Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;欲望

2009-12-27 13:37:09 | 日記
日本には、精力的に海外思想を紹介することに奮闘した(奮闘する)人々がいた(いる)。

彼らは、まず“翻訳者”であり、“研究者”であり、“解説者”である。

徳永恂、もそうだ。
木田元、野村修、宇波彰、清水徹、豊崎光一、宇野邦一、鵜飼哲・・・・・・いくらでもいる。
大江健三郎も、ある意味でそうである。

戦後海外思想の紹介者として、2007年に死去した今村仁司をわすれることはできない。
“原書”をいきなり読むことができない、外国語ができないアマチュアであるぼくのようなものは、かれらに対する“恩義”をわすれることはできない。

とくに講談社の“現代思想の冒険者たち”シリーズは、ぼくにとって画期的であった。
このシリーズの編集の中心にいたのも、今村氏であった(その他の編集者は、三島憲一、野家啓一、鷲田清一である)


にもかかわらず、ぼくは今村氏自身の本には、なぜか取っつきが悪いのである(笑)
最近これを反省して彼の晩年の著書『抗争する人間』を読んでみた。

この本の最初で、今村氏は、人間を《欲望する人間》として捉えるという。
これは納得できる。

そしてその<欲望>を三つのアスペクトに分ける;
① 身体的欲望(自然との関係)
② 社会的欲望(他人との関係)
③ 想像的欲望(聖なるものとの関係)

これも納得である。

それどころか、このあとに素晴しい認識がくる;

★ 欲望はそれ自体としては真空である。

★ 指輪が作る空白に見られるように、物体(金属)がなければ丸い空白はないが、空白は自然的物体ではない。指輪の空白は自然物体のなかにはない何ものかであり、自然のなかで非自然として出現する。それと同様に、欲望は、自然のなかで、それを前提にして、それとの何らかの関係において、非(反)自然として出現する。


ところが(笑)次に、この三つの欲望の“充足様式”というのがある;

① 身体的欲望は労働を生み出し、労働様式は身体的欲望の充足様式である。
② 社会的欲望は威信または虚栄心を求める欲望であり、自己価値を複数の他人に承認させることをめざし、この欲望の充足様式は観念的にして物質的な競争と闘争である。
③ 想像された聖なるものにたいする欲望は、負い目を返す形で充足される、すなわち、その充足様式は感情の原則としては自己の生命の贈与または供儀(くぎ)である。それはしばしば代理の供儀の提供という形式をとる。


ぼくはこの①に、“つまずいて”しまう。
いまこの部分を要約していて、③にもつまずく。
とにかくこの①には、納得しがたい。

このあと、<想像上の親殺し(母・父の象徴的殺害)>とか、例の<オイディプス>とかのフロイト的概念がバババっと展開されるにもかかわらず。

ぼくは“身体的欲望”といのは、<労働>ではなくて、<セックス>だと“認識”している(笑)

上記の“指輪の比喩”の、<空白>も、ぼくには“セックス”の比喩として読めたので感動的であった(ぼくは“セックス・ノイローゼ”であろうか?;爆)

この本全体を読めば、この“つまずき”は解消されるのだろうか?



<蛇足>

ぼくの<妻>によれば、ピアニストのグルダは、”芸術はすべてセックスだ”といったそうだ。

明瞭な<定義>である。





Snapshot;ディアスポラ

2009-12-27 13:34:01 | 日記

なぜ“ユダヤ人”は優秀か?

かれらが歴史的に“さまよってきた”からではないか。
つまり彼らが、定住地を建国したときから、かれらは優秀ではなくなったのだ(笑)

いやいやぼくには、ユダヤ人差別などはない。
それどころか、フロイト、ベンヤミンからボブ・ディランまで、“ユダヤ系”のかたがたの優秀さには、敬意を払う。

ぼくにとって重要なのは、なぜユダヤ人が優秀かということではなく、<さまよう>ということである。

たまたま昨夜読んでいた本に、この問題の“定式化”があった。

ミシェル・ド・セルトーという、ぼくの知らなかった思想家の考えである;
《自分のところにいながら異人であるようなポジション》(上野俊哉+毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』;ちくま新書)

説明が必用だろうか。
ある時代の“ユダヤ人”なら、このポジションは“客観的条件”として存在した。

しかし、セルトーというひとが言っているのは、自分の故郷(国)で、<異人である>ような存在なのだ。

自分の<日常>で、<異人>であることである。





Snapshot;ユダヤ人

2009-12-27 13:30:30 | 日記

ユダヤ人にかんする“負のイメージ”には、<金貸し>というものがある。

しかし、そもそもユダヤ人が金貸しになったのは、キリスト教徒が、みずからの手を汚したくなかったという歴史があったらしい。
(たとえば徳永恂 『ヴェニスからアウシュヴィッツへ』を参照)

