Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

不破利晴への手紙09-12-16

2009-12-16 10:46:33 | 日記
★ Unknown (不破利晴)2009-12-16 01:13:07

Twitter(ツイッター)の登場以来、もしかしたらある程度の長文ブログが一時的に少し下火になったのかもしれませんね・・・。
世間は断片的な言葉を好むということなのでしょうか?その辺はもう少し動向を見守る必要がありそうです。

ところで、早速立岩真也を読んでいます。
この方はなんとも不思議な方ですね。
一言で言えば社会学者なんでしょうけど、哲学的な雰囲気を醸し出すこと多し。また、非常にフランクで決して難しい文面でないのにも関わらず、不思議と頭に「ストン!」と入ってこないのです。いつの間にか眠ってしまって駅をオーバーランしている。
まだ、何を言いたいのか今ひとつ理解できていません(苦笑)
目次を見る限り、非常に!そそられるのですが・・・。

やはり、帰りの電車で読むのがいけないのかもしれません。最近は薬を飲んでいるので、結構夜はぐらぐら状態だったりします。
この本は朝の通勤時間に読み、新聞を帰りの通勤にシフトしてみます。





★ 返信warmgun

まさに。
立岩真也の“文体=語りかた”こそが、“不思議”だ。
ぼくはこういう“文体”を読んだことがない。
だが、これこそ日本語で考えている“自然な”文体であるとも感じる。

ところが、たしかにこの“語り”は、読みやすくない。
すなわちぼくらが、いかに、“(海外思想の)解説書の文体”に慣れているかということだ。

ぼくは現在の書き手で、小説家以外のひとでは、“社会学系”のひとがいちばん“リアルな”仕事をしていると思う。
“精神分析系”や“美術史系”も面白い(可能性がある)
つまり“文芸評論系”は柄谷行人を最後に凋落した(小森陽一のようなひとは、社会学的である)
ひどいのは、ノンフィクション系(ルポライター)、ようするに“ジャーナリスト”だ。
“法科系”とか“政治・経済系”というのは、最悪ではないか(笑)

もちろん、“非アカデミズム系”のポップ・カルチャー(“ポスト・モダン”)・オタクにもまったく可能性なし。
柄谷風に言えば《江戸時代の町人》だ。
“江戸時代の町人”が明治維新以後どういう運命をたどったかを見ればいい。
羊のようにセンソーに駆り出されたのだ。

社会学系の日本人では、ぼくはこの立岩と大澤真幸を、“並べて”読みたい。
大澤はとてもするどいが、彼のスタイルも高度だがやはり“解説屋”ではないだろうか(解説屋も必要なのだが)
つまりこれまでの日本の言説の最先端だが、立岩には、これを(大澤を)越える可能性を見る。