Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

ただ生きられる世界に

2013-11-01 01:33:22 | 日記

2009年の朝日デジタルにのった立岩真也の“紙上特別講義”という記事をみつけた。数年前の記事とはいえ、“現在”もなお(ますます!)有効である;

<立岩真也:ただ生きられる世界に>

目的は暮らしていくこと。生産や労働は手段のはず。
能力主義により逆転した。
成功する人・しない人の報酬の差 その正しさはきちんと言えない。
景気が急激に悪化し、たくさんの人が仕事を失っています。自分を責め、生きる気力をなくしている人も多いかもしれません。そんな息苦しい時代に、社会学者の立岩真也・立命館大大学院教授(48)は「人は強くなければいけないのか」と問いかけています。人が、たとえ弱くても、そのまま生きられる世について語ってもらいます。

★ 人間が暮らすためには、ものを食べないといけない。そのために生産が必要になる。生産するには働かないといけない。労働するには、労働する能力が必要になる。本来は、こういう順番です。目的は暮らし生きることで、生産、労働、労働するための能力を持つことは暮らすための手段です。

★ しかし、できる人がより多く取るという能力主義・業績原理のもとで、どれだけ生産できるかが、その人の価値を決めるようになった。その結果、暮らすという目的より、そのための生産や労働、能力という手段の方が大切なことになってしまった。そして、得られるものに大きな差ができてしまう。何も得られない人もでてくる。

★ それで、自分の存在を否定してしまう人がでてくる。でも、それはおかしい。目的と手段が、ひっくり返ってしまっているわけです。ただ生きることが、まずは、たんに認められればよい。それが人々の基本的な望みだと思います。

★ 景気が悪い中でも、全体としてはものはある。人もいる。しかしそれをうまく配置できず、職につけない人がいる。交通事故死よりはるかに多い数の自死があってしまっている。それは、我々が物や資源の分け方を間違っているということではないでしょうか。

★ 市場(しじょう)では、多くの人は、他に売るものもないから、労働を売ることになる。しかし、なぜだか仕事ができてしまう人とできない人、その差はどうしたってあります。それは、やる気のあるなしといったものでは説明できない。すると、努力ややる気があろうがなかろうが、職にあぶれる人は出てきます。成功する人と失敗する人、稼げる人と稼げない人、職に就ける人と就けない人が必ず出てきてしまう。少し前は景気がいいと言われていましたが、そのときでも、職に就けない人は相当数いました。このことをどう考えるか。

★ 働きによって、あるいは働きの手前の個々の能力によって、人が受け取るものに大きな差ができてしまう。それが正しい、あるいは仕方がないという主張があります。しかし、そのわけを考えていくと、それが正しいことをきちんと言えないことがわかります。働いてもらうための手段として報酬に差をつけることが必要な場合はあります。また労苦に応じた報いがあることも認められてよいでしょう。しかしそれも、そう大きな差を正当化するものではありません。

★ できる人が得をし、そうでない人はしょうがないという能力主義や業績原理は、我々の社会が是としているものです。しかし基本的には非と言えると私は考えています。しかし同時に、市場はたしかに便利なものでもあります。

★ 市場(しじょう)の中で生じる差を少なくする手だてとなるのが、三つの「分配」です。

★ 一つは、人がものをつくる材料となる生産財の分配。土地や鉄や石油はもちろん、知識や情報もそうです。それらが不均等に割り振られていたら、その結果としてできるものに不均等ができる。
例えば、アフリカのエイズの問題。1日に6、7千人の人が亡くなっています。生き永らえるための薬があるのに、値段が高すぎる。薬をつくるための知識が特許権によって守られ、一部の企業の製品しか買えないからです。

★ 二つ目は、労働の分配。技術革新で労働生産性は何倍にもなりました。世の中に必要なものをつくるのに、そんなに人はいらない。では、一部の人が働き、残りの人はのんびりしてはどうか。悪くない考えだが、働かない人の手取りは公的扶助を受けても働いている人より少なくなるし、お金のためというだけでなく働きたいと思う人もいるでしょう。他方、働く側は「なぜ自分たちだけ」と不満を持つかもしれない。
それなら、1人当たりの労働時間を減らし、働きたい人たちに仕事を割り振ればよい。生きるための手段を手段以上のものに祭り上げず、不要な競争や選抜をやめようという単純な提案です。

★ しかし、その上でも大きな差はできる。イチローがバットにボールを当てる能力は希少です。我々は野球が好きで、彼の能力への需要もある。一方、大切な仕事でも、多くの人ができるものがある。需要があるのに供給が少ないものに高値がつき、供給が多いものは安くなる。それは労働が市場で買われる限り避けられない。加えて、組織で力をもつ人が取り分を多くとり、非正規雇用の人が割を食うといったことも起こる。
それを最終的に補正するのが、政府が税金を取って分ける、所得の再分配です。

★ しかし最近は、税金が自分のための保険みたいなものとしか思われなくなっています。少子高齢化と言われ、老後が心配になり、自分1人のことをうまくやってくれるのが政府の仕事だと思う人が増えているのかもしれません。

★ 日本はこの20年くらいの間に課税の累進性、たくさん持っている人がたくさん税を払う仕組みを緩めてきた。何十兆円も歳入が減り、それを前提とした上で節約をしようして、社会保障や医療に手がつけられた。それで職を失う人、収入の少ない人が増えても、対応できなくなっています

★ 累進性を戻すだけでも、かなりのことができます。高額所得者がそれでやる気を失い、仕事をしなくなるとは思えないし、生活が上向いた人たちが働く意欲をなくすとも思えない。格差を小さくしたら人が働かなくなるという話は、信じない方がいい

★ この間、政治もメディアも、行政の無駄遣いを減らす、それでは限界があるから消費税を増やす、という2択に議論が膠着(こうちゃく)していたように見えます。その弊害は大きい。
政府は、多くあるところから少ないところに渡すという基本に立ち戻るべきです


◆ 先生に質問! 《記者からの質問》;働きや能力で得るものに差ができることに疑問を持ったのはなぜですか。

◆ 立岩教授の答え;よく聞かれますがよくわかりません。ただ、できるできないはどうしようもなくあって、基本はそれだけで、それで損得が生じるのはおかしい、という感覚はわりと早くからあったと思います。田舎の、地域の子はみな行く学校にいたから、学力の差は大きくて、でもだからどうなの、というところがあったかもしれません。そして、学問や社会思想というより音楽や映画や小説からの影響があると思います。そこらにあるのと別の価値観の方がよいと言われ、はいそのとおりと思ったということです
その上で、なぜ、おかしなことが仕方のないことだと、さらには正しいことだとされているのだろう、不思議だ、調べて考えてみよう、みたいな感じで、「学問」を始めたんだろうと思います。