なぜ“ユダヤ人”は優秀か?
かれらが歴史的に“さまよってきた”からではないか。
つまり彼らが、定住地を建国したときから、かれらは優秀ではなくなったのだ(笑)
いやいやぼくには、ユダヤ人差別などはない。
それどころか、フロイト、ベンヤミンからボブ・ディランまで、“ユダヤ系”のかたがたの優秀さには、敬意を払う。
ぼくにとって重要なのは、なぜユダヤ人が優秀かということではなく、<さまよう>ということである。
たまたま昨夜読んでいた本に、この問題の“定式化”があった。
ミシェル・ド・セルトーという、ぼくの知らなかった思想家の考えである;
《自分のところにいながら異人であるようなポジション》(上野俊哉+毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』;ちくま新書)
説明が必用だろうか。
ある時代の“ユダヤ人”なら、このポジションは“客観的条件”として存在した。
しかし、セルトーというひとが言っているのは、自分の故郷(国)で、<異人である>ような存在なのだ。
自分の<日常>で、<異人>であることである。