Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

Snapshot;通じない

2009-12-30 13:15:17 | 日記

ことしの“ぼくの言葉”を選ぶなら、<通じない>ですね。

まあ、この言葉は、これまでもぼくにつきまとってきたわけです。
今年この言葉が、フィーチャーされるのは、自分が年を取れば取るほど、“若者”と言葉が通じないということが明瞭になったということ。

この<若者>というのが何歳までなのかもは明瞭でないし(つまり50代前半くらいでもぼくには若者と感じられる;笑)、もともと同世代および年上には期待していないので。

つまりぼくの“同世代および年上”というのは、“ロック”を自分の生活としていないひとたちなのよ。
しかし、“ロックを自分の生活としている”<若者>にも、通じないことが、明瞭になったということ。

まあ“ぼくのブログ”の言葉が通じないのはいいんだが、ぼくが<引用している>言葉が、“通じないだろうなー”と思いながら引用しているわけよ。

たとえば、ベンヤミン。

ぼくが高校や大学一般教養課程の先生なら、ベンヤミンの“ゲーテの『親和力』”を一緒に読むよ(翻訳でよ)

そうしたら、“互いに”いかに、(ベンヤミンをとおして)、<日本語>が通じないかがわかる。

その<通じなさ>を乗り越えていくのが、<教育>でしょ。

もちろんベンヤミンだけが教材である必要はないが、やっぱり“ローマ皇帝の言葉”より“最近”(笑)のほうがいいよ。

年寄りと若者の言葉が、通じないというのは、もちろん年寄りの方にも責任が(欠点が)あるんだが、それを若者が、非難することで自己満足してたら、文化は継続しない。

しかも<若者>というのは、あらゆる意味で、年寄りに依存しているのよ(ぼくも前世代に依存してきた)<注>
そもそも君に母がいなかったら、君は存在すらしていない、“生まれてこなけりゃよかった”という愚痴さえ言えない。

自分が依存しているものを、けなして自己満足していても、ただ“そしてなにもかもみんななくなってしまった”状態にしかならない。

まさにいま、この社会で進行しているのは、こういう事態だ。

自分が、なぜか永遠に年を取らないと誤解した<若者>たちの、“自己満足パーティー”的状況しか目にできないと、やっぱり<滅び>を感じる。

ぼくたち年寄りは、悲惨だが<自然死>できるかもしれないが、現在の若者たちを待っているのは、このままでは、まったく未知の<滅び>のような気がして、おせっかいだが、なんとかしなくちゃ、と思うのさ。

つまり不破君が書いていた“映画2012”のようなステロタイプ(どっかで見たような)じゃない滅びさ。




<注>
ここでぼくが”依存”といっているのは、もちろん経済的なことでもあるが、むしろ精神的なことである。

この”精神性”において、ぼくの世代以後の世代には、”精神性”の次元において、<オリジナル>なものは、ひとつもない(ひとつも現れていない)と思う。




Snapshot;戦後ニッポン教育の成果

2009-12-30 11:55:02 | 日記
妻が関与している若年性パーキンソン患者掲示板が閉鎖に追い込まれた。

この経緯については、このブログを見てくださっている方々には“関係ない”ので説明しない(説明できない)。

ただ、同じネット(WEB)上の事件として、<教訓>をのべる。

掲示板を閉鎖に追い込んだのは、“患者でないひと(患者の周辺のひと)”及び、この掲示板を運営してきた人々に比べて“若い”人々だったことだ。

ぼくは傍観者でしかなかったが(投稿していない)、掲示板を運営する側にも落ち度があったと思う。

ぼくが管理人だったら、即座に削除する(理由をのべて)投稿を、<お人好し>および<民主的運営>のために、放置したことだ。

そして閉鎖をもたらした側の<若者>たちには、この掲示板にかぎらない、奇妙な共通点を感じた。

それは、<なにごとにも“すでに”正解がある>という感覚とロジックである。
もうひとつは、彼らの<日本語>の誤使用である。

日本語をまともに書けない人々にも、自由に書けるスペースがもたらされたことは、戦後民主主義の快挙であった。

しかもそのひとびとが、その小さな頭で、<自分は正解を知ってる>あるいは<どっかに正解がある>という狂信を前提にして“議論”している。

ぼくは<狂信>ほど恐ろしいものはないと思う。
あらゆる“ファシズム的なもの”は、この狂信によってもたらされたのだ。

この狂信によってもたらされるだろう。

あらゆるファシズムも、正解=正義を名のった。



★ 3万人といえば東京マラソンで銀座通りを埋めるランナーの数にほぼ相当する。今年も11月末時点で全国の自殺者がそれを超えた。12年連続である。(今日朝日社説)


