今年2009年も出会いがあった。
平出隆『猫の客』、青山真治「ホテル・クロニクルズ」
すぐ思い浮かぶのは、この2冊。
しかし、まだ充分ではない出会い、まだ無意識にもぐり地層となったさまざまな断片=言葉=映像があった。
まさに未来(2010年)へと継続される<潜在性>がある。
これらの言葉=映像が、ぼくとして、いつ表出できるのかも不明であり、結局、それらは突然の中断をむかえるのだろう。
それらの言葉=映像が(あるいは音のインタープレイが即興が)、ぼくという小さく・瞬間的な実存にただとどまるのではなく、すこしでも、このひとかけらの断片として、あなたに、とどくことを願う。
ヴァルター・ベンヤミン。
野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー)の最初に引用された<三つの天使像>の2番目の天使から引用する(なおこの翻訳は、『ベンヤミン・コレクション3』(ちくま学芸文庫)の最初にもあるが、ぼくはこの初めて読んだ野村氏の翻訳文に愛着がある);
★ 天使はしかし、ぼくが別れてこざるをえなかったすべてのものに、人間たち、とりわけ物たちに、似かよってゆく。ぼくの手にもはやない物たちのなかに、かれは住まう。
★ かれは物たちを透明にする。するとあらゆる物の背後からぼくには、それをぼくが贈りたいひとの姿が、見えてくるのだ。だから贈ることにかけては、ぼくは誰にもひけをとるはずがない。
★ そう、ひょっとしたら天使は、何ひとつ手許に残さず贈りものにしてしまう男に、誘い寄せられてきたのかもしれぬ。なぜならかれ自身は、鉤爪をもちするどい刃のような翼を持ちながらも、見られた相手に襲いかかるようなそぶりは、まったく見せないのだから。かれはその相手を吸い込むように見つめる――長いあいだ。そしてそのあと断続的に、しかし容赦なく、後退する。なぜか?相手を引きずってゆくために。じぶんがやってきた道、未来へのあの道を辿って。
★ かれはその道をよく知っているので、振り返らなくても、じぶんが選んだ相手から眼を放さなくても、最後まで道を誤りはしない。かれが望む幸福は矛盾していて、そのなかでは一度限りのもの、新しいもの、まだ生きられていないものの恍惚が、再度のもの、取り戻されたもの、生きられたもののあの至福と共存するのだ。
★ したがって、かれが新しいものを期待できるのは、ひとりの新しい人間を連れて帰還する途上でだけである。ぼくもかれと同じだった。ぼくはきみをはじめて見た瞬間から、きみとともに帰っていったのだ、ぼくがやってきたところへ向かって。
<ヴァルター・ベンヤミン;“アゲシラウス・サンタンデル”第2稿(1933年8月成立;ベンヤミン亡命の約5ヵ月後)>
*野村氏の訳注によると、上記の文章(引用はその後半部分)は、遺稿としてゲルショム・ショーレムのエッセイ「ヴァルター・ベンヤミンとかれの天使」(1972)のなかで、はじめて発表された。