の訳者のものに変わっているようです。大久保氏によって訳されたものはどれも50年以上前の刊行物になりますし、やはり新しい訳の方が現代の読者には読みやすくなっているのかもしれません。
ですが、やはり私には大久保氏の訳のほうが馴染み深い。
氏によって翻訳されたヘミングウェイの作品はすべて読んでいるはずですが、実はスタインベック作品は教科書に載っていた「朝めし」以外は読んでいないのです。今後は新しい訳者による刊行物が主流になってゆくでありましょうし、これは手に入るうちに読んどいたほうがいいかもしれない。というわけで、スタインベックの代表作である「怒りの葡萄」の大久保康雄氏訳版を取り寄せて読みました。
久しぶりに触れる大久保氏の翻訳本。面白かったです。初めて読む本なのに、不思議な懐かしさを感じました。
下巻の102頁まで読み進んでビックリしました。
「朝めし」と同じシチュエーションが出てくるんです。
主人公を朝食に招くのは「朝めし」では綿摘みの仕事をする親子一家でしたが、「怒りの葡萄」では主人公に親切にしてくれるウォルキー親子となっています。服を新調したばかり、という設定も同じです。
さらに驚いたのは、このウォルキー一家が白人だったこと。ウォルキー一家が白人だということは「朝めし」の綿摘み一家も白人なのでしょう。
ヘミングウェイの短編集に出てくる、パンチドランカーと一緒に旅を続ける黒人の印象が強かったせいか、もしくはシドニー・ポワチエ主演の「夜の大走査線」で見かけた黒人の綿摘み労働者のイメージによる影響か、わからないのですが、私はずっとこの人たちを黒人だと思いこんでいたんです。
アフリカで見ず知らずの人たちに助けられた経験を多く持つ私にとって、「朝めし」の情景は我が身の体験と大きくオーバーラップするが故に大好きな作品だったのですが、なんか印象が大きく変わってきてしまいました。
でも二通りの楽しみ方ができたようで、得した気分でもありますが。