<今年>も紅白歌合戦などを見て、“いつものように”年を越す人々がいる。

しかし今年の自殺者を抱えた家族にとっては、“いつものよう”ではない。

ぼくがこういう風に書くのは、<恫喝(おどし)>だろうか。
いつもいつも、“よいことだけを見て”、“前向きに”生きるべきであろうか。

すべての悲惨を忘れて、他人事として、“平常心”で生きる生き方が、それほど推奨されることであろうか。

世界や他者への不充分な<想像力>を稼動させることは、そんなにも“割にあわない”重労働であろうか。

いつもいつも自分だけ。
せいぜい自分が“愛する”ひとだけ。
すなわち、自分を“愛する”ひとだけ。

たしかに口先の共感・同情こそ唾棄すべきものである。

しかしこの生きがたさの共感において、不完全-不充分な自分の生き方において、まだどこにもない<正解>をさがし、偽の正解をいうものの虚偽にあらがうことは、自分が人間であることのささやかな証明である。




“ひいてしまうひと”は、ひいてしまえばいいんじゃない

2009-12-30 03:05:24 | 日記
『カルチュラル・スタディーズ入門』を読み終わった。
この本は2000年の発行だから、もう10年ちかく前になるんだな。
書いている二人も当時40歳前の“若者?”だったが、もう50歳を目前にしているわけだ。
(どうも最近、歳のことが気になって、いかん;笑)

この一応イギリス発祥の“学問”については、いろいろ勉強になったよ。
しかし、最後の方の以下のような部分には共感できないぜ;

★ 正しい批判や分析や反省の言葉が、日常生活のある局面で、ある人々に対して一種の「恫喝」や「威し」になってしまうような文脈がある。つまり、植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実を強調すればするほど、あるいはここではないどこかの「受苦者」のおかれた現実の悲惨さに焦点を当てればそうするほど、聞き手の方はむしろ引いてしまう、というジレンマがある(言葉が相手を黙らせるとき、たとえそれが正しい内容であっても、それは一種の暴力として機能している)
(以上引用)


ここでこの筆者が、“なにを言いたいか”は、ぼくには、もちろん、わかります。

けれども、こういう文章を読むと、やっぱ大学のセンセイはダメだなー、と思う。

つまり《相手がむしろ引いてしまう》とか、《たとえそれが正しい内容であっても、それは一種の暴力として機能している》などと言えるのは、あまりにも“余裕”があるひとの態度なのである。

ぼくには、そんな余裕はありません。
つまり余裕があるってことは、<その問題が>自分の問題ではないってことよ。

あるいはそれは、<自分=ぼく=俺=warmgun>が言っている(書いている)ことがいつも<正しい>と思っていないということなんよ(笑)

さらに、《あるいはここではないどこかの「受苦者」のおかれた現実の悲惨さ》というのは、誰のことなんだろう。
もし《あるいはここではないどこか》というのが、《日本以外のどこか》を意味するなら、ここでこの筆者が言っていることは、まったく駄目だ。

たしかに、ぼくにとって、いちばん関心があることは、目前の自分の生活ですよ。

《植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実》
ではありません。

あたりまえだろ!(爆)

しかし、ぼくは《植民地主義、帝国主義、グローバル資本主義・・・・・・などの過去と現在の暴力的かつ操作的な現実》にも、関心をもつときがあるわけよ。

だから、ブログに“それ”を書くこともある(あった)かもしれない。
でもそれは、“引いちゃうひと”を<説得>するとか<啓蒙>するなどといった、“おそれおおい”ことじゃないんだ。

ぼくが、<ガザ>で負傷した女の子の写真や、おなじくガザで瓦礫に埋もれた少女の手の写真を出すのは、これを見た人を<恫喝>するつもりなんか、まったくないんだよ。

ぼくが、その時、見たかった写真なんだ。

ああ3時近くで眠くなって、もう書くのが(考えるのが)めんどうだ。

“暴力的でない言葉”なんて、あるわけないよ、それが言葉なら。

どうも基本的なことがわからないひとが多すぎて、<啓蒙>なんてしようがない。

もちろんぼくも、なんにも分かってなんかいない。

さあ、寝るぜ。