Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

新しい天使

2009-12-26 16:02:34 | 日記


今年2009年も出会いがあった。

平出隆『猫の客』、青山真治「ホテル・クロニクルズ」

すぐ思い浮かぶのは、この2冊。
しかし、まだ充分ではない出会い、まだ無意識にもぐり地層となったさまざまな断片=言葉=映像があった。

まさに未来(2010年)へと継続される<潜在性>がある。
これらの言葉=映像が、ぼくとして、いつ表出できるのかも不明であり、結局、それらは突然の中断をむかえるのだろう。

それらの言葉=映像が(あるいは音のインタープレイが即興が)、ぼくという小さく・瞬間的な実存にただとどまるのではなく、すこしでも、このひとかけらの断片として、あなたに、とどくことを願う。


ヴァルター・ベンヤミン。

野村修『ベンヤミンの生涯』(平凡社ライブラリー)の最初に引用された<三つの天使像>の2番目の天使から引用する(なおこの翻訳は、『ベンヤミン・コレクション3』(ちくま学芸文庫)の最初にもあるが、ぼくはこの初めて読んだ野村氏の翻訳文に愛着がある);


★ 天使はしかし、ぼくが別れてこざるをえなかったすべてのものに、人間たち、とりわけ物たちに、似かよってゆく。ぼくの手にもはやない物たちのなかに、かれは住まう。

★ かれは物たちを透明にする。するとあらゆる物の背後からぼくには、それをぼくが贈りたいひとの姿が、見えてくるのだ。だから贈ることにかけては、ぼくは誰にもひけをとるはずがない。

★ そう、ひょっとしたら天使は、何ひとつ手許に残さず贈りものにしてしまう男に、誘い寄せられてきたのかもしれぬ。なぜならかれ自身は、鉤爪をもちするどい刃のような翼を持ちながらも、見られた相手に襲いかかるようなそぶりは、まったく見せないのだから。かれはその相手を吸い込むように見つめる――長いあいだ。そしてそのあと断続的に、しかし容赦なく、後退する。なぜか?相手を引きずってゆくために。じぶんがやってきた道、未来へのあの道を辿って。

★ かれはその道をよく知っているので、振り返らなくても、じぶんが選んだ相手から眼を放さなくても、最後まで道を誤りはしない。かれが望む幸福は矛盾していて、そのなかでは一度限りのもの、新しいもの、まだ生きられていないものの恍惚が、再度のもの、取り戻されたもの、生きられたもののあの至福と共存するのだ。

★ したがって、かれが新しいものを期待できるのは、ひとりの新しい人間を連れて帰還する途上でだけである。ぼくもかれと同じだった。ぼくはきみをはじめて見た瞬間から、きみとともに帰っていったのだ、ぼくがやってきたところへ向かって。

<ヴァルター・ベンヤミン;“アゲシラウス・サンタンデル”第2稿(1933年8月成立;ベンヤミン亡命の約5ヵ月後)>


*野村氏の訳注によると、上記の文章(引用はその後半部分)は、遺稿としてゲルショム・ショーレムのエッセイ「ヴァルター・ベンヤミンとかれの天使」(1972)のなかで、はじめて発表された。





Snapshot;<マス>メディア

2009-12-26 12:33:55 | 日記
現在テレビ=新聞=ネットを中心とする<“マス”メディア>ほど不快なものはない。

<大学教授>も不快である、かれらの多くもメディアに加担している。
あらゆる<広告屋>は、不快である。
もちろん<太鼓持ち>タレント(毒舌!爆笑!いいとも!)が、不快である。

彼らは“確信犯的”嘘つきである。

マスメディアに“右”とか“左”とかの差異もない。
かれらは皆、“グル”である。

かれらは、“この社会で”有利なポジションを占めれば占めるだけ、<保身>にしか関心がない。

ゆえに、持てる者は、現状を死守する。
現状を批判してみせるという<芸>でも、死守する。

かれらの辞書には、<革命>という言葉がないだけではなく、<革新>という言葉もなく、せいぜい<改革>とか<改良>とか言ってみせるだけである。

かれらの言っていることは、“あなたもわたしも<エゴ>だから、<安全>を脅かすものはすべて避けようね“という予定調和的<共感>のみである。

かれらの“リベラリズム”は、<自由>についての考察・認識をまったく欠いている。

そもそも<自由>について、みずから考えたことがないのだ。
<リベラリズム>をおびやかす、<悪>や<暴力>についても、彼らはなにも考えられない。
せいぜい、国立オンボロ大学とか留学先のカリフォルニアだかで、“おそわった”ことを、鵜呑みにしてきただけである。

かれらは、自分が保守しているものさえ認識しない。
いや、自分が死守しているのが、自分の社会的ポジションでしかないという、あまりにも単純な<真実>を、誤魔化すためにのみ“活動”している。

