Weekend Strummer

ウィークエンド・ストラマー。
世間知らずのオジサンが脈絡無く語る、ギター・アフリカ・自閉症。

スタインベックに勘違い

2024-02-11 18:37:18 | その他

海外の小説は、翻訳するヒトによっては違った作品に感じられてしまうことがよくあります。なので、お気に入りの作家の作品はできれば同じ翻訳家を通じて読みたいものです。個人的な好みを言えば、ハインラインは矢野徹氏の訳で読みたいし、スティーブン・キングだったら深町眞理子氏の訳がしっくりきます。

ところで、最近の書店で見るヘミングウェイやスタインベックの小説は、私のお気に入りの「大久保康雄訳」ではなく、誰か別の訳者のものに変わっているようです。大久保氏によって訳されたものはどれも50年以上前の刊行物になりますし、やはり新しい訳の方が現代の読者には読みやすくなっているのかもしれません。
ですが、やはり私には大久保氏の訳のほうが馴染み深い。
氏によって翻訳されたヘミングウェイの作品はすべて読んでいるはずですが、実はスタインベック作品は教科書に載っていた「朝めし」以外は読んでいないのです。今後は新しい訳者による刊行物が主流になってゆくでありましょうし、これは手に入るうちに読んどいたほうがいいかもしれない。というわけで、スタインベックの代表作である「怒りの葡萄」の大久保康雄氏訳版を取り寄せて読みました。
久しぶりに触れる大久保氏の翻訳本。面白かったです。初めて読む本なのに、不思議な懐かしさを感じました。

下巻の102頁まで読み進んでビックリしました。
「朝めし」と同じシチュエーションが出てくるんです。
主人公を朝食に招くのは「朝めし」では綿摘みの仕事をする親子一家でしたが、「怒りの葡萄」では主人公に親切にしてくれるウォルキー親子となっています。服を新調したばかり、という設定も同じです。
さらに驚いたのは、このウォルキー一家が白人だったこと。ウォルキー一家が白人だということは「朝めし」の綿摘み一家も白人なのでしょう。
ヘミングウェイの短編集に出てくる、パンチドランカーと一緒に旅を続ける黒人の印象が強かったせいか、もしくはシドニー・ポワチエ主演の「夜の大走査線」で見かけた黒人の綿摘み労働者のイメージによる影響か、わからないのですが、私はずっとこの人たちを黒人だと思いこんでいたんです。

アフリカで見ず知らずの人たちに助けられた経験を多く持つ私にとって、「朝めし」の情景は我が身の体験と大きくオーバーラップするが故に大好きな作品だったのですが、なんか印象が大きく変わってきてしまいました。

でも二通りの楽しみ方ができたようで、得した気分でもありますが。

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親離れ子離れ

2023-12-30 18:42:20 | 自閉症

娘が自立生活を目指して家を離れて4ヵ月が経ちました。
楽観お気楽主義の両親のもとで「人間万事出たとこ勝負」という人生を送ってきた娘がグループホームでの規則正しい共同生活に組み込まれることになり、彼女の生活環境は大きく変わりました。最も大きく変わった点は、両親ではなく支援団体から派遣されたヘルパーさんと一緒に生活するようになったことでしょう。
平日の昼間は障害者が作業する施設に通います。夕方、施設のバスが娘の生活するホームまで送ってくれます。ホーム前の停留所にはヘルパーさんが迎えに出てくれていて、娘を自室に連れ帰り、着替えや入浴をサポートしてくれます。夕飯を済ませたら、次のシフトのヘルパーさんが来てくれます。娘の就寝準備を手伝ってくれて、就寝後翌朝まで同じ部屋で休んでくれるんです。起床後は朝食を摂らせ、身支度を整え、施設からの迎えのバスに乗せてくれます。
慣れないうちは少々ギクシャクしたこともありましたが、現在は娘とヘルパーさんたちとの関係も良いようで、一先ず安心しています。

休日はたいてい外出します。今までは親の外出に付き合わされるばかりでしたが、最近は年齢の近いヘルパーさんと外出することになり、本当に楽しそうに出かけていきます。
街を歩いていて何か欲しがったら予算の中で買ってやってください、とお願いしておりましたら、ある日「書店でこれが欲しかったみたいです」と買ってきてくれたものは肉の本でした。グルメ雑誌「おいしい焼肉店」。中を見るとトングで挟まれたきれいな赤身肉のグラビアが満載。