これはまったくの(歴史的)皮肉ではないか。

現在の世界金融市場を牛耳るのも、“ユダヤ人”なのであろうか。

あるいは、世界中が“ユダヤ人”になったのであろうか。




不破利晴への手紙 09-12-27

2009-12-27 10:38:16 | 日記

★不破利晴コメント(“Snapshot;;<マス>メディア”に対して)

Unknown (不破利晴)
2009-12-27 00:18:40
「革命」と聞いて、いろんな思いが錯綜し、コメントではなく、結局記事になってしまいました(苦笑)



★返信

昨夜寝る前に君の“2012”を読んだんだが、ぼくのブログへの<反応>とは、思わなくてさ(笑)

君が<革命>という言葉に反応してくれたのは、うれしいが。

ただ、ぼくが<革命>という言葉を、いま使うなら、あんまり<行動>のことはイメージしてなくて(イメージできなくて)ね。

ぼくとしては、いま好きなのは<新しい天使>でね(笑)
天使というのは、宗教的な概念だし、ベンヤミンの場合も“ユダヤ教”は無視し得ない。
けれどもぼくは、宗教的でも(いわゆる)マルクス“主義”的でもない<天使>を夢想するわけ。

ベンヤミンの文章自体がそれを<告知>していると感じる。
ぼくはずっと、ぼくにとって“中心となる人物”をさがしてきた。
ずっとサルトル、メルロ=ポンティ以降のレヴィ=ストロース、フーコー、ドゥルーズ、デリダのようなフランス思想をフォローする必要を感じてきて、それを放棄していない。
彼らはそれぞれ違っているが、そこには決定的に新しいものがあると思う。

さらに“その背景”には、マルクス、ニーチェ、フッサール(現象学)があり、さらにその背景にカント、ヘーゲルがいる。
そしてフロイト―ラカンがいる。
最低でもこれらのひとびとについて、自分なりのなんらかの手応えを得たいと思う。

ただこれらの人々のなかで、だれを<中心>とするかで迷ってきた。
そこにベンヤミンがあらわれた。
そしてやっぱりフロイト(笑)

ぼくは<哲学>をやりたいわけではないし、<社会思想>という“くくり”のほうが、ぼくの問題意識に近い。

また、“テクストかひとか”という次元があり、実は、ぼくはけっこう<ひと>なんで、ベンヤミンという<ひと>に惹かれる(もちろんベンヤミンの“テクスト”も最上だと思うが)

そして、当然さらに、“本を読む”こととは別次元の、<行動>があることは、ぼくも了解している。
しかし、この<最後の行動>については、ぼくには“自発性”は、ぜんぜん予想できない。

まさに、君が言うような<危機>が到来する可能性がある。
その時は、ぼくは“巻き込まれる”だけだと思う。
あるいは、その時、ぼくがいかに<行動>できるかは、まったくの未知だと思う。

そういう<意味>では、ぼくに<主体性>など残念ながら、まったくない。
しかし、現在進行形でぼくがやること、本を読むことも行動=実践であると考える。

つまりぼくは<革命のために>準備したりはしない。
こういう言い方は、一種の<逃げ>でもあるが、むしろ<革命>はひとつの出来事(エポック)ではなく、まさに日々実践されることだと思う。

結局、“マルクス主義的な”<革命>のまちがいは、歴史的必然により、矛盾がピークに達したときに、革命が起こり、“理想社会が”実現する、という神話だ。

そういう<意味>では、<理想社会>などこない。
これは<天国や地獄がない>ことと同じように明解なことである(笑)

まさにこのような<発想>が、くるっている。

ぼくたちは、自分の人生も、この社会も、完全にコントロールすることなど、決してできない。
だからあきらめるのではなく、放棄するのではなく、居直るのではなく、<考えつづける>わけである。

つまり、たとえば、ベンヤミンのような(もちろんベンヤミンひとりではない)根源的な思索者も“偶然(運命)”に翻弄された。
まさに<その渦中で>考えたのだ。

ぼくはそういう<人間の実在>しか信じないし、興味もない。

ぼくらは、“結論を出す=結論を出し、実践的指針を与える”ためだけに考えているのではない。
そう“考える”ことも必要であり、この世の具体的悲惨にたいして、異議を提出し、少しでもその現状を変えることは、必要だ。

しかし、そのためだけに考えるなら、その“現実的効果”は、いつも皮相なものにとどまる。

<永続革命>とは、派手派手しい“スローガン”にあるのではなく、まさに、この日々をどう生きて、死ぬのかという<実践>、この<ぼく>という人生のただ一度の実践にある。

ぼくや君の<孤独なたたかい>は、他者と世界との関係が錯綜するこの<社会=環境>のただなかでの日々の行動=実践なのだ。