Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

感覚

2013-07-18 11:29:47 | 日記

★ わたしは新人警官たちを訓練する際、最大の過ちは自分がなんでも知っていると過信することだ、と教える。「そんなことはありえないのよ」と言う。「わたしだって警官を六年やってるけど、今でも毎日新しいことを学んでいるわ。テクニック、人間の行動に対する洞察、法律のしくみ、それから自分の肉体の限界についても」

★ わたしは彼らに、恐怖を感じるのは名誉なことだが、そのせいで必要な行動を思いとどまるな、と忠告する。恐怖の導きがなければ、まちがいを犯す。恐怖がなければ、あっさり殉死しかねない。勇気と愚かさはまったく異なるものなのだ。

★ 警察学校も、いろいろなことを教える。
たとえば、訓練生に死の様相と匂いに対する心構えをさせる。そのために検死解剖や犯行現場の写真を見せるのだが、わざわざ一番むごいのを選んで熟視を促す。死んだ子供、残虐な殺され方をした男女、膨張した死体、ぐちゃぐちゃになった人体のパーツ。諸君が嗅いだことのないような匂いだ、制服や髪にくっついて消えないだろう、と教官は言う。

★ 子供時代はほとんど毎朝、酵母と小麦粉と、たまにシナモンの温かい眠気を誘う香りに包まれて名残惜しい気分で目覚めた。ベッドに横たわったまま、階下で五時から起きている母がたぶんまだカーラーを髪に巻いて、ふっくらと黄金色に焼きあがったパンを背にボストン・グローブ紙を読みながらコーヒーを飲んでいる姿を想像した。わたしの部屋に続くバスルームからは、少年時代を懐かしみながらうとうとしている父が陶製のバスタブの中で身動きするきゅっきゅっという音と、勢いのない水の音が聞こえた。

★ 春から夏にかけて、わたしたちの家は花と木の芳香に満ちる。松、藤、パンジー、レンギョウ、スミレの香りが、いつも外から、母がこよなく愛する庭から漂ってくる。母はよく薔薇や芍薬の花びらを集め、フレンチラベンダーやバジルを摘み、それらを手の中で押しつぶして言った。「ほら、嗅いでごらん」弟とわたしは言われたとおりにした。母の手の土っぽい温かさを嗅いだ。その後何年も経って、わたしは恐怖を感じたときにその優しさを懐かしく思い起こした。

★ 視覚や触覚と同じく、聴覚も生き抜くためには不可欠だと新人警官たちに話す。音はしばしば悪い状況を示す最初の手がかりだからだ。聴覚は未発達な感覚で、わたしは親の声を識別しようとする子供のように最初はただ貪欲に耳を傾けていたが、ジョニーから不明瞭な音と明瞭すぎる音の聞き取り方を教わった。空気の層を一枚一枚はがしていくように一心不乱に見て聞くので、その緊張から頭痛持ちになった。声の調子、金属が触れ合うかすかな音、タイヤのきしみ、あるいは音がしないことも含めて、音は多くの秘密を明かしてくれる。

★ ある晩、ミシシッピ河の堤防で、ジョニーやジョーや他の非番の同僚と宴会を開き、無駄話をしたり、思いつきのくだらない質問をしていたときのことだ。「きみの子供時代の音はなんだい?」そう訊かれて、レンガ塀にぶつかった気分だった。返事も音も浮かばなかった。

★ いらいらしながら、自分の子供時代を定義づける音を必死で探した。その音で、かつて子供だった自分と警官になった自分をまとめて理解できるような気がした。

★ とうとう、ある音を子供時代の象徴として認識できた。
それは触感や匂いや視覚と切っても切れない関係にあった。わたしは生まれ育った家の奥にある二階の自分の部屋に、裸足で立っていた。あたりには本が散乱していた。窓から昼間の光が射し込んで、わたしから二歩離れたところにあるハシバミ色のラグに光の模様を描き出し、細かい塵をけだるげに漂わせ、草と地面の甘い香りでわたしを包んだ。
音は何もなかった。無音が音だった。深い、待っている静けさだ。家族はみんな外に、どこか他の場所にいた。

★ すべてがその静寂の中で止まった。死ぬ前の最後の鼓動だ。わたしは家の中に一人きりでいた。一人で待っていた。自分の人生の先端で待ち、まるで世界全体が宇宙の峡谷の崖っぷちで息を止めているようだった。何かが起こりそうで、その子供と警官と女が記憶の中で一つになる。その感覚こそ生きる力だ。

<ローリー・リン・ドラモンド『あなたに不利な証拠として』(ハヤカワ・ミステリ2006)>








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