まったくもー。肉の写真集とは。他に興味を惹くものないのかよ。

少々あきれてしまいますが、本人はニッコニコでページをめくり、肉の写真に見入っています。就寝時間になるとベッドにまで持ち込むほどの執着ぶり。
ま、男性アイドル本に執着を見せるよりは、父は安心できるけどね。
ちなみに翌月に同じ書店で買ってきたのは「きなことあんこ」という和菓子写真集でした…。

週に一度ギターを抱えてホームを訪問する父を、はじめは歓迎してくれましたが最近はケンモホロロ。以前のように「Singする?」と合唱に誘っても「No」などと言って相手にしてくれません。手話で「帰って」などと言われることもあります。

娘の中では親離れがスムースに行われているようで喜ばしいのですが、その反面、我々親の子離れはガタピシしており、複雑な心境を味わう年の瀬であります。

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クランプス!

2023-10-25 23:28:33 | その他

以前お知らせしましたが、私の陰嚢には睾丸状のものが三つ存在しており、電車で言えば満員率150%と大混雑状態です。しかも常時。万年ラッシュアワー。三つ目の玉は実は睾丸ではなく精液瘤(せいえきりゅう)と呼ばれるもので、何かの理由で射精しなかった精子が精輸管の中に溜まって玉状になったものだそうです。

更に私の下半身は前立腺肥大症の初期にあるらしく、以前に比べて排尿に少々時間がかかるようになっております。若かった頃のように勢いよくほとばしるようなオシッコは記憶の遥か彼方。精子だけでなく尿さえも出にくくなっているとは、ヤレヤレであります。
排尿に時間がかかるので(とはいってもそんなに長時間ではありませんが。まだ初期なので)無意識ながら軽く力むようになりました。自覚はないのですが排尿時に下腹に力を込めて腹直筋はもちろん、腹横筋などのインナーマッスルも収縮させて膀胱に圧力を加えているようです。今まであまり意識したことのなかったマイナーな筋肉なので動かし方を体得しておらず、つまり脳からの命令系統が確立されておらず、したがって力んだからといって本当に収縮しているのかどうかは定かではなく、そのため尿のスムースな排泄にはほとんど効果が無いような気がします。と、頭ではわかっているものの、気が付くと便器を前に力んでいる自分がいます。

筋肉の使い方が効率的でなく、力の入れ方も不器用であるためでしょう、筋肉が不自然に疲労して、その結果ときどき攣(つ)るようになってしまいました。攣るのは、幸いなことに排尿時ではなく、また小さい筋肉であるようで痛みはそれほどでもないのですが、やはり不快であり、できるだけ早く治したい痛みであります。筋肉が攣った場合は静かに伸ばしてやると回復する場合が多いです。しかし力の入れ方さえわからないマイナーで小さな筋肉なので、どことどこをつないでいてどういう方向に配置されているのか、全然わからないんです。痛みに身もだえしつつ、あてずっぽうで身体をひねって脇腹を伸ばしてみたけれど、あ、これ全然効いてないや。それではと、のけぞって腹直筋を伸ばし、あ、これもだめだ。どうすりゃいいんだー。立ち上がって部屋のドア枠に手をかけてぶら下がるように腹筋全体を伸ばしてみても、これも効いてねえ。クソー。
アッチでもないしコッチでもない、と試行錯誤を繰り返しているうちになんとなく落ち着いてきて痛みが消える、という、唐突なフェイドアウトで終わる昔のポップスみたい。納得できないまま、落ち着く。

そして、のど元過ぎれば次回のクランプスまで忘れるストレッチ研究。

 

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友達の範囲

2023-09-12 16:31:19 | その他

♪一度会ったら友達で、毎日会ったら兄弟だ♪ という歌が30年位前の「おかあさんといっしょ」で歌われていました。
本当に「一度会ったら友達」だとしたら友人数は膨大になるはずです。無邪気で希薄なしがらみしかなかった幼児の頃は、他者と友人としての関係を結び合うことはたやすいことで「ともだち100人できるかな」なんて期待も、さほど突飛なものではなかったように思えます。

世間では友人が多い少ないがそのヒトの人格(魅力ある人物かどうか)の尺度になっているらしく、友人が多いヒトほど良いヒトである、という評価が一般的です。他人から慕われるヒトというのは、なるほど、良いヒトの特徴の一つと言えるかもしれません。
ですが、最近、その解釈がなんとなく幼稚に思えてきました。友人の多さを誇るのは、他人からの支持を積極的に募る選挙の立候補者の姿につながるような気がして、なんとなくカッコ悪い。