かれらに必要なのは、この絶対的<格差>である。

格差がなければ、誰にも自慢できないし、自己満足できないのである。


すなわち、“公正な報道”が自分たちに都合が悪くなれば、報道しない。


ただそれだけ。





Snapshot;笑う

2009-12-26 11:14:33 | 日記
▼乗り継ぎを入れても東京から広島まで3時間かからない。とはいえ、かつて新幹線を「夢の超特急」と呼んだ高揚感はいま一つだ。追われるように先を急ぐ人生に、さらにムチが入るだけではないか――。重ねた齢(よわい)のせいか、技術への期待は昔ほど素朴ではない▼その昔、「急行」が初めて走ったときに怒った人がいたそうだ。「乗る時間を短くして運賃が高いとはけしからん」という理屈だったらしい。苦笑しつつも、忘れていた牧歌を聞くような懐かしみがわく(今日の例の天の声)


《重ねた齢(よわい)のせいか》だって!
50代のくせに、おおげさに言うな。
人間60代にならないと、ワカランことがある。

《技術への期待は昔ほど素朴ではない》
そうだろうか、朝日新聞にいるようなひとは、“素朴な技術への期待”しかもっていないから、いられる。

《苦笑しつつも》
なぜ苦笑なのか。
ぼくはただ笑える、たいして可笑しくもないが。

《忘れていた牧歌を聞くような懐かしみがわく》
ほんとかいな?
朝日新聞のひとに、<忘れていた牧歌>があるのだろうか。

ぼくは昔の朝日新聞を《懐かしむ》が、それは自分のかつての生活習慣に対してである。
内容や、文章にではない。

いつもいつも、しらじらしい顔で“すべてを解説してみせる”いやなヤツが、ガッコウにもいた。

そいつらが、いま、よってたかって<情報操作>をしている。

自分に都合の悪い情報は“書かない”。
自分にわからない<感情>は、書きようがない。

だから、いつもまったくつまらない“小市民根性”しかみえない。

こういうひとたちの<感覚>では、この社会は、絶対に変わらない。

そういう<意味>で朝日新聞は、“保守正道”なのだ。





Snapshot;夢A

2009-12-26 06:21:23 | 日記


今朝はやく、オシッコにいきたくなって起きたら(寝る前に水をたくさん飲んだ)、とても鮮明な夢を見ていたことがわかった。

田原総一朗の夢である(爆)
田原総一郎が自殺したという夢。

こんな夢を見ているとは、オシッコに起きないなら知らなかった。




辺境にて

2009-12-26 05:35:03 | 日記
内田樹ブログから引用する;

繰り返し申し上げるが、現代日本の不幸の過半は「努力のしすぎ」のせいである。
私たちは疲れているのである。
私たちに必要なのは休息である。
『日本辺境論』が売れているのは、「もう努力するのを止めましょう」という(日本人みんながほんとうは聴きたがっている)実践的提言をなす人がいないせいである。
きっとこの後、潮目の変化を感じとった言論人の中から「日本人よ、ナマケモノ化せよ」といったタイプの言説を語る人が出てくるだろうと思うけれど、そういうことを「せよ」という当為の語法で語るのがもう「刻苦勉励」なんだよね。
こういう提言は「オレ、ちょっと疲れちゃったからさ、休まない?ねえ、休まない?」という懇請の語法で語られないと通じないのよ。
(以上引用)


内田樹さん、『日本辺境論』売れて、よかったね。

『日本辺境論』には上記のようなことしか書いてないんだから、まだ買ってないみなさん、買う必要はないってことさ。

大江健三郎の『水死』を買おう(ぼくもまだ買ってないが;笑)

内田樹に限らないが、その“論旨”に賛成しても、どうしても嫌いなひとというのがいるね。

つまりあらゆる<文章>は、そこで何が言われているかということじゃないのさ。
恐ろしいことに《文は人なり》なんよ。

もちろん内田樹には“論旨”もおかしいこともあるが(笑)

たとえば上記でぼくが不快なのは、なんで内田の本で、“日本人は努力のしすぎだ”なんてことを読まされなければならないのか、ということさ。

しかも《懇請の語法で語られないと通じないのよ》という“ネタばれ”付きでさ。

ぼくは<外国>から理屈をかっぱらって、つまらない四方山話をするひとは、<下品>だと思う。
品性が卑しいことが<文面>からただよってきちゃう。

もちろんこのひとのブログでは、その卑しさも堂々とお書きになっておる。
そういうのを、“率直でいい”と感じる親切な愛読者も多々いらっしゃるのだろう。

内田さん、もうカネも溜まっただろうから、ごゆっくりお休みください。

ぼくは<辺境>を論じてなどいない。
辺境に生きている。





<それにしても>

”サンプロ”を降板する田原総一朗のギャラが1回100万円近い(推測)というのには、恐れ入る。

やっぱ有能なひとのギャラは高いのね。
もちろん皮肉である。

こういう無駄ガネを貧者に分配すべきである。

すべての<テレビ>タレントに言っている。