日本には、精力的に海外思想を紹介することに奮闘した(奮闘する)人々がいた(いる)。
彼らは、まず“翻訳者”であり、“研究者”であり、“解説者”である。
徳永恂、もそうだ。
木田元、野村修、宇波彰、清水徹、豊崎光一、宇野邦一、鵜飼哲・・・・・・いくらでもいる。
大江健三郎も、ある意味でそうである。
戦後海外思想の紹介者として、2007年に死去した今村仁司をわすれることはできない。
“原書”をいきなり読むことができない、外国語ができないアマチュアであるぼくのようなものは、かれらに対する“恩義”をわすれることはできない。
とくに講談社の“現代思想の冒険者たち”シリーズは、ぼくにとって画期的であった。
このシリーズの編集の中心にいたのも、今村氏であった(その他の編集者は、三島憲一、野家啓一、鷲田清一である)
にもかかわらず、ぼくは今村氏自身の本には、なぜか取っつきが悪いのである(笑)
最近これを反省して彼の晩年の著書『抗争する人間』を読んでみた。
この本の最初で、今村氏は、人間を《欲望する人間》として捉えるという。
これは納得できる。
そしてその<欲望>を三つのアスペクトに分ける;
① 身体的欲望(自然との関係)
② 社会的欲望(他人との関係)
③ 想像的欲望(聖なるものとの関係)
これも納得である。
それどころか、このあとに素晴しい認識がくる;
★ 欲望はそれ自体としては真空である。
★ 指輪が作る空白に見られるように、物体(金属)がなければ丸い空白はないが、空白は自然的物体ではない。指輪の空白は自然物体のなかにはない何ものかであり、自然のなかで非自然として出現する。それと同様に、欲望は、自然のなかで、それを前提にして、それとの何らかの関係において、非(反)自然として出現する。
ところが(笑)次に、この三つの欲望の“充足様式”というのがある;
① 身体的欲望は労働を生み出し、労働様式は身体的欲望の充足様式である。
② 社会的欲望は威信または虚栄心を求める欲望であり、自己価値を複数の他人に承認させることをめざし、この欲望の充足様式は観念的にして物質的な競争と闘争である。
③ 想像された聖なるものにたいする欲望は、負い目を返す形で充足される、すなわち、その充足様式は感情の原則としては自己の生命の贈与または供儀(くぎ)である。それはしばしば代理の供儀の提供という形式をとる。
ぼくはこの①に、“つまずいて”しまう。
いまこの部分を要約していて、③にもつまずく。
とにかくこの①には、納得しがたい。
このあと、<想像上の親殺し(母・父の象徴的殺害)>とか、例の<オイディプス>とかのフロイト的概念がバババっと展開されるにもかかわらず。
ぼくは“身体的欲望”といのは、<労働>ではなくて、<セックス>だと“認識”している(笑)
上記の“指輪の比喩”の、<空白>も、ぼくには“セックス”の比喩として読めたので感動的であった(ぼくは“セックス・ノイローゼ”であろうか?;爆)
この本全体を読めば、この“つまずき”は解消されるのだろうか?
<蛇足>
ぼくの<妻>によれば、ピアニストのグルダは、”芸術はすべてセックスだ”といったそうだ。
明瞭な<定義>である。
彼らは、まず“翻訳者”であり、“研究者”であり、“解説者”である。
徳永恂、もそうだ。
木田元、野村修、宇波彰、清水徹、豊崎光一、宇野邦一、鵜飼哲・・・・・・いくらでもいる。
大江健三郎も、ある意味でそうである。
戦後海外思想の紹介者として、2007年に死去した今村仁司をわすれることはできない。
“原書”をいきなり読むことができない、外国語ができないアマチュアであるぼくのようなものは、かれらに対する“恩義”をわすれることはできない。
とくに講談社の“現代思想の冒険者たち”シリーズは、ぼくにとって画期的であった。
このシリーズの編集の中心にいたのも、今村氏であった(その他の編集者は、三島憲一、野家啓一、鷲田清一である)
にもかかわらず、ぼくは今村氏自身の本には、なぜか取っつきが悪いのである(笑)
最近これを反省して彼の晩年の著書『抗争する人間』を読んでみた。
この本の最初で、今村氏は、人間を《欲望する人間》として捉えるという。
これは納得できる。
そしてその<欲望>を三つのアスペクトに分ける;
① 身体的欲望(自然との関係)
② 社会的欲望(他人との関係)
③ 想像的欲望(聖なるものとの関係)
これも納得である。
それどころか、このあとに素晴しい認識がくる;
★ 欲望はそれ自体としては真空である。
★ 指輪が作る空白に見られるように、物体(金属)がなければ丸い空白はないが、空白は自然的物体ではない。指輪の空白は自然物体のなかにはない何ものかであり、自然のなかで非自然として出現する。それと同様に、欲望は、自然のなかで、それを前提にして、それとの何らかの関係において、非(反)自然として出現する。
ところが(笑)次に、この三つの欲望の“充足様式”というのがある;
① 身体的欲望は労働を生み出し、労働様式は身体的欲望の充足様式である。
② 社会的欲望は威信または虚栄心を求める欲望であり、自己価値を複数の他人に承認させることをめざし、この欲望の充足様式は観念的にして物質的な競争と闘争である。
③ 想像された聖なるものにたいする欲望は、負い目を返す形で充足される、すなわち、その充足様式は感情の原則としては自己の生命の贈与または供儀(くぎ)である。それはしばしば代理の供儀の提供という形式をとる。
ぼくはこの①に、“つまずいて”しまう。
いまこの部分を要約していて、③にもつまずく。
とにかくこの①には、納得しがたい。
このあと、<想像上の親殺し(母・父の象徴的殺害)>とか、例の<オイディプス>とかのフロイト的概念がバババっと展開されるにもかかわらず。
ぼくは“身体的欲望”といのは、<労働>ではなくて、<セックス>だと“認識”している(笑)
上記の“指輪の比喩”の、<空白>も、ぼくには“セックス”の比喩として読めたので感動的であった(ぼくは“セックス・ノイローゼ”であろうか?;爆)
この本全体を読めば、この“つまずき”は解消されるのだろうか?
<蛇足>
ぼくの<妻>によれば、ピアニストのグルダは、”芸術はすべてセックスだ”といったそうだ。
明瞭な<定義>である。