「友人の多さ」を語るうえで注意すべきは、そのカテゴリーでしょう。友人をいかに定義づけているか。知り合いと区別しているかどうか。

学生時代のクラスメイトは単に同じクラスに振り分けられただけの関係で、中には親友レベルの親しさに発展するヒトもいましたが、多くは特に親しく口をきいたこともないまま関係が終わったヒトばかりで、友人とは言えなかった。
同様に会社の同僚も友人とは言えないでしょう。ほぼ毎日、顔を合わせ声を掛け合う仲ではありますが、生活に必要な収入を確保するために一緒に働く仲間であるだけで、任務遂行の際には最上級の信頼を置いてはいるものの、友人ではない。

その他、友達とは「困った時に助けてくれる存在である」なんて、機能を優先するヒトもいるようですが、非常時に助けを期待するが故に他人と仲良くなろうとするというのも、なんだか自分勝手で動機が不純に思えます。

私にとって友人とは「一緒に遊ぶヒト」です。楽しさを感じる分野が自分と重なっていて、楽しい思いをするために必要なヒト。好きで一緒にいるヒト。

とはいうものの、最近は自分の趣味活動が極めて限定的になりました。
相手が必要なスポーツやバンド活動などは久しくやっておりませんし、映画や文学について語り合うのもインターネットの関係サイトへの投稿で満足してしまっております。数年前から飲酒習慣もなくなって、日没後の外出はバタコとの散歩くらいです。
余暇を過ごすのは、どれも独りで楽しめる活動ばかり。

というわけで、私の友人数は過去数年間0人です。
でも、いいんだもーん。

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娘が家を出ることになりました。

2023-07-28 15:26:30 | 自閉症

障害者の親にとって最大の関心事は、自分が死んだ後の我が子の生活でありましょう。どうしたって親の方が先に逝くのが必至であります。私や妻が死んだ後、愛娘はどのように時間を過ごしてゆくのだろう。重度の自閉症で独りでは暮らせない子なのに。
死に別れだけではありません。日々老いてゆく我々が、いつまでも娘の身の回りの世話を焼いてやれるわけではありません。体力が衰え、巨大幼児の娘を支えてやれなくなる日はそう遠くないはずです。
別れの時は必ず来る。
いざその時になって親の代わりに面倒を見てくれる人を探そうったって、そう簡単に行くわけじゃない。特に、新しい環境に馴染みにくい自閉症者にとって、相性の良い世話人と巡り合う確率は極めて低いはず。

やはり障害者の娘さんを持つ知り合いから「障害者同士、娘たちを共同生活させてみないか」という提案がありました。
具体的には、3人の障害者が共同で一軒の家を借ります。住人3人は全員が障害者で、自分の身の回りのことはほぼ何もできません。なので、それぞれがヘルパー(介護士)を雇うことになります。食事の準備や入浴時の手助け、衣類の洗濯やトイレの始末に至るまで、交代制でサポートしてくれるヘルパーさんが頼りです。バッチリ張り付き体制で。ですから、基本的にその家では常時6人が生活することになります。

障害者はその程度にもよりますが、行政から手当が支給されます。いろんな名目で支給される手当て(例えば、平日は毎日利用している介護施設の利用料や障害者年金など)をやりくりすれば、この先、特に大きな苦労を経験することなく、人生を全うできるのではないか、と期待しています。
現状では上記の手当てを利用しても不足分が生じるため、当面は住居賃貸料や食費などの生活費やヘルパーの派遣料などは親が負担します(将来的には行政の担当官に娘の生活を審査してもらい、完全サポートの資格を取り付けたいと考えています)。
娘とヘルパーの相性の良し悪しは不安要素として常に存在するでしょうけれど、こればっかりは双方に慣れてもらうしかありません。

某所に準備したシェアハウスで、来月から娘の生活が始まります。
毎朝作業所に出勤して簡単な作業をし、夕方には帰宅してヘルパーさんが用意してくれる夕食を食べ、自室に戻った後はきっと独りで静かな時間を過ごすのでしょう。小さめの音でお気に入りの音楽を聴き、テレビを見て、就寝時間が来たらパジャマに着替え、歯を磨いてもらい、ベッドに入ります。
安全で穏やか。刺激が少ない静かな生活。

じきに高齢者になってしまう老いた両親は、すでに高齢犬となった愛犬バタコとともに少し離れた場所に立ち、愛娘の生活を死ぬまで心配し続けます